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 「Hoshino Parsons Project」のブログ

子どもの言葉を「受け止める」 新しい作文の発見!

2015年08月11日 | 手作り本と表現活動

 あらためて言うまでもなく、親や教師が子どもの発する言葉やサインを真剣に受け止めてやることが、とても大事であることは誰もが感じていることと思います。

 ところが、多くの親や教師は、「受け止め」てやりたい気持ちは持っていながらも、得てして目の前の子どもに対しては、受け止める前につい「ジャッジ」や「指導」をしてしまうものです。
「聞いてあげるよ」といって呼び寄せていながら、その先の行為が「聞く」ではなく「ジャッジ」や「指導」になってしまうのです。

 子どもの側からすると、「聞いてもらう」ために話すのではなく「ジャッジ」されるために「話す」「書く」ということになってしまっているのです。

 この違いが、熱心な教師や親ほど、なかなか気づかない傾向があります。


 その理由のひとつは、子どもが投げかける言葉、表現が、親や教師の側にとっては、はじめから明らかに「受け入れがたい」ものであったり「間違った」ものに見えることが多いからだと思います。

 
 普通の教師や親は、「間違った」ものや「受け入れがたい」ものを「ただす」ことこそが教育であると考えがちです。

 ところが、『田中の家に犬がくる』に続いて『えがおの花』という作文集を刊行された飯塚祥則先生のスタンスは違います。

  子ども達が一生懸命なげたボールは、たとえどんなに「間違った」ものであっても、「受け入れがたい」ものであっても、まず無条件に受け止めることが何よりも大事であると飯塚先生は考えています。

 

飯塚先生の作文教育がどのようなものであるのか、具体例をひとつあげます。

 

 学校で遊べるところ             4年 ◯◯周平

 今日は、階段。
 東階段は、足ですべれる。中央階段は、こしですべれる。西階段は、中央階段と同じ。
 会議室では、机にローラーがついたので走って、すーとのっかりながら遊ぶ。家庭教室は、しょうがいぶつがいっぱいあるから、かくれるところがいっぱいある。四年二組には、ホワイトボードがあるから、らくがきができる。トイレそうじでは、水をまいて、水ホッケーをしていた。
 ちなみに、スティックの代わりは、フリードライヤーと、デッキブラシだ。
 このように、どこのそうじでも遊ぶ物があるのだ。

(飯塚先生のコメント)
「おもしろい!遊びの天才だな。足ですべり、こしですべり、ローラーで遊び、家庭科室でかくれんぼをし、らくがきもでき、トイレで水ホッケーをし、どこのそうじでも遊べるなんて・・・。5年生になってもいっぱいやって、いっぱいおこられな。楽しみ!!

 

 この例を学校の先生方にみてもらうと、このようなやり取りはとても今の教育現場では出来ない、との答えがかえってきます。飯塚先生はすでに退職されて学校現場を離れているから子どもたちとこうした会話ができるのだと。 学校でイタズラをしまくる子どもをこんなふうに褒めたら、先生自身が指導の対象になってしまうというのです。 

 とは言いながらも、このような子どもとのコミュニケーションが取れてこそ、親や教師と子どもとの間の信頼関係が生まれることの重要性、素晴らしさも多くの先生が認めます。

 まさにここにこそ、日本の教育現場の問題があらわれているのではないでしょうか。

 

 子どもが親や教師にボールを投げると、大抵の場合は子どもの未熟さゆえに、ストライクゾーンからは大きく外れたり、指示したところとは違う場所に投げたり、サインとは違った球種を投げたり、どこで拾ったのか臭くて受け取るのも嫌な球を投げてきたりするものです。

 多くの教師や親は、その都度、
 そっちに投げてはいけない、
 今のはサインとは違う球だ、
 そんな方になげたら受け取れるわけがないではないか、
 などと子どもに諭してしまいます。

 投げる子どもに対しては、キャッチャーとして座ってミットを構えていることで「受け止める」仕事をしていると思ってしまっているのです。

 ところが飯塚先生の場合は、どんなに外れたボールでも、ルールにない投げ方をしても、受けるのは嫌なとんでもなく臭い球でも、まず必死になってキャッチしてあげるのです。

 投げ方がどうの、サインと違う、ルールと違うなどとは一切言わずに、まずどんなボールでもしっかりと受け止めることができるのです。

 ここでまた多くの教師や親は、そんなこと言っても、あんなところに投げた球、誰だってとれるわけないではないか、と言います。

 それでも飯塚先生は、そんな球でも必死になって飛びついていって受け止めます。

 なぜそれが出来るのかと考えると、飯塚先生は、子どもが一生懸命になげたボールがどんなものであっても、それが面白くてしょうがないものに見えるからです。

「そんな投げ方があったのか、面白いねえ。」

「そんな球があったのか、驚きだねえ。」

 

 残念ながら、はじめから正しいかどうかをジャッジする立場で構えている人には、飯塚先生のように子どもの投げたその「ボールの面白さ」は見えません。

 

 また、子どもの側からすると、どんな球を投げてもしっかりと受け止めてもらえる信頼があるからこそ、腕を思い切りふってワンバンドになるようなフォークボールでも投げることが出来るのです(フォークボールを投げられる子どもはなかなかいないと思いますが、要はそういうことです)。キャッチャーが後ろにそらしてしまう不安があったら、絶対に三振をとれるようなフォークは投げられません。

 こうしてどんな球でも受け止めてもらえる信頼が生まれると、投げる側はさらに思い切り力を出し切った球を投げられるようになるのです。

 親や教師の立場で子どもをみる前に、
まず6歳の子どもはその時点で完璧な6歳の人格をもった存在であり、
10歳の子どもは10歳として完璧な人間であることを忘れてはなりません。

これは教育では何よりも大事なことであり、教育だけではなく世の中のコミュニケーションでも、とても大事なことであることに変わりがないと思います。

「受け止める」こと「聞いてあげる」ことが大事であると多くの人が言っていながら、なかなか相手との距離が縮まらない一番の理由はこの辺にあるのではないでしょうか。


 

 教育を語る限り学力の向上は確かに大事ですが、本来、教育で最も大切にされなければならないこと、

「子どもの翼をもぎとらない」

ということが今の学校現場でどうしたら実現できるのか、

飯塚先生の「受け止める作文」教育は、とても大切な問題を私たちに投げかけてくれています。

 

  

 多くの場合、世の中では「答え」を出すこと
あるいは誤りを正すことこそが大事なのだと思ってしまいます。

 でも、ものごとがうまくいくかどうかの現実をみると、世の中が「正しい」答えだけによってまわっているとは限らないこと、むしろ「正しい」答えがどうのこうのよりも大事なさまざまなことによって支えられている場合が多いことに気づきます。


 決して教科書の意義を否定するつもりはありませんが、

 そもそも教科書の枠にはおさまらない広大な現実のなかにこそ豊かな世界はあります。

 そしてその広大な豊かな世界を排除しない教育は、どのようにしたら取り戻せるのでしょうか。

 

 日本でも遅ればせながら、暗記詰め込み型の大学受験のための特殊技能教育の弊害が反省されて、センター試験のシステムも変わろうとしています。

 しかしながら、多くの教育現場で教師や親の考え方は、そう簡単には変えられない現実があります。

 それだけにこの飯塚先生のような教育スタイルが、飯塚先生の特別な資質によるものではなく、多くの教育現場で本来必要とされている基本的なものとして受け入れられることが何よりも望まれます。

 そして2人目、3人目の飯塚先生が教育現場であらわれてくれることを願わずにはいられません。またいずれ遠くはない時期に、こうした考え方があたりまえの社会になることを心から願うものです。

 

 


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