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 「Hoshino Parsons Project」のブログ

山の高速道路

2008年04月22日 | 上野国「草の者」研究所
先日、熊谷達也の本を探しているお客さんとレジでいろいろ話していたら、
マタギの話題でたいへん盛り上がってしまった。
そのお客さんは熊谷達也の本がきっかけでマタギに興味をもつようになり、
時々、車を山形、秋田までとばして、
小説の舞台になっている実際の地名を訪ねたりもしているとのこと。

そのお客さんは60代くらいの方にみえましたが、
山形、秋田まで車で行くには
途中どうしても車中一泊しなければならないそうだ。
元気ですねー。

マタギの持つ巻物の日光派の由縁のことになると
日光の男体山と赤城山の戦いや
ワタリといわれる広域移動するマタギのことなど、
お互い話は留まるところがない。

それで、その会話の余韻にしばらく浸っていたら、
群馬と山形との距離感というものがどうも気になってしまった。

これは、テーマ館(http://kamituke.hp.infoseek.co.jp/)のなかの
「マタギに学ぶ自然生活」
「上州の古道・諸街道」
「『幻の漂泊民・サンカ』と『風の王国』」
などのページが常に交錯する問題意識なのですが、
現代に比べてはるかに交通は不便だった時代にもかかわらず、
歴史資料をたどると、いつもその物流や情報の伝達の早さに驚かされるのです。

上州と都の間に限らず、主要幹線に劣らず、
山間部の情報の速さ、人の移動の多さが
どうも理解しがたいものを常に感じていました。

それが、最近、山伏・修験道の世界をいろいろみていくにしたがって、
山伏や山の民が、海洋民と実に密接につながっていることを
思い知らされるのです。
歴史をたどれば、山伏の法螺貝や、山の信仰に欠かせないオコゼなど
不思議なつながりをもつものもたくさんあります。

そして都にとって主要資源であると同時に主要財源となる
金銀銅、水銀・朱砂などの入手方法、運搬方法、保全方法、
どれをとっても山伏と海洋民の密接な協力関係(または同族の性格)が浮き彫りになってくるのです。

江戸時代、群馬にも縁の多い河村瑞賢が東回り航路を開拓するまで、
物資の輸送はほとんど日本海側から下関まで回って瀬戸内経由の大阪入りが主要ルートでした。
そこまで遠回りをしても、海運の方が安全に大量の物資を早く輸送することができたのです。

このことを知りとても驚いていたのですが、
それ以上に、平野部の道路よりも頻繁に、山の尾根をつらぬき人や物資が行き来している量が、
古来どうも想像以上に多くあるようにみえてなりませんでしたが、

その謎を解くひとつの鍵が、
冬の山岳尾根ルートにありました。

マタギのワタリなどが、冬季山間部を渡り歩いて、
遠く山形・秋田から群馬のあたりまで来ることがある。
それは、春季の雪の固まった山だからこそ出来ること。

冬季以外の山越えを考えると、主要街道ばかりたどるとかなりの回り道を伴い、
またひとつの川を越えるだけで大きな迂回を余儀なくされることもしばしば。
それに対して残雪期の山は、尾根筋を道にこだわることなく目的地の方向に
ほとんど一直線にたどることが可能になる。
夏場など渡れないちょっとした沢などは、雪で覆われ
藪をこぎ分ける苦労もまったくなく進むことができる。

限られた季節ではあるが、この条件は
山を知るものにとっては見逃せない、
諸国をまたいで歩くには圧倒的優位な条件であるといえる。

もちろん今の山スキーやスノーシューのような便利なものはなく
カンジキによる徒歩であるが、
それでも里の街道をたどっていくことに比べたら
はるかに早いこと、間違いない。
山伏、マタギ、サンカ、杣人などおそらく皆おのことは知っていたのだろう。

海洋ルートとともに
里の人々にはほとんど見られることのない高速道路が
記録に残るものはなにもないが、
昔からずっと山の人々によって受け継がれていたものがあったに違いない。

     「正林堂店長の雑記帖」2007年2月19日 転記
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