よしなごと徒然草: まつしたヒロのブログ 

自転車XアウトドアX健康法Xなど綴る雑談メモ by 松下博宣

Giant MR4-Rで、しまなみ海道2回目

2012年03月22日 | 自転車/アウトドア

仕事のあいまを巧みに?ぬって、しまなみ海道を走ってきた。

 

昨年12月に走ったコースとは逆の、尾道→今治コース。

自転車は、新調したGiant MR4-Rというコンパクトな輪行ができる快走用の24インチ。

前回、ここを走った時に、コンパクトな輪行ができる快走車が欲しくなり、状況が整ったので慎重に選定し求めた一台。

わが家にとって15台目の自転車となる汗)

 

新尾道駅で降りて組み立てる。

所用時間は5分くらい。

ランドナーに比べ速い!特に走りだしの加速がよく、高速クルージングの感覚もいい。

長年乗り沿ってきたランドナーやキャンピングのじわっとした深い味わいとは異質なシャープで軽快な世界だ。

このバイク、輪行がコンパクトにでき、かつオンロードの快走ができるという異質な要求の新しい結合(シュンペンター)を狙った自転車だ。そういう意味で、MOT(Management of Technology)的に言ってもイノベーティブな自転車なのだ。詳細は、また折につけ時間があれば書いてみたい。(参考ブログ

仕事がてら地方にやってくるとき、コンパクトに輪行して、現地でサッと組み立て、デイパック一つ背負ってのんびり走る、でも快走にも対応という自分スタイルにあっている。

実は、この車種は、伝説の自転車ビルダーといわれる荒井正さんがGiantに在職していたころ、創意工夫をめぐらし企画、制作した日本発のモデル。

その後、荒井正さんは、現在、片倉シルクを進化させるべく、その名も『絹自転車製作所』を立ち上げ、斬新な自転車を手作り一品製作している。自転車系刷り合わせ系ものづくりの一つの典型のような方だと思う。

稀有な御縁をいただき、1974年製の片倉シルクキャンピングを保有する自分としては、荒井さん、そして、シルクのスピリットの一端に触れるという意味では、「同類の系譜」に乗るということなのだ。(けっしてランドナー教からの改宗、コンバージョンじゃない)

 

向島まで小さなフェリーに乗って移動。

一人100円。

あとで、フェリーのオジサンが、「その自転車、あんたの?だったら、もう10円」と言われて10円を追加徴収された。とほほ。まあ、いいか。

 

向島の裏道を走ってみる。

津々浦々に現れる情景はそれぞれに一葉の絵のよう。

瀬戸内のまったりした風景。


 

前回、訪れることができなかった大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)を参拝。

日本総鎮守とも呼ばれる由緒、まさに別格の神社。

樹齢2600年以上といわれる御神木の周囲には神気が凛と張り詰める。



 

最後の大島の亀老山。

標高307mの頂上へのヒルクライム。

平均斜度は10%はあったか。

はあはあ、ぜいぜい。

でも、この絶景に救われる。

 

 

夕日の来島海峡大橋。

まさに「明日に架ける橋」(Simon & Garfunkel - Bridge over troubled Water←ちょっと古いね)

この夕日に向かって橋を渡れば明日になるのだ!

この情景に対峙した以上、どんな明日にだって立ち向かえるぜ!

そんな妙な感覚にとらわれる。

 

コンゴ川に沈む夕日もよかった。

でも、来島海峡大橋から望む夕日も、まさに絶景。

強烈なパワー。

3カ月間に2回も同じコースを走るのは初めて。

たぶん、異なった季節に、3回、4回・・・・走ることになりそうだ。


仏語圏アフリカ保健分野支援ネットワーク拡大セミナーで講演とパネル

2012年03月20日 | 健康医療サービスイノベーション

アフリカのコンゴ民主共和国から帰国してからほどなく、倉敷中央病院(岡山県倉敷市)から近畿中央病院(兵庫県尼崎市)へと関西方面を回って招待講演をこなしてきました。

これらの招待講演と相前後して、しまなみ海道を尾道から今治まで自転車で走ってきました。

3月は、グローバルとローカルな活動のミックスです。さて、3月のグローバル活動の節目として、3 月 31 日(土)13:00-17:00 オープンセミナー「仏語圏アフリカ保健分野支援ネットワーク拡大セミナー」(国立国際医療研究センターと国際協力機構(JICA) の共催)で講演とパネルします。

私のテーマは、「アフリカの保健分野支援における政府・国連・企業間の相乗効果を持つ協働的パートナーシップ- 社会的企業としての国際保健医療協力事業モデルの観点から 」というもので、話題提供の後、パネル・ディスカッションとなります。

ポスター詳細案内

グローバル・ヘルス、知識創造、保健分野の国際協働、ソーシャル・シェアリング、サービス・イノベーション、アントレプレナーシップ、国際社会起業、貧困、人権、国際貢献、保健リソースの最適配分、Base of Pyramid、国際保健バリューチェーン、インクルージョンなどのキーワードにピンとくる方、参加してみてはいかがでしょうか?

参加費無料、希望者は、飲み会あり。私は、飲み会モチ参加です。


コンゴ民にて5S-KAIZEN-TQMでchange maker支援

2012年03月05日 | 講演放浪記

(会議の始まりと終わりはコンゴ民主共和国国家国歌斉唱!)

講演放浪記も、中央アフリカのコンゴ民主共和国(以下コンゴ民)にまで足跡を残すことになった。

今回は、国立国際医療研究センター/国際協力事業団の研究協力員として、コンゴ民の保健省のofficialsの方々を対象に、戦略的マネジメントのレクチャー&ワークショップ支援を行ってきた。

最貧国のひとつコンゴ民:1人あたりGDP328ドル。日本1人あたりGDP33,805ドル。経済規模、コンゴ民は日本の100分の1。いわゆるBOP(base of pyramid)に位置する中央アフリカの国がコンゴ民だ。

コンゴ民に行く数日まえに、大統領府付近で銃撃戦があり、帰国してすぐに、コンゴ川を挟んだ向かい側のコンゴ共和国の軍事施設で200人以上もの死者が出る「事故」が勃発している。

ちょうど、その騒乱状況の狭間を突いてのコンゴ出張だったことになる。

(キンシャサの街で見かけた絵画)

health policy & management界隈では、global healthというキャッチワードが目を引く昨今。威勢のいいキャッチワードはともかく、現場のフィールドで、リアルな保健行政を対象に具体的なツールを活用して実行するというレベルまで踏み込んでいるケースはさほど多くないだろう。

5S-KAIZEN-TQMといえば、大方の経営学者や技術経営(MOT)系の方々ならば、日本の製造業に発祥する、あの品質管理手法ね・・・という反応が返ってくる。

たしかにそうだ。ほとんどの製造現場を持つメーカーは5S(整理、整頓、清潔、清掃、躾)は、空気のごとく、あたりまえに、基本動作としてやっており、目新しいものはほとんどない。

ところが、「所変われば品変わる」の喩の通り、この手法が、日本やスリランカを経由して、大方の日本産業人の想像を越える「進化」を遂げて創発しているのだ。

実は、モノやサービスといった境界を取っ払ってみれば、そこには、グローバルに拡がるモノ→プロセス→サービスという俯瞰図の中にco-creationを内包して遷移・伝搬していているこの手法の普遍性が見えてくる。

すなわち、アフリカ大陸の46の国々のうち、15カ国では、5S-KAIZEN-TQMが健康・医療・保健サービスの現場、そして保健行政の現場では燎原の火の如く拡がりつつある。また、アフリカのこの動向に注目してか、OECDもKAIZENには一定の評価を与えているようだ。

(Dr. Tshiamalaの5S-KAIZEN-TQMの実践報告)

コンゴ民主共和国では、健康・保健・医療マネジメントの手法となった5S-KAIZEN-TQMを、さらに、保健行政マネジメントのツールとして活用している。これは世界初の画期的なことだ。

このムーブメントをやわらかく支援しているのが、NCGM=国立国際医療研究センター(国際医療協力部の池田憲昭医師が牽引)やJICAだ。支援の対象は、ハコモノ、橋、道路など目に見えるハードウェアから、インテリジェントなソフトスキルへと変化している。インテリジェンスサービス支援とでも言ってもよかろう。

さて、日本やアメリカでmanagementに関して話をすることは多かったが、アフリカの地で話したことは初めて。コンゴの方々と膝を交えて語らい、彼らのmanagementに対する捉え方がわかった。

・managementは支配する側の技術。

・植民地として収奪され続けてきたコンゴ民主共和国にあったのは、支配されるmanagementのみ。

・収奪、搾取する側としてのベルギーから見えれば、収奪、搾取の対象となるコンゴ民の民衆を無知の状態、managementから遠い状態に維持して置くのが得策だった。

なるほど、以上の3点は、欧米の先進国だけを『海外』として眺める視点からは見えてこないことだ。

         ***

(Dr. Ikeda and Dr. Raymond)

西洋に発祥した近代資本主義の実行形式である伝統的なマネジメント手法と対置すると、経営手法(change management)としての5S-KAIZEN-TQMには以下のエレメントがある。

・搾取・収奪されるmanagementから、主体的・自律的に取り組むmanagementへの転換。

・一方的に管理するmanagementから、参加・参画するmanagementへの転換。

・植民地支配者・宗主国・旧宗主国からのトップダウン的managementから、草の根型のボトムアップ型のmanagementへの転換。

 (世界第2位の大河、コンゴ川の夕焼け)

収奪され、搾取され続けることによって近代資本主義を「資源」によって支えてきたコンゴの大地=フロンティア。managementが疎外されてきた、この国の、保健サービスという異界で、創発している5S-KAIZEN-TQM。

なんと、アフリカの国では「5S-KAIZEN音頭」やそれにあわせての踊りまでもが登場している。変えることは楽しいのだ。自分たちで工夫して変わることは、誰にでもできる自己表現であり、身の回りの「世界」を変えてゆくことなのだ。

やればできる、そしてその楽しさを素直に実感できるとき、アフリカの人々は、歌や踊りでそのよろこびをストレートに表現するのだろう。

5S-KAIZEN-TQMは、たしかに手法なのだが、実はアジア・アフリカの国々に伝搬して受け入れられているのは、この手法に埋め込まれている、デザインされている、ある種の文化(culture)ではなかろうか。

参加者からは、5S-KAIZEN-TQMを保健のみならず、教育、地域開発などの領域にまで広げたいという、うれしい声もあがった。

だれもがchangeのownerであり、主人公であるこの手法の特性からすれば、アフリカならではの反応なのかもしれない。social entrepreneurshipを発揮するためのツールという位置づけもできるはずだ。

NCGMやJICAに所属する専門家諸氏は、いってみれば、social innovationを支援する"in"trepreneurだ。組織内起業家には、innovationを創発させるための、グローバルリテラシー、リベラルアーツの素養、ファシリテーション能力など、専門スキル以外にも、多様で芳醇な人間力が求められる。

ともあれ、知的シャワーを存分に浴び、内実のともなった濃度の濃い議論に終始した旅だった。(本プロジェクトにおいて、松下を指名いただいた池田医師に感謝!) 


コンゴ民主共和国の惨状と資本主義

2012年02月20日 | 技術経営MOT

公用でコンゴ民主共和国へ行ってきます。行く案件は、国際協力機構と国立国際医療研究センターがらみのプロジェクトです。

このビデオは必見です。

コンゴの危機~知られざる真実~ 

このビデオに簡潔にまとめられているように、120年以上、コンゴという国は、コンゴの人々が自治、政治、経済のありようを決めたことがなく、すべて異国、外国、国内の私権によって簒奪、搾取されていた経緯があります。

なぜか?その理由の大きな一つが資源です。象牙、金、ダイヤモンド、ゴムに始まり、銅、コバルト、ウラニウムなどの豊富な埋蔵資源のためです。ざっと歴史を振り返りましょう。

          ***

1885-1908: レオポルド2世などによる領地の個人所有と搾取

1908-1960: 西洋列強による植民地支配と簒奪

1961:コンゴ人改革派リーダーの暗殺

1965-1997:ディクテーターシップによる抑圧、搾取、簒奪

1996-2002:ルワンダ、ウガンダなどの隣接外国でのジェノサイドとその悪影響など。

          ***

日本を含め、現代の先進国の技術経営はコンゴ由来の資源(natural resources)なしでは成り立たない状況です。自動車、エレクトロニクス、航空機、携帯電話、パソコン、そして原子力発電の核燃料・・・。

コンゴ由来の資源がなかったら、私たちの生活は成り立ちません。

さて、バリューチェーン(価値の連鎖)という観点でみると、資本主義国としての日本は、これらの資源を輸入して、R&Dを経て、資源を加工して、設計、製品化し、マーケティングして市場に投入するというフェーズに特徴があります。コンゴは、そのバリューチェーンの起点です。

バリューチェーンの起点から終点までを一括して、運営しているもの。それが近代資本主義。バリューチェーンの終点近くでも、現下の資本主義はガタガタしていますが、起点では、無残な簒奪、収奪、搾取のオンパレードです。それも1世紀以上の永きに渡って。

さて、資本主義のありかたについては、日経BPの連載などでいろいろ書いてきました。

で最近のリアル論壇では、「資本主義以降の世界」(中谷巌)がイケていると思います。この人(懺悔の人きどり)の前作は、ちょっと?でしたが、今回の本は、真摯な筆致で、ずいぶん、書きづらいことを大胆に描いています。見直しましたね。

で、この本で著者が描いている視点でコンゴを見ると、バリューチェーンの起点としてのコンゴは、まごうかたなきフロンティアだったということ。①西洋人が環境破壊をやりまくって好き放題に収奪してきた「自然フロンティア」、②西洋列強が植民地化して収奪してきた「地理的フロンティア」。

もちろん、西洋列強に支配、簒奪される寸でのところで、近代化を苦労して成し遂げて、西洋列強を跳ね返した明治国家としての日本の世界史的に特異な位置づけには健全なプライドを持つべきです。自虐史観はダメです。

その西洋列強の跳ね返し方(日露戦争、大東亜戦争)が、西洋列強(米国)の逆鱗に触れたので、日本は広島、長崎で原爆を落とされたということです。その原爆の組成物質もコンゴ(当時はベルギーの領地)から採れたものでした。そして、福島第一原発事故により、日本に降り注いでいる放射性物質の少なくない割合も、もとはといえば、コンゴ由来の「資源」です。

コトはかくも複雑です。その複雑なシステムの、非常に重要な一端がコンゴです。このあたりの事情を見てこようと思います。

見るだけではなく、状況のKAIZENに具体的に貢献することが、今回の仕事ですが。


facebookセミナーに出てお酒飲んできた

2012年02月17日 | よもやま話、雑談

昨日は、農工大・多摩小金井ベンチャーポートでのfacebookセミナーに参加。といっても、自転車&アウトドア関係の友人たちが多く参加するので、主眼はその後の飲み会だったのだが。

セミナーで新しいものごとに触れるとき、けっこう面白いのが、講師もさることながら、その場に集まったご面々との雑談だ。そしてそんな雑談の中で見えてくる集団的なプロフィール特性がけっこう面白い。

昨夜集まったご面々は、かつては大企業に属しながらも自立した侍業、コンサルタント、ベンチャー企業家の方々が80%を占め、残りの20%が、それらの方々をケアしたり支援したりする立場の方々。

いってみれば、活動の軸足を、既存の組織=集団から、個人の方向にシフトした、あるいはシフトしつつある人達だ。

と言いながらも、個人と集団を二項対立させて議論するのは、古い思考方法だと思う。個人の活動と、集団の活動を分離してデザインするっていうのも、そぐわない。

企業、団体、NPO、地方公共団体、学校、大学、同窓会、クラブ、私的な集まりなど、ありとあらゆるコミュニティと個人は入れ子構造、相互依存の関係になっている。二項対立ではない。いや、むしろ、個人のアイデンティティー、いろんな活動がリードして、集団やコミュニティのアクティビティや性格が形成される。

あたりまえといってしまえば、あたりまえ。ソーシャル・マーケティングの動向は、たぶんそのあたりまえの方向に展開している。

「コミュニティが個人の力をリード」ではなく、「個人の力がコミュニティをリード」。facebookのようなソーシャルメディアが、ソーシャルだと言われるのは、後者のベクトルが強くはたらいて新しいソーシャル性を後押しするメディアだからだ。その意味で、

facebook市役所

ドイツ警察がFacebookページで指名手配犯を逮捕しまくり

「キター!県民の皆さん」「新聞に抗議。不買運動しましょう」 Facebookで奈良県幹部   が“暴走”

という動きは、象徴的だ。

初歩的テクニカルな説明に終始するfacebookセミナーはつまらない。公・共・私にわたる関係性の構造と機能の大変化のなかでの個人の振る舞いを論じるような構え、大局観が必要だと思う。

①その構え、大局をどうデザインするのか?②そのためのテクニカルな対応はどうすべきなのか?こういう流れで、③事例を検討し、ヒントを共有し、テクニカルマターの応用ティップスを紹介する。そんな流れのfacebook活用セミナーを企画したら面白だろう。いっちょやりますかね。


一日断食

2012年01月20日 | No Book, No Life

30年以上も風邪で熱を出したことのない頑健無比な男がいる。昔も頑健、今も頑健。すごい。なかなかこういう御仁はいるものではない。彼は、「知的アスリート」を自称しているだけのことあって、目標を定めて断食を日常生活に取り入れている。彼のブログの一節、これがまたいい。

昨年会った時に、「奇跡が起こる半日断食」という本を紹介してもらった。おお、目からウロコ。それで昨年の2月1日に思い立って「半日断食」を習慣化してみた。なるほど、2か月くらいで体重がスーっと減る。

しかし、昨年の夏は、やれアメリカだ、トルコだ、スリランカだというように、仕事にかこつけて放浪し、ついでに現地の料理を食べ過ぎた。これがまずかった。3キロリバウンド。血圧が高くなった。

それで秋口から「半日断食」を再開。なんとか1年後の2月1日まで1年間で10kg減量にメドがついた。

そして、初めてまるまる「一日断食」をやってみた。最後の夕食を食べ、翌日、水分以外なにも摂らず、普段どおりの仕事をこなして、夜寝て、翌々日起きて、お粥など少量の食事をいただくというものだ。合計30時間以上なにも食べない。

半日断食で鍛えていたせいか、さほどひもじさや焦燥感もなく過ごすことができた。むしろ、普段は消化器官に回っている血液が、脳に回るようになったせいなのか分からないが、いい着想を得ることができて、原稿などはサクサク進み、読書のスピードもアップした。神経系が敏感になった感じだ。

普段は、過剰な摂食のために、ボーッとしていたということか。たぶん、そういうことなのだろう。

今回いい感触を得たので、仕事の合間を突いてタイミングをあわせ、成田山新勝寺の断食参篭(さんろう)に籠ってやろうと思っている。断食なので、当然飯はでない。だから、宿泊料金、もとい「修行」に必要な費用は2泊3日でたったの5000円。

往復の道を、自転車で走れば、さらに交通費は浮いてダイエット効果もあるだろう。復路で、どのくらい効果を体感することになるのか。このあたり興味津津だ。

さて成田山には充実した仏教図書館、仏教研究所がある。かねてから調べものをしたかったので、ここで断食や瞑想をしながら、どうせ時間はたっぷりあるので、いろいろその道の専門書を丹念に読みこんでノートを作ってみたいものだ。


謹賀新年

2012年01月01日 | 自転車/アウトドア

<柴又帝釈天>

明けましておめでとうございます。

大晦日はfacebookの「江戸町風流師走サイクリング」の仲間で、江戸川サイクリングロード、柴又、帝釈天界隈を走ってきました。

2011年は通年で1700kmしか走れておらず、2012年は積極的に時間を作ってこまめに走るつもりです。

<食堂 とらやで見かけたポスター>

2011年は、元日に自転車に乗って始まり、大晦日も自転車に乗って終わりました。

その間には、3.11、仕事、学会、コンサルティング、執筆活動、海外リサーチ、フィールド調査、欧州金融危機(日本にも飛び火)、いろいろありましたが、年の始めと終わりに大好きな自転車に乗ることができたのは、幸福なことでした。

今年はもうちょっと本腰入れて各方面、動きたいと思っています。

よろしくお願いします。


「生きる覚悟」

2011年12月24日 | No Book, No Life

年内最後の授業は、東工大の「生命の科学と社会」という授業の2コマほど。この授業を受け持っているのが御縁で、その講座の責任者、上田紀行先生から近著を贈呈頂きました。

著者の方からサインつきで本を頂くとは実に幸運なことです。授業のあと、100周年記念なんとかというビルのレストランで、鮭フライのランチを食べながら、わいわい雑談で盛り上がりました。

せっかくなので、一読後の雑感まとめ。

        ***

パワーに満ちた本です。

「人間は幸せになるために生きている。では、あたなにとって幸せとはなにか」(p34)

おっと。こう問いかけられて、読者として考えながらページを繰ってゆきました。

大きな問いを投げかけて、読者を巻き込み、当事者として自分が経験した物語を織り交ぜて議論を展開するという、いつもの言説の構えはさすがですね。この本を読み進めてみると、傍観者ではなく当事者としての読者になるように柔らかく、でもしっかりと迫られるような感覚にひたされます。妙な表現ですが。。

さて、処世術にばかり走る人は「得」のみを求め、「徳」から遠ざかってしまいます。市場、つまり「得」の世界では人はお金とモノを交換して効率、成果としてそれらを自明的に説明する数値がはばを効かせています。

処世術とは、いいかえれば世を処してシノいでゆくためのビジネススキル。いや~、起業家としてビジネススキルを研鑽、実践して、技術経営やビジネススキルアップ教をば、大学院などで教えている自分としては痛いところです。

このあたり、痛いほどに感じているので、東工大の「生命の科学と社会」では、ビジネススキルとはまったく関係のない、視えない世界=死後の世界の認識と医療サービスとの接面に絞っているのですが。。

筆者は処世術よりも「処生術」のほうが大事だといいます。「処生術」とは、生まれ、老い、病を得て、やがて死んでゆく人生の旅人としての生老病死苦に寄り添う当事者としての構えです。

市場経済のなかでは、「得」が絆を作りますが、市場原理から離れたところでは「徳」が絆を作ることになります。(p82~第3章、「得」の絆から「徳」の絆へ、あたり)

本書でもダライ・ラーマとの対談が回想されていますが、「愛と思いやり」が母親と子どもという人間関係=絆の根っ子の根っ子にある、という指摘にはハッとさせされます。

そして「徳」を引き寄せるためには、神仏、死後の世界など(たぶん超越意識も含ませていいでしょうね)、あちら側の世界、つまり「見えない世界」との対話の構えが重要なのである、と説くあたりとても共感。ついでに言えば、「向こう側の見えない世界」との対話コードが凝縮されたものが霊性に関わる文化だという主張は「スリランカの悪魔払い」以降、一貫してますね。

でも、その対話・交流コードがだんだんと弱まっているのが日本の問題の、大きなひとつじゃないのかな、というのが2人の共有された認識ですね。(たぶん)

死後の世界には2つあるのだろう。ひとつめは、いわゆる自分が死んでから遭遇するかもしれない死んでからの「世界」。ふたつめは、自分、あるいは自分の集合である現世代が次の、そして次の次の・・・世代へ残す「世界」です。

まあ、ひとつめの世界は、無難に不可知論(agnosticism)の立場をとっておけば、目をそらすことができます。でも、ふたつめの世界から逃げるためには不可知論はとりずらいですね。

いずれにせよ、どちらの世界も「自分」には見えません。見えないから実在しないと切り捨てることは容易でしょう。ここで、筆者は福島第一原発を議論の俎上に乗せています。

見えないものを見る力が想像力です。瑞々しい感受性をはたらかせて「向こう側からの呼びかけ」を受信して「狭い世界の中の合理性に従って自明な行動を繰返すのではなく、その閉じた世界からではなく、より広い世界から投げかけられてくるメッセージを聞き取る」(p165)ことが、実に、実に大事なんだろう。

これが、「生きる覚悟」ということなんでしょう。

        ***

サインしてもらった裏表紙には、「覚悟を生きる」とあった。

「生きる覚悟」⇔「覚悟を生きる」

はてな?

生きる覚悟とは、ふたつの向こう側の世界と自分を自覚的に、かつ勇気をもって接続すること。そして、覚悟を生きるとは、そのような世界(観)のなかで当事者として、まわりのいろいろな出来事や人々と絆を分かち合って寄り添うことなのだろう。

この構えこそが、現代日本という狭隘な閉鎖系で受ける同調圧力を陶げることになるのだろう。

今度会った時にでも本人に聞いてみたい。


嗚呼、しまなみ海道!

2011年12月15日 | 自転車/アウトドア

<来島海峡大橋、3連発>

幸運にも、松山での充実した仕事を終えてから、ここ3年構想していたしまなみ海道約70km、標高差350mをソロで走ってきた。(高低状態表

今年はいろいろスケジュールがあわなくて、毎年恒例の夏の北海道自転車ツーリングができなかたった。なので12月のアウトドア・メインイベントとして「しまなみ海道」で勝負をかけたのだ。

もっとも4日前の日曜日には、サイクリスト仲間で、わいわいがやがや、やりながら「江戸町風流師走サイクリング」で60km走っているが、これはこれで、とても楽しいサイクリングであった。(最近は各方面の友人さんとの交流、雑談はfacebookでやっているので、ブログでは省略ですね)

当初はクロモリフレームの決戦用アルプスパスハンター(改)をヒコーキ輪行して松山まで来て、仕事が終わり次第組み立て、松山~今治約40kmを走ってからしまなみ海道になだれ込むというプランを考えていた。

しかし、ウェブを調べていると、近年、日本中いや世界中からモノ好きなサイクリストが押し寄せるようになり、レンタル自転車を自治体もマジメにバックアップしていることが判明。詳細はこちら

ならば、ということで、通常の、通年講演・コンサルティング用・世俗的・身過ぎ世過ぎ装備に加え、冬季低地用のアウトドア用・神聖・日常生活脱出装備をデイパックに詰めて、松山から今治までは予讃線の特急で移動。

今治駅の近くにできたサイクルステーションで自転車をレンタル。レンタル料500円、乗り捨て料金1000円。(乗り捨て料金1000円は高い!)

自転車の名門メーカー=ブリジストンサイクル社製。フラットバー、24段切り替え。フレームはアルミ。フォークはストレート。まずまずの整備状態。

サイクリングロードには、わかりやすい案内がところどころ出ている。

サンライズ糸山サイクリングターミナルから見上げる来島海峡第一大橋は迫力満点。ランドスケープ・アーキテクチャとしても、芸術の域に達しているのではないか。

来島海峡第二大橋、来島海峡第三大橋と続く。3つの巨大橋梁が連なる世界初の3連吊り橋。4105mもの距離に渡り、海の上を走るという稀有な経験を体験できるのだ。

世界でもonly oneのエクスペリエンスを獲得できるスポットが来島海峡大橋なのだ。

ちなみに、来島海峡大橋やしまなみ海道のことを教えてくれた畏友サイクリストは「大橋」さん。大橋さんに感謝。

来島海峡大橋3連発は、橋を渡るのではなく、海の上を滑空するという「観想」をしながら走るといいと思う。(口伝)

サンライズ糸山からループをえっちらおっちら登っていくと、ご近所から来たおばさんが、いいものをやっているから、ぜひ見てゆけという。見れば、造船所では竣工したばかりの船の進水式をやっていた。

迫力。

ループをリーンしながら回ると360度の風景が視野に次々とに飛び込んでくる。

海の青さ。しまなみのたゆたゆしい島影。紅葉。

瀬戸内の島々の影は、たおやか。

しまなみ海道!とはよくぞ命名したものだ。

この日は雲量が総じて高く、風も強い。この冬一番の寒さ。

途中で雨が降ってくるも、またもゴアテックスジャケットの威力で凌ぎきる。

多田羅大橋。

たゆたゆしい自然の情景の中に忽然と出現するアーティフィシャルな光景。

因島大橋の自転車道路は、自動車用道路の下に設置されているため、さほど眺望は得られない。

          ***

仕事と組み合わせてのアウトドア&サイクリングが、なにかライフスタイルのようになってしまった。仕事=本流、アウトドア&サイクリング=脇道のように見られなくもないが、実際はいささか違う。

自転車に乗っている時は、アウトドアやサイクリングこそが主たる流れ、つまり人生の主旋律であり、身過ぎ世過ぎの仕事は、それを実現するために単なる手段方法にしかすぎないと思えてくるのが不思議だ。

 


2週連続で松山へ

2011年12月13日 | 講演放浪記


(道後温泉山の手ホテルにて)

愛媛県松山を訪れるのは2週連続です。松山は大好きな町なので実に幸運なことです。

今回は、愛媛県看護部長・教務責任者会にて「チーム医療とケアサービスのイノベーション」についてのお話です。愛媛県下の多くの医療機関の看護部長や教務責任者の方々にお集まりいただきました。

その後、愛媛大学医学部付属病院の田渕典子副院長(看護部長兼務)と3人の看護副部長の方々と道後温泉のとあるホテルで会食を楽しみました。

チーム医療、業務改善、TQM、地域連携共同チーム、地域における大学病院の役割、地域に根差したIntegrated Health Systemの創造、医療と福祉の融合、新しい医療福祉サービスの創造、看護サービスの土台つくりなど、愛大病院はとても先駆的な取り組みをしています。

医療機器、薬品などモノレベルのイノベーションは、病院という地域のカナメ、そしてさまざまな保健、福祉、介護、医療に携わるネットワークの「人の手」を通してサービスとして患者に届けられます。MOT(技術経営)的には、ものつくりの方に注目がいきがちですが、モノはサービス(臨床プロトコル、手順、基準、術式、介入方法、サービス標準、チーム医療のプラクティス、接遇などなど)を通して真価を発揮するという構図を忘れてはいけないでしょう。

そして、大切なことは、ケアする人々を支える仕組みづくりです。このあたりのお手伝いをしています。


引き寄せ、引き寄せられる

2011年12月11日 | 日本教・スピリチュアリティ

このところ、多忙につきブログ更新もままならず。

この2週間で四国松山に2回行き、その間に九州へ飛んでいろいろ医療サービスの品質改善、イノベーション、ものことづくり、標準化、地域連携、マネジメントに関するフィールド調査をしています。

どうも勢いのある方から、突然話が舞い込んできて、その勢いにこちらの勢いが加わり、モノゴトが急展開してゆくという流れが続いています。

     ***

「引き寄せ」やシンクロニシティは、上図の内側の世界に属することです。すなわち、個別に文脈依存的で、特殊であり、意味や物語といった主観性、そして意味的な領域です。

したがって、左側のパラダイム(たぶん工学などが典型)から見れば了解不可能です。

さて、医学、看護学、経営学はアーティスティックな側面があるものの、サイエンスの側面が濃厚です。つまり、普遍性、一般性を目指し、エビデンスを重視して効果や効率を論理的に探究してゆきます。しかし、「学」をはずした医、看護、経営となると、対象となるのは上図の外側の世界のみならず、内側の世界にまで拡がってきます。

医療管理、看護管理、経営管理、技術経営などマネジメント系のディシプリンが複雑で魅惑的なのは、マネジメントする対象が、内と外両方にまたがるからなのでしょう。さらには、人が対象となるサービスをマネジメントするということは、実に奥深い領域にまで手を差しのべることとなります。

     ***

さて、愛媛大学医学部付属病院副院長の田渕典子さんとは毎回会うたびに、看護サービス・マネジメントのいろいろな話もさることながら、精神世界、死後の世界、シンクロニシティ、引き寄せの話に花が咲きます。

どうやらそのテの話というのは、後に残存する磁力のようなものがあり、その残存パワーが尾を引いていろいろな現象、とくに人と人との出逢いに結びつくようです。面白いですね。

     ***

先週は、日本医科大学の長谷川先生に急に「引き寄せ」られて松山を訪問、愛媛大学医学部付属病院の医療福祉支援センター長の櫃本真聿先生と御縁をいただきました。

松山空港からお車で、大洲の臥龍山荘内子町の内子座 をご案内いただき、道々、町おこし、パブリックヘルス、医療福祉連携に関する非常に奥深いディスカッションの渦巻きでした。

地元ラジオ局のパーソナリティもやられているという櫃本先生のパブリックヘルス論、医療福祉連携の方法論、思想、哲学。奥深い。

どれもこれも、刺さる話。

その夜は、またも引き寄せが発動して、田渕さんと3人の副看護部長の方々を囲んで松山市内で楽しい、楽しい宴会。

翌朝、道後温泉本館の3階の個室を占拠して、朝から湯の霊気を全身に稟けてから愛大を訪問。医療サービスの質改善とイノベーションをテーマを抱き、病院の要所要所を案内いただき、議論、議論、議論。

その後、3人の一行は福岡へ移動。そこでJICAプロジェクトの美しき方々と割烹よし田の肴を満喫してから最終便の新幹線つばめで熊本へ移動。

翌朝は「おとなの学校」を訪問。理事長の小山敬子先生と議論X議論。従来型の医療福祉をブレークスルーするサービスを展開する、おとなの学校は老年期のヘルスサービスのイノベーションの坩堝です。

出ました、波動ジャンキー。←これ、小山敬子先生のブログです。どうやら同じような波動をもつ人間は必然的に引き寄せられるようです。

みなさんと、剣道場だった素敵な古い建物で昼食を御一緒してから、興奮冷めやらぬ間に、済世会熊本病院の医療サービスTQM部へ。医療サービスのTQMと地域連携プラクティスのヒアリング。

次は、熊本大学医学部付属病院。対応いただいたのは医療情報経営企画の宇宿(うすけ)先生。神経内科が御専門とあってか、奥深いたゆたゆしいatmosphereの先生。

地域健康・医療サービスの質は、地域連携クリティカルパスというプラットフォームによって担保される・・・などのお話を伺いました。

なるほど、熊本では医療機関のcoopetitionが進んでいます。競争的でもあり、協働的でもある共創関係が進展中。これってco-creationですね。

一行に宇宿先生を加えて4名で、にしくまもと病院を訪問。林茂院長の病院再建ストーリーはすさまじいの一言。医療サービスの質を下支えする医療機関の世代継承、ガバナンスには問題山積。

医療連携から連合、そして統合へのパスを整備するためには、特別医療法人の制度だけでは不十分。トランスペアランシーとアカウンタビリティを伴う、非営利株式会社を発展させてような仕組みがぜひとも必要です。

いずれ、医療システムを生態的に見れば、連携→連合→統合の方向に日本の保健、医療、福祉のシステムも変化してゆくでしょう。たとえばIntegrated health systemのSentraのように・・・。

統合への入り口は、地域連携クリティカルパス。やがて、連携はマネジメント、ガバナンスにまでおよび、経営統合にまで至るでしょう。

割烹火の国で食事をしたあと、スザンヌのお母さんがやっている立ち飲みバーへ移動。そこへ熊本日日新聞でミカジメている大先輩N口氏が登場。

なんと、宇宿先生とN口氏は地元の中高学校で同期だったことが判明。なんともはや、引き寄せが、またも発動したのでした。

     ***

外側の世界にどーっと出てゆくといことは、実は、内側の世界に深く静かに沈潜することなのかもしれません。あるいは、古人が言った顕密一如なのかもしれません。

「引き寄せ」とは、そのような機微にやどる人生のスパイスのようなものだと思います。


自己紹介

2011年12月02日 | About me

早稲田大学商学部を卒業後、ブリヂストン株式会社海外部とMedi Co-opに勤務。その後、渡米してコーネル大学大学院にてMS取得(Policy analysis& management)。国際的コンサルティング会社Hay Management Consultantsにてプロフェッショナル経験を積んだ後、株式会社ケアブレインズ(CareBrains, Inc.)を起業。創業社長・代表取締役として同社の成長基盤を構築後、上場企業に売却しイグジットを果たす。

これらのコンサルティング、ビジネス経験をベースにして、戦略、人的資源管理、健康・医療サービス・システムデザイン、技術経営、アントレプレナーシップを中心としたノウハウを蓄積。現在はこれらの知見を活用して、大学教授、経営コンサルタント、講演講師、エンジェル投資家として活躍中。

得意とする産業は、医薬、医療機器、医療機関、テレコミュニケーション、消費者向けエレクトロニクス、自動車、非営利組織、高等教育、ソフトウェア、オープンソース・ソフトウェアに及ぶ。米国、欧州、日本に本社のあるグローバル企業に対してコンサルティングを提供。2008年から2009年まで、内閣府社会イノベーション研究グループの研究メンバーを歴任。これらによって得られた知見、経験をベースにして13冊の専門書、ビジネス書を出版。

I. 戦略 :

・企業戦略デザインと実施

・新規事業評価、分析、計画、実行

・市場化戦略と実行支援

・戦略的アライアンス構築

・財務分析とファウンディング

II. 人的資源マネジメント :

・マネジメント再設計と戦略計画策定

・マネジメント、ガバナンス設計

・短期および長期の報酬戦略策定

・コンピテンシーモデルのデザインと運用支援

・人事評価、アセスメント

・モチベーションとリーダーシップ

III. 健康・医療サービスのシステムデザイン :

・臨床現場の医療サービスのシステム設計

・業務改善、品質改善、安全のための分析と実行

・バックステージサポートシステムのデザインと実行

・臨床フロントステージ手順・基準・標準の開発

・統合的健康・医療サービスを実現するためのチーム医療

・スピリチュアリティとケアサービス

IV. 技術経営 :

・ビジネスおよび技術のバリュエーション

・技術の商業化

・技術マーケティング

・戦略的事業提携とバリューチェン構築

・技術ライセンシングとアクイジション

V. アントレプレナーシップ:

・起業開発

・ソーシャルエンタープライズ開発

・スタートアップのバリュエーション

・ビジネスモデル分析と開発

・イノベーション創発のためのリーダーシップ

 

◎現在の主たる活動:

・国立大学法人東京農工大学産業技術専攻 教授

・日本工業大学大学院技術経営研究科 客員教授

・札幌市立大学大学院看護学研究科 客員教授

・国立大学法人東京工業大学 非常勤講師

・NPO法人国際社会起業サポートセンター 理事

 

担当授業:

・東京農工大学産業技術専攻(旧技術経営専攻):「アントレプレナーシップ」、「人的資源管理論」、「技術企業経営概論」、「マーケティング戦略論」

・日本工業大学技術経営専攻:「アントレプレナーシップとベンチャー企業経営」

・札幌市立大学看護学研究科:「保健医療福祉サービスのマーケティング論」、「看護開発学特講」

・東京工業大学:「生命の科学と社会」(一部)

 

◎趣味:自転車ツーリング&アウトドア

 

 


自己紹介(ナラティブ)

2011年12月01日 | About me

へんな学生

早稲田大学での学部学生時代は、自転車に乗って過ごしました。ほとんど日本全国を自転車で走り、山岳地域の峠を通算して300位登りました。最も活動的な年は、1年あたり150日は大学や家を離れ、自転車を駆って寝袋、テント、炊事道具を持って山野を走りまわっていました。

自転車に乗って旅をする技術は、自由に生きるという地平を開拓するに余りあり、体力、精神力のみならずリベラル・アーツの涵養に資するところ大いなるものがありました。

商学部に入って分かったことは、ほとんどの経営を教える先生に経営の経験がなく理論や方法論を教えることに終始していたことです。そこで、実務と理論を統合し普遍性を具備した社会科学としての経営学は欧米の大学院で窮めることとし、学部時代は将来の留学に備えて、まずは自転車を機軸とするリベラルアーツと英語の修練に集中することにしました。

いまだ脆弱なものとはいえ古今東西の書に親しみ孜孜たる勉学の基礎を創り得たのは、数少ない学部時代の収穫でした。とはいえ当時の早稲田通りには古本屋が軒を連ねており、社会科学系の古本をと紐解くことにも熱中しました。神保町にもよく通い、歴史ものにはじまり雑駁な事柄を好んで読むのはこの時代からの習慣となっています。

自転車冒険とアウトドア

大学3年次までにはほぼ日本の全県を走破しました。でも自転車大旅行への情熱止みがたく、
3年から4年にかけて、大学サイクリングクラブの仲間と3人パーティを組んで、インドのニューデリーからネパールのカトマンズまで自転車で冒険の旅<expedition>をしました。

この自転車冒険旅行は強烈なもので、初めての海外経験は自転車による前人未到のルートでした。当時1970年代後半、1980年代前半はインドの田舎には日本人の足跡はまったくなく、サイクリストとしては未開のルートを走ったことになります。

この旅では、現地の人々(役人、もの売り、木賃宿、取り囲む群衆、食料調達、その他もろもろ)と交渉することが僕の役割でした。ヒンドゥー語は片言しか話せないので、ほとんどのコミュニケーションは下手な英語です。

当時、英語の鍛錬に熱心な若者の多くがそうであったように、英検1級はほとんど苦労せず楽しみながら取得していました。英検やTOEFLは、目先、口先、手先の上っ面な英語運用能力の一部の証明にこそなれ、アジアの奥地でサバイバルすることに資してはじめて身体化できるものだと勝手な「英語道」を構想し悦にいっていたのは面白いばかりです。

当時、生きる術としての英語を体得しながら世界を走ってゆくことに牧歌的ながらも横溢するロマンを感じていました。当時はポカラやカトマンズには欧米からやってきたヒッピーがたむろしていて、夜な夜なマリワナをまわしながら世界の話に花が咲きました。

そこでアメリカのスタンフォード大学からやってきた応用数学専攻の大学院生と仲良くなりました。自転車に乗って旅行記を書き、一生放浪するという僕の人生プランの話をすると、「その計画は面白いが、学生としての勉強はどうなっているのか?同じ探検でも知的世界への探検のほうが面白いぞ」と諭され、おおいに気づくことろがありました。

インドでは英語(とくにダイアローグ)を足腰を使いながら使いました。不思議なもので、外国語の口頭表現能力というものは、生きるか死ぬかの修羅場、キッタハッタのゼニ勘定がからむ場、異文化の軋轢の場で使い込むほどに、よく身につくものです。

後年、アメリカに渡り国際ビジネスの最前線でも活躍することになりますが、英語によるタフな交渉スキルの基盤は実にインド・ネパールの自転車探検によって培ったものです。

体は頑健なほうですが、インドでは病気になりました。それは、三日熱マラリアという恐ろしいやつで、3日おきに、繰り返し激しい高熱に襲われました。熱でウンウン唸りながらダウンしてヒンドスタン平原で力なく横たわっている自分がつくづく情けなくなりました。

熱にうなされながらも、仲間と助け合って、計画していたすべての行程を自転車で走り切りました。カトマンズの木賃宿で、日本に帰ってからはとにかく大学を卒業してマジメに働いてお金を貯めようと決心しました。そして、次はアメリカに留学しようと決心しました。

このインド・ネパールの自転車探検旅行から、おおむね3つくらいの方向性が出てきました。ひとつめはこの旅で考えたことを異文化間コミュニケーションという視点から『日本人と英語』という論文にしたところ、幸運にも『English Journal』という英語学習雑誌の論文コンテストで1等賞を獲得しました。

それから『サイクルスポーツ』とう雑誌に「世界を走る日本人」という記事を書きました。これを読んでくださった池元元光さんという世界を走るサイクリストと知りあい、後日、日本アドベンチャーサイクリストクラブができました。この団体はその後発展し、世界を走るサイクリストを100人以上輩出しています。ともあれ、これらの経験からモノを書くが大好きになり、かつ習慣化しました。

みっつめは、歴史宗教的な探索です。御釈迦様が生まれたルンビニを訪れ仏教が伝搬したルートに思いをはせたり、チベット密教の影響が濃いカトマンズの寺院をおとずれ、チベットからやってきた密教修行者に出会って、自分の前世の一端に触れました。ダライラマの本を初めて手にしたのもカトマンズでした。

ビジネス

1981年、ブリヂストンタイヤ
という会社の海外部門で働き始めました。一度は日本の大企業、製造業の内側にはいって会社員になるのもいいだろう。しかし、年功序列・終身雇用スキームに乗って係長、課長、部長、事業部長という中間管理職になることは、まったく関心がありませんでした。はじめから、「腰掛」のつもりで入社したのです。このような自覚的かつ確信犯的な新入社員というのは珍しいでしょうが。

ある日、友人を介して病院ビジネスを展開する実業家と知りあいました。サラリーマンにない迫力、成長意欲、起業家精神そしてそれらを裏付ける妙な暗さと劣等感のある人物でした。熱心な引張りにあり、僕自身も実業家や起業家に憧れていたので転職しました。

一部上場企業をパッと辞めて海のものとも山のものとも分からないベンチャー企業のような会社(病院の土地建物を所有して医療法人にそれらを賃貸する業態)に移るのはキチガイ沙汰だ、と周りからは言われました。

このころ、フロリダ州タンパへ医療システムのリサーチに行きました。宗教系の病院を訪問したところ、キリスト教福音派でファンダメンタリストの善良な牧師さん(彼は戦後神戸に来て伝道、復興活動をしていた)と仲良くなり、彼の家にしばらく泊めてもらいました。この牧師さんとはよく話し合い、福音派の教義に触れました。

それがきっかけになって人格的一神教の由来を調べるようになりました。さらには、多神教、方面の探索に勢いがつきました。

結果としてこの転職は成功でした。なぜならば起業や新規事業の立ち上げのノウハウを大いに学ぶことができ、次の展開へ直結したからです。

コーネル大学

インドで抱いていた留学妄想が、だんだんと具体的な輪郭を帯びてきました。当時の日本にはきちんとしたビジネススクールはなく、本格的に経営学を中心として社会科学を大学院で学ぶためには、アメリカがいいという結論に達しました。

こと社会科学に関しては、似非学問や輸入学問しか教えない日本の大学院など、世界レベルから見えば無きに等しい存在で、日本語という壁をもって世界から隔絶された日本国内の学会はひたすら内向きです。日本に特殊な事象ばかりを対象にするあまり、世界に通じる普遍性<universality>が決定的に欠如しているのです。

アメリカには2300もの大学があります。その玉石混交の中でもIvy Leagueとよばれる大学群が学問水準、研究教育環境が傑出しているということを知って、さらにいろいろ調べてみました。

ビジネススクールでmanagementを学べ、他の大学院で本格的にpolicy analysis、health services administrationの知見を得て、social science全般を渉猟もできるコーネル大学からオファーが来ました。ラッキーの一言でした。

コーネル大学は全米No1の美しいキャンパスと豊かな自然に囲まれていて自転車などアウトドアが大好きな自分にとってまさにピッタリの環境。渡米したのは1986年のことでした。

1985年初には250円台だった円相場が1986年末には160円を突破。1987年のルーブル合意でドル安に歯止めかける方向で合意したもののしばらくドル安が進み、1ドル=120円台にまで上昇しました。1987年は経済成長著しい日本は、なんとアメリカを追い抜かして一人当たりGNP世界1になった年です。

こんな時代を背景にして「日本的経営」を特別講義で世界中から集まった学生を相手にレクチャーするという珍事にも恵まれました。面白い奴だということで、日本人としては初めてKappa Alpha Societyというフリーメーソンの流れを汲むFraternity house(ギリシャの伝統を汲む友愛組織)にBrother「兄弟」として迎えられ、美しいキャンパスの中に棲み込みました。

さてコーネル大学では、生まれて初めて学問づけの生活というものを体験しました。専攻はPolicy Analysis & Managementというものです。Managementのほうはビジネススクール(Johnson Graduate School of Management)で学ぶのですが、これが凄い。ケーススタディーの洗礼を受け、とにかくガンガン意見を表明するクラスメートに圧倒されました。

Policy Analysis のほうはHealthcareに注力しました。Sloan Program in Health Services Administrationという大学院専門課程です。ここでは、なんと2人の教授が15人ほどのクラスに張り付いて、討論形式で授業を進めるのです。まさに対話が授業の本質でした。ソクラテスの「対話」による知の拡大、あるいは知的探求は書物により一応は理解していたつもりでしたが、この教室ではそれが現前している、その情景にある種の眩暈を感じたほどでした。

読む本の分量も半端ではなく、孜孜たる勉学の毎日でした。半年もすると、このような対話やプレゼンテーションにも慣れ英語によるコミュニケーションには違和感は感じなくなりました。

烈々たる勉学のはざまに、ふとニューイングランド特有の燃えるような紅葉の馥郁たるを感じ、読書に飽いてはまた風格このうえない校舎の壁を這う蔦の青々たるに目を遊ばせるのはまさに贅沢そのものでした。

1年と2年の間には、フィンランドの友人のつてをたどり、フィンランドのプライマリーケアについてフィールド調査を行いました。そのインターンシップの後には、聖書を片手にバックパックで、スウェーデン、デンマーク、オランダ、スイス、オーストリア、ギリシャ、ロードス島、イタリア、フランス、スペイン、ポルトガルと2か月かけて回り、アップステート・ニューヨークへと帰ってきました。

文化人類学をやっている同じ寮の左翼反米的なアメリカ人学生とは妙に波長があって、いっしょにバンを運転して北米大陸を車で横断・往復しました。道連れはもうひとりいて、そいつはその文化人類学専攻の学生のホモ達でしたが、僕はストレートなので旅の間は「俺の前ではホモるな」という条件を彼らに果しました。

ホピ族とナバホ族のconcentration(特別居住区)を訪れて、ネイティブ・アメリカンの神話を収集したり、トランス・ダンスのフィールドワークをしました。僕は非差別民族としてのネイティブ・アメリカンの貧困や医療の問題を調べました。鉢巻の模様やダンスが、阿寒湖のアイヌの人々のそれらと同型で、そんなことを話すとネイティブの人々はとても喜んでくれました。

僕の顔立ちがネイティブアメリカンとちょっと似ていることもあってか(笑)、とてもよくしてもらいました。モンゴロイドとして確かに太古の血と知は繋がってということを体感するに至りました。

東海岸の大学からではなく、ネイティブ・アメリカンの視点からアメリカを見るいろいろと本質的なものが見えてきます。西洋のデキモノみたいなアメリカという征服・搾取・抑圧国家の姿がそこには集約されていました。留学後、盲目的にアメリカ一辺倒のようになってしまうおめでたい、あるいは表層的な日本人が多いなかで、そうならなったのはたぶん、この旅があったからでしょう。

経営コンサルタント

このまま大学院に残って研究者になるという発想はさほどもなく、卒業後には理論と実務の統合を目指すべく、経営コンサルタントになると決めました。生業としてコンサルタントをしながら、研究的生活を続けることにしたのです。

当時、コーネルのみならず、アイビーリーグやその他トップレベルのビジネススクールでは、野心的でデキる連中はこぞってコンサルティングファーム、投資銀行、ベンチャー企業に職を求めていました。日本では大企業や公務員に職を求めるのが圧倒的多数でしたが、アメリカのエリート達は対照的です。

運よくフィラデルフィアに本社があるHay Management Consultantsからのオファーがあり、コンサルタントとしてのキャリアを積むことになりました。東京オフィスでの仕事はエキサイアティングなものでした。クライアント企業の20年、30年に一回くらいの戦略改訂、組織変革、人事制度変革に立ち会い、それらのプロセスに関与するコンサルティング業務が中心でした。

日本は言うにおよばす、欧州、中国など広範な地域の組織に対してコンサルティングをしました。

 Hayという組織は面白い組織でハーバード大学のマクレランド教授(達成動機やコンピテンシー理論の世界的大家)らが創業した会社を買い取って一部門(Hay BacBer)にしていました。そこで、コンピテンシー理論や人的資源管理論などの学問的ノウハウが凝縮されており、仕事はハードでしたが、大学院のような雰囲気もあり、知的刺激に充満しています。それやこれやで研究的生活も進み、研究成果を専門書として書き始めました

ことのなれそめは出逢いからでした。コーネル大学にいる時に日経BP社の記者の方が取材を兼ねてわざわざ遠路はるばる東京から僕に会いに来てくれたのです。それが縁になって生まれて初めて書いた本は日経BPから出版させてもらいました。「ナーシング・ストラテジー」という本でした。

この本がきかっけとなり、日本看護協会で講演をさせていただいた折、ぜひ看護のための経営学をまとめるように熱心に勧められて書いた本が「看護経営学」と「続・看護経営学」という本です。そしてこれらの本が縁となり、日本全国の医療機関や看護協会から講演に招待れるようになりました。それ以降、講演はライフワークのようなものになっています。

ウィークデーはコンサルタント、週末は本や論文の執筆と講演。副業どころか三足の草鞋です。とても忙しい日々の中、副業だけで資本金に充当する額が自然とたまったので、起業することにしたのです。当時の最低資本金は1000万円でした。ほかにこれといったお金の使い道がなかったのです。

起業に際してはノウハウが不足していたので、当時早稲田大学ビジネススクールを立ち上げていた松田修一先生の起業コースに参加して起業・創業のノウハウを勉強しました。変な話ですが、早稲田では卒業してから本格的に勉強したことになります。


起業家

(株)ケアブレインズというベンチャー企業を興し、「人と組織の知恵をケアする」ということを理念にしました。10年突っ走って結果を出す、従業員の給料の遅配は死んでもしない、ということをスサノヲ尊を祀る出雲の熊野大社に詣でて祈願しました。1997年のことでした。人生のビックバンのようなものです。

この会社ではコンサルティング、eラーニング、産学官連携、コマーシャルオープン・ソースなどの事業を手掛けました。自分で考えて、周りの人々の理解や共感を得てビジネスに仕上げてゆく。ビジネスモデルにはなにかしかのイノベーションの工夫を仕掛ける。こんなことが飯よりも好きでしたし、今でも大好きです。

僕は特定の分野の狭義の技術者ではありません。しかし、経営という体系・ノウハウをsocial science系の技術と見立てて、ビジネスモデル、バリューチェンを創りだす経営技術者、技術経営者を自認しています。

経営プロフェッショナル、アントレプレナーとして技術リソースを技術の壁、市場の壁を突破させてビジネス化することが好きです。そしてインベンションを普及させてイノベーションにしてゆくプロセスにワクワクします。

「資本主義社会の主人公は起業家だ」と素朴に信じて起業してしまいましたが、実は「市場」というところは、大変厳しい場所であるとが遅ればせながら気がつきました。創業社長は月月火水木金金で休むことなんか考えてはいけません。自分の給料を割いても、従業員のペイにまわなさければいけません。タフだからできるし、好きでなければとうていできません。

市場は「癒し」の場なのだろうか?強い人にとっては、自己実現の場ですが、たぶん万人に「癒し」を与える場所でありません。市場でシノいで成功する人はいいのですが、市場で失敗し、排除される人々も増え続けています。

さて2007年にある上場企業から、僕が経営していた会社を買いたいという奇特な申し出があり、いろいろ考えました。自由を求めて起業したのですが、いつのまにか、自分が起業した会社の中で自由を感じることができなくなっていました。

元来、決めごとをしたり、決断するのは直感的にスパッとやるほうです。30分もあれば、たいがいの事柄を選択したり決めることができます。しかし、このときは3カ月以上の時間をたっぷりかけて、諸般状況を見極め、我流のインテリジェンスを駆使しながら、ゆっくり意思決定をしました。

そして決断。一株残らず会社の株式を、とある上場企業に売却してイグジットしました。精神的にはタフなほうだ思っていましたが、利害関係が輻輳する進退窮まる局面では、醜い裏切りや騙しあい、駆け引きの機微が絡み合い、これにはけっこう辟易としました。

市場のなかでは、会社も、社長も、人材も、ビジネスモデルも、知的財産も交換可能な「物象」です。会社売却とは、過酷な物象化をいかにシノぐのかという命題です。会社をきれいさっぱり売り払ったあとは一抹の寂寥感もありましたが、それ以上に爽やかさがありました。これは2007年のことでした。

その半年後くらいにはリーマンショックが訪れ、大企業もベンチャーがバタバタ倒産しました。結果的にはいいタイミングで売却したことになります。あのタイミングで売る決断を先延ばしにしていたら、買い手も逃げたでしょうし、経営的にもマズイことになったでしょう。

素朴な額ですがキャピタルゲインを得ました。会社経営時代にはコンサルティング業務や経営経験から得た知見を抽象化することにより前後6冊の専門書を執筆する機会を得ました。会社経営から得たものはキャピタルゲインよりも体験を基礎とする知識のほうが大きかったと思います。

会社を売却して、晴れて天下の素浪人となり、さあどうしたものか、と今後の展望しました。またインドに行って放浪でもしようかと思っていると、僕が会社を売却したという話が漏れ伝わり、東京農工大学技術経営研究科から教授として教鞭をとらないかというオファーをいただきました。

いきあたりばったり

振り返ってみると、我ながら珍奇なことをやってきたものだと思います。「人間万事塞翁が馬」としかいいようがありません。まあ、こういうものありなんですね。

Business、Consultingのフィールドで、Deformerとして、Entrepreneurとして培ってきた経験や、汎用的なスキル・ノウハウの使い道はいろいろあるでしょうが、現在は主としてAcademiaで若い方々に還流しています。

Academia、Business、Consulting、Deformer、Entrepreneurの頭文字をとって、ABCDE変態キャリア(笑)と呼んでいます。

はじめから運命として予定されていたなどとは考えられません。いってみれば、いきあたりばったりの中の「縁起」です。

法則としての「縁起」によって生じる行為(現行)にはたらきかけるのは人間の意識や志(阿頼耶識)の深いところにある種子(ビージャ;無意識の複合体)です。種子が行為を生むとこもあれば、逆に行為が燻習(くんじゅう)して種子に影響を与えます。

いずれにせよ、種子→現行→種子→現行→種子→現行→種子→現行→種子というように、この循環は無限に続くわけです。そんなどこかの一点の刹那に今の自分がたまたまいるということなのでしょう。また、一点の刹那で、いろいろなモノゴトがシンクロナイズして共起する(つまりシンクロニシティ)ということも、ままあります。

そして自分は、まわりのいろいろは事柄とおたがいによりかかって存在している。「おたがいさま」という日本語は言い得て妙です。この言葉は、まさに、相互依存の関係の中に人は生かされていて、人と人の間の絆や信頼といったものを尊ぶべきものだ、ということを言いあらわしています。

ずいぶん前に自転車冒険旅行で訪れたインド・ネパールの地にはじまり、その後いろいろな旅で出会った方々の数は計り知れず、また頂いた御縁もはかり知れないものです。そんな中で、いろいろな選択枝(現行)が現れて、いろいろ考え選択し、また人さまからも選択されたり、されなかったり、そのような連綿の流れの、ひとつのちっぽけな結果が、「今」の自分ということなのでしょう。


助産アート X デザイン X 想像力 X 起業家精神

2011年11月22日 | 健康医療サービスイノベーション

(「ペリネイタルケア」2011年12月号)

「ペリネイタルケア」という専門誌から御依頼に応じて、「病院経営の視点から考える 成功する院内助産を始めよう!」を書きました。

助産所をソーシャル・ビジネスシステム、健康サービス・システムとしてとらえ、そこにちょっと新しいイノベーションのためのフレーミングを構想してみます。

つまり、イノベーションのためのフレーミングは、

「助産アート X デザイン X 想像力 X 起業家精神」

です。

このまま、現在の出生数が低迷状態が続くと、少子高齢化はますます進み、やがて日本人の人口は激減してゆきます。それにともない国力は、残念ながら長期的に衰退してゆきます。

そんな暗い衰退過程の鳥羽口に立ちながらも、赤ちゃんの産声に囲まれて明るく活躍する助産師の方々。

さて、Smart CityやCreative Cityのコンセプトが最近話題によく上がります。たしかに、創造都市は、いろいろなものごとを創造しますが、そもそも、人間の創造=出産を持続的にやりやすくする必要があります。妊婦がたらい回しにされて出産ができないような都市は、スマートでもなければクリエーティブでもありません。まったく。

赤ちゃんを生んで育てやすくする環境をうまくデザインして都市に埋め込む必要があります。助産というアートないしはテクネを、自由な想像力でデザインしてインプリメントしてゆく。

だれが?当事者の助産師が、です。

助産師の方々が、「助産アート X デザイン X 想像力 X 起業家精神」のフレーミングで発想・行動することを体得すれば、①創造都市の創りこみに貢献できる=社会イノベーション。②自由でクリエイティブな生き方ができるようになる=自分イノベーション。

ちなみに、「自分イノベーション」とは昨年まで農工大MOTにいた林志向さんの新著のタイトルです。

たとえば、院内助産=イントレプレナー。独立起業=アントレプレナー。地域の医療機関のみならず、保育園、クッキングスクール、オーガニックフード、エンライトメント、セラピーなど、異業種と新結合を図る起業スタイル=トランスプレナー(松下の造語)です。

方向性としては、助産→社会イノベーション、Smart City、Creative Cityですね。


助産師の方々との語らい

2011年11月20日 | 健康医療サービスイノベーション

(講演のあと神奈川県助産師会の皆さん、美魔女群団?と)

夏は海外が多かったのですが、秋から冬にかけては大学での仕事に加え、国内、とくに関西方面での仕事が多く、行ったり来たりしています。ここ数年、面白いことに助産師の方々の集まりに呼ばれることが多くなってきています。

もともと健康・医療システムの中でも「ケアすること」への関心が強く、著作物も看護関係が多く、また社会イノベーション、アントレプレナーシップ支援もしているので「助産師の起業」というテーマには相性がいいのでしょうか。

11月の初めには神奈川県助産師会で「助産師のマネジメント力-勤務助産師も起業家になれる-」、先週は日本助産師会の大阪支部で「起業家の視点でとらえる助産所経営」について講演をしてきました。

私の講演は、よくあるような新しい知見や方法論を一方方向で伝えるというものではなく、参加者の方々とわいわいやりながら新しい知識をいっしょにわかち合ったり、高め合ったりすることになるべく多くの時間を使います。

さて、講演後の質疑応答では、皆さんの問題意識の強さと高さがひしひしと伝わってきます。また、講演が終わってからも主催者の方々と続きの議論に延々と花が咲きました。

問題は:

①そもそも少子高齢化現象が進む中で出産件数の減少が続いていて、また出産も病院でなされることが多いため、「出産市場」がシュリンクしている。出産市場のシュリンクは長期的には人口衰退に直結するので国力が低下してゆく。

②助産師のヒューマンサービス「技術」はいわゆる暗黙知に属することが多く、標準化、形式知化がうまくなされていない。ゆえに助産技術の共有化は「すりあわせ」によって現場レベルに沈着することが多い。

③助産師の起業(助産所の独立起業、院内助産施設)に際しては起業経営やマネジメント・サイエンスの応用があまりなされていない。

④非営利型のビジネスとして助産師の活動を発展させてゆくノウハウが体系化されたり共有化されていない。

⑤助産師の高齢化に伴って助産所の廃業があいついでいる。②で指摘した、助産技術が誰にも継承されないまま消滅してゆくのは社会的な損失である。また、廃業を未然に防ぎ、助産所事業を他の助産師に事業継承(サクセッション)させてゆくための手法が未開発。

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では、どう問題解決するのか?ということで会長、理事の方々、参加者の方々と議論、議論。ちょっとメモしておきます。

上に整理したような助産師の①起業、②事業成長、③事業継承のビジネスサイクル全般をサポートする仕組みが今の日本にはまったくない。そのような仕組みを助産師会や地域で活動するアントレプレナー助産師と連携して作ることが大切だ。NPO(LLP,LLCあるいは非営利型株式会社のようなもの)を創って①②③のノウハウを共有して会員をサポート(ウェブ共有、研修、コンサル、政策提言)してしてゆく。

ついでといったらなんだが、そのようなネットワーク組織をベースにして臍帯血を保存するシステムとリンクさせてゆけば、親子が罹患するであろう、そして将来において発達した治療技術をもって治療可能になるであろう「未来のリスク」をヘッジすることにもなる。