よしなごと徒然草: まつしたヒロのブログ 

自転車XアウトドアX健康法Xなど綴る雑談メモ by 松下博宣

日本教と日本的人的資源

2009年07月05日 | No Book, No Life


日本人はよく集団主義的だと言われてきた。しかし、労働経済の小池和男さえもが、日米の企業社会の雇用者の行動様式を分析して、日本人は実は個人主義的だといっている。

「日本人=没個性=集団主義的」というのは、ステレオタイプな見方にすぎないのだろう。かといって、個人主義でもない。「個人主義でない」というアイディアは明治の昔から、西洋に接した内村鑑三、南原繁、夏目漱石、芥川龍之介、福沢諭吉らが、ずっと考えてきた大きなテーマ。

個人主義でもなく集団主義でもない。ではなんなのか?中間領域に横たわる仲間主義である、というのが仮説的な答え。

鋭利な個人主義で世間に屹立するのでもなく、強固な絆を共有する集団に自我を積極的に帰属させるわけでもない。また一神教の構造で神様と契約を結び、個人の救済をひたすら求めて信仰をするわけでもない。また宇宙の法則をまんなかに置いて自覚的に無神論をいただいて生きてゆこうというんでもない。

温度の合う仲間、利害が対立しない仲間、個と集団の緊張がゆるやかなに緩く結び付く仲間主義こそ、日本人の行動特性じゃなかろうか?このような疑問から論を拡げていったのが奇才・山本七平(故人)。

さらに正統的社会科学を網羅的に渉猟した小室直樹は山本七平の日本学を下敷きにして「日本教」なる行動様式を分析する。「日本教」といっても奇天烈な新興宗教ではない。トランスディシプリナリーな社会科学、人文の知見を動員して日本人の行動様式をひも解く説明原理の集大成のようなものだ。

山本七平、小室直樹の知の系譜は、あまたあるウゾウムゾウの日本人論を押さえ傑出した議論をしている。「仲間主義」にとって貴重な知見の提供元。しかし、この論のあまりにもトランスディシプリナリーさのためか、専門分化しすぎて固まってしまった学問の世界はこの種の議論に照準を合わせるほどの度量の広さはなかった。

「日本教」を知的枠組みとする日本的人的資源管理論があってもよい。というか、人的資源管理論をローカライズして日本的~とするときには、「日本教」にようなメタな枠組み設定が要請される。

経営学カテゴリーのなかでも人的資源論はジャパナイズされやすい領域。ガラパゴス的HRM=日本的人的資源管理論を窮極させてゆくとタコつぼにハマりがちだが、普遍の中でニッポンHRMを分節させてゆくには、グローバル企業で展開されている普遍主義的HRMとの比較が欠かせない。