英宰相ウィンストン・チャーチルからのメッセージ   

チャーチルの政治哲学や人生観を土台にし、幅広い分野の話を取り上げる。そして自説を述べる。

佐村河内氏影武者事件         日本人の「美談」礼さんが問題

2014年02月06日 21時54分52秒 | 国民性
  広島出身の被爆2世で「全聾(ろう)の作曲家」「現代のベートーベン」として知られる佐村河内守さんの主要な作品を、ゴーストライターが書いていたことが明るみに出て世間を騒がせている。
  桐朋学園大非常勤講師で作曲家の新垣隆さんが18年間にわたって作っていたという。新垣氏は6日、東京都で記者会見し、謝罪した。会見では、佐村河内さんについて「耳が聞こえないと思ったことはない」と述べ、全ろうを装っているとの認識を示した。
  新垣さんは20曲以上を佐村河内さんに提供し、700万円を受け取ったと話している。「私が録音したものを、彼が聴き、それに対してコメントする場面があった。普通に会話ができた」と語った(朝日新聞)。「彼がある時期から、耳が聞こえない態度を世間に取り、その上で彼の名で曲を発表するようになった時点で、『問題がある』と思ったが、彼に従い曲を書き続けた」とも語った。
  これに対して佐村河内さんの弁護士は、佐村河内さんが身障者手帳を所持しているとして「全ろう偽装」を否定した。
  新垣さんがゴーストライターとして手がけた曲には、CDの出荷枚数が18万枚とクラシックとしては異例のヒットとなった交響曲第1番「HIROSHIMA」や、ソチ五輪のフィギュアスケートで高橋大輔選手が使用する「バイオリンのためのソナチネ」などが含まれている。
 佐村河内守さんの公式サイトによると、彼は作曲を独学で学び、「鬼武者」などのゲーム音楽で注目を集めた。35歳で聴力を失った後も、絶対音感を頼りに作曲を続けたという。
  この様な経歴はすべてうそだったということになるのだろうか。少なくとも世間は彼の経歴の真実な部分も信じなくなるだろう。「オオカミ少年」と同じというわけか?この事件で踊らされた人々も傷ついたことだろう。
  NHKは昨年3月のNHKスペシャル「魂の旋律~音を失った作曲家~」や情報番組「あさイチ」などで佐村河内さんを大きく取り上げていた。佐村河内さんが別人の作曲だったと発表した後、「取材や制作の過程で検討やチェックを行ったが、気付くことができなかった。視聴者の皆さまに深くおわびします」とアナウンサーが謝罪した(産経新聞)。
  人騒がせだと思うが、傷つけられた人々にも問題がある。朝日新聞の「天声人語」の担当者は6日の朝刊の同欄で、「朝日新聞もおりに記してきた。本人からきちんとした説明を聞きたいが、感動話に何かと弱いメディアの習性を自戒したい。『美談は泣きながら疑うことを誓う』。そんな谷川俊太郎さんの詩の一節を思い出させ、うそ寒い風の吹く心地がする」と記している。
  朝日新聞だけではない。われわれ日本人の弱点だ。とにかく美談はもろ手を挙げて感動する。疑わない。英国人も美談をほめるが、疑わないでも「なぜ美談なのか」という問いを発し続ける。
  日本人は「なぜ」をあまり発しない。「なぜ」「なぜ」「なぜ」と聞き返すと、「うるさい」「しつこい」奴と思われる。しかし 「なぜ」を問い続けることは重要だ。福島第一原発事故も「なぜ」を問い続ける習性がわれわれ日本人に備わっていれば、これほどまでに大きな「人災」にならなかったと筆者は信じている。
  「懐疑」は大切だし、「なぜ」を考えることは、それ以上に重要だ。とかく日本の会社では、上司の指示に唯々諾々と従う。そして出世の階段をのぼる。仕事上で議論や「なぜ」を仕掛けると、上司から煙たがられる。ひどい時は、「俺についてこい」「おれの言うことが理解できないのか」と暗に責められる。
   「なぜ」を別の角度から見れば、「なぜ」という疑問を呈して、相手と議論し、そして深め、相手を納得させる民主主義のプロセスがないということになる。橋下大阪市長の出直し市長選などはいい例だと思う。来たるべき市長選で「大阪都構想」がうまくいかなければ、また市長選を実施するという。公費の無駄使い以外の何物でもない。橋下氏に欠けている能力は「なぜ」「懐疑」がなく、相手を説得する「雄弁術」もない。自分の言いたいことをまくし立てるだけだ。
  「なぜ」を発し、疑問を呈し、自らの提案を発言する部下は嫌われるのが日本社会だ。多くの政治家もまたしかり。 佐村河内守さんの“事件”も彼を批判したり、失望したりする前に、われわれの国民性と向き合うべきだと思う。そのことのほうが大切だし建設的だと思う。「人のふり見て我がふり直せ」ということか。