かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

働き方が変わる、学び方が変わる、暮らしが変わる。
 「Hoshino Parsons Project」のブログ

モノの記憶

2010年04月10日 | 出版業界とデジタル社会
              

昨夜、テレビで『ALWAYS 三丁目の夕日』が放映されていました。
私は続編の方しか観ていなかったので、おかげで友人から聞かされていた話の流れがようやくつかめました。

それにしても、すばらしい作品ですね。

皮肉にも、この昭和30年代の懐かしい風景を再現するには、
現実の商品を集めてつくられたオープンセットのリアリティの力もありますが、
それ以上に、照明を使って撮影した後にフィルターをかけて当時の空気感(時代劇などでよく使われるようになりました)を出したり、
セットでは再現不能な景色を創りだしたデジタルCG技術のおかげでもあります。

随処で泣かせるその脚本や演技の力は言うまでもないことですが、
私たちは、あの昭和30年代の情景をみたときに、単なる懐かしさからくるものだけではなく、
なにかいつもそこに大事なものを感じ取ります。

ひと言でいってしまえば、貧しいけれども心の豊かさがあった時代ということなのかもしれませんが、
その違いが何なのかということについては、まだ私たちは答えを十分理解していません。

ただ私にはひとつだけ、この映画を観て再確認できたことがあります。
それは、モノを通じて残る記憶・情報というものの価値ということが、
ひと際重要な意味を持っているのではないかということです。


北欧などの福祉先進国では、高齢者が福祉施設に入居するとき、
それまでの家で使用していた家具類などを出来るだけ持ち込むようにするのが常識だといいます。
今まで暮らしていた環境と同じものがあるというだけで、ボケ防止につながるというのです。

都会で暮らす老人よりも山村で暮らす老人の方がボケにくいというのも、体を動かし続けているという違いだけではなく、
そうした昔と同じ景色がそこにあるといったことが背景としてあるように思えます。

こうしたモノを通じて得る記憶というものも、現実にはモノそのものに含まれる情報の量の差ということが
大きく左右するのではないかと思われます。

私たちが小学校の頃に使っていた木の机や椅子。
それは、野球板にするためビー球が転がるように溝を掘ったり、
奇妙な木目の皺にお化けの姿を想像したりしたものでした。

こうした板に限らず、石などの無機物からはじまる植物や動物などの自然物のなかに含まれる情報の量というものは、
その色彩や形状の豊かさだけではなく、言語化しえないたくさんの情報をも含んでいるものです。

それに対して、プラスチックなどの化学加工製品をはじめとした人工物から伝わる情報の量は、
プリント印刷された模様がいかにキレイなものであっても、そこから伝わる情報量というものは、圧倒的に少ないものです。

彫刻刀を当てても、微かな疵しかつけられない強固な合板とスチールの机、
それは耐久性を保証する合理的なものであることは間違いありませんが、
人の豊富な記憶と感性を支え育てるものではありません。

机や椅子、教科書やノート、それらは単なる機能を持ったモノであるだけではなく、
そのデザインンやフォルムも含めて多くの感情を私たちにもたらすものです。
もちろん現代では、優れたマーケティング情報に基づいたデザインでそうした満足感をもたらす商品がたくさんあります。

しかし如何なるすぐれたデザインのフィット感のある商品でも、自然物のもつ情報量には決して及びません。

こうした豊かな限りない情報にどれだけ囲まれているか、日々包まれているかということは、
文字、言語情報の量とは別の次元で、私たちの感性の大きな部分を占めています。

難しいことを考えなくても、こうしたことを私たちはすぐれた芸術作品に接するときに感じていることと思いますが、
このようなより「情報豊かなモノ」につながった記憶こそ、
私たちがまだ言葉に表現することはできない「豊かさ」を感じる大きな源なのではないかと思うのです。

このことがいくら「豊かさ」を支える大事なものだといっても、
それが言葉に置き換えられない情報である限りにおいて、
だから何なんだと問われると、返す言葉のない話になってしまうのですが、
今、ようやくこうした議論が出来る時代になったことだけは確かだと感じます。


最近、私たちの業界では、すばらしい仕事をされているブックディレクターの幅允孝(はば よしたか)さんが、
「週間読書人」のなかのロング・インタビューで次のようなことを言っていました。

「電子とかネット上の情報って、自分の履歴が蓄積されているようでされていないんですよね。
僕はネタに困ると本棚の前に立ちますが、そうすると忘れていたようでも、
そういえばこの本読んだ時にあんなこと考えてたな、などと思い出すことがある。
記憶の外部保存装置としても本や本棚は役立つような気がします。」

先の「三丁目の夕日」というなつかしい映像そのものが、どれだけデジタル技術によって支えられて作られたものか、
そのことを私たちは忘れてはなりませんが、
その先に私たちが表現するべき大事なこと、守るべき価値のあるものが、
ようやく共通のものとして見えだしてきたように思えます。



教科書デジタル化のゆくえと展望 その1

教科書デジタル化のゆくえと展望 その2

教科書デジタル化のゆくえと展望 その3

補足 デジタル技術への抵抗感について
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 補足 デジタル技術への抵抗... | トップ | 井上ひさしさんを偲ぶ 『ボ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

出版業界とデジタル社会」カテゴリの最新記事