英宰相ウィンストン・チャーチルからのメッセージ   

チャーチルの政治哲学や人生観を土台にし、幅広い分野の話を取り上げる。そして自説を述べる。

敗戦(終戦)70周年と「バターン死の行進」 歴史の複雑性

2015年08月18日 13時10分24秒 | 歴史
 先日、出社したら、同僚から週刊新潮の連載「変幻自在」の切り抜き記事を渡された。「読め」という。そこには高山正之氏の「21万個のお握り」「恥ずかしいドイツ」があった。
 「21万個のお握り」では、日本軍が「バターン死の行進」中に米兵に「お握り」を与えた。決して「ジュネーブ協定」に違犯して、米兵を虐待したわけではないと書かれていた。「死の行進」は与太鼓を創作して世界に振りまいた、と述べている。
 「恥ずかしいドイツ人」では、ナチス・ドイツが恐ろしいほどの虐殺をユダヤ人や非占領国の国民にしてきたのに、「スズメの涙」しか補償せず、それを持って世界からドイツの姿勢が称賛されている。ドイツを「不遜」だと述べ、「ドイツは今こそ歴史を直視し、頭を下げるがいい。そして二度と日本に謂われない因縁をつけるではない」と強調する。
 高山氏はドイツが日本に比べて、世界から侵略国の「模範生」と見られいることに対し、そうではないと言いたいのだろう。
 高山氏は日本のジャーナリストで元産経新聞記者。昨年「アジアの解放、本当は日本軍のおかげだった! 」を出版した。筆者は本屋でこの本を立ち読みした。彼の主張は明快で、分かり易い。
「バターンの死の行進」とは何か。太平洋戦争開戦当初、日本軍がフィリピンに上陸し占領した。投降した米比軍の捕虜を捕虜収容所に移動させる途中、多数が熱射病や疲労で死亡したことを言う。移動距離の全長は140キロ。その約3分の2を鉄道とトラックで運び、残り約45kmを徒歩で移動させる計画だった。
 高山氏は溝口郁夫氏の「絵具と戦争」を引用し、「行軍途中、捕虜の士官に紅茶が閏間割(ふるまわ)れる写真や海水浴を楽しむ米兵の姿が記録されている」と記した。また高山氏は「彼らが餓え、病にかかったのは、降伏前に目の前の部下の窮乏や疲労に手当しなかったマッカーサー将軍のせいだ」と批判している。「マッカーサーの無策で医療や糧食が欠乏し、かなりへばっていた」とも書いている。高山氏は読者に日本軍が残虐非道な組織ではないと主張したかったのだろうと思う。
 これに対して、ことし、「バターン死の行進」保存団体は、安倍首相が訪米して米議会で演説する前、米議会上下両院議長あてに「飢餓状態の捕虜には水も食料も与えられなかった」「少しでも休めば殴られ、銃剣で刺された。射殺される者もいた」と抗議文書を提出した。
 人間は明確な主張ほど頭に入りやすく、それを何度も繰り返して主張されれば、そう思い込む。日本人右派には、すでに日本軍のイメージが頭に確固としてあるから、「死の行進」への定着した話に拒絶反応を示すのだろう。日本軍による「バターン死の行進」の非人道行為は右派にとっては受け入れられないのだろう。また左派にとっても、「死の行進」を日本軍の残虐性の一端だと信じ込んでいる。その上、米国人の中にも、事実を究明せず、憎悪に彩られた虚偽がまかり通っている。
 白黒を求めたがり、主義主張を抱いている人々には左右両派の主張は分かり易い。左派にしても右派にしても一面的な事実を全体の事実として捉え、それを読者に提示する。右派的な考えでもなく、左派的な思い込みをしていない「真っ白」な読者は“感染”しやすい。
 歴史や政治、外交はそう単純な代物ではない。歴史は複雑である。絶えず多くの人間が絡む領域であるため、複雑であり、時として灰色の景色を生む。「白黒」を求めるたがる人々には、「灰色」の分析記事は物足りないとの感情を抱く。
 「バターン死の行進」を日本軍が故意にしたとは筆者は思わない。対立矛盾した資料からそう結論を出した。ただ、結果として非人道的な扱いを米軍将兵にした。ジュネーブ協定に違反した事実は消えない。過失致死罪といえるだろう。殺人罪では決してない。良心に従った行動をしようと心掛けても、自分の思惑とはまったく違った結果になることがしばしば起こる。
 日本陸軍は精強な軍だった。「精強」というのは、前近代的な軍だ。太平洋戦争から35年前の日露戦争の将兵とそんなに変わっていなかった。歩兵主力の軍であり、日露戦争当時とあまり変わらない三八式歩兵銃をもち、何十キロもの背嚢を担いで何十キロも行軍する。日本軍将兵はそれを当たり前だと考えていた。日ソが戦った1939年のノモンハン事件の記録映画を見るとよくわかる。ソ連軍の戦車に日本軍歩兵が向かって行く姿は悲惨の一語に尽きる。
   ソ連軍同様、米軍は近代的な軍であった。移動手段はトラックだった。しかし、米軍の一部はトラックを破壊したため、日本軍はそれを利用できなかった。一方、トラックを破壊しなかった米軍部隊は、そのトラックで捕虜収容所まで運ばれた。
 米軍将兵は現在のわれわれのような者である。マイカーばかり乗っている人間に、炎天下、何十キロも歩けと言われれば、そのうちの何人かは脱水症状で亡くるのは目に見えている。その上、「マッカーサーの過誤」により、食料や水、医薬品が不足していた。マッカーサーは日本軍に勝つと信じていたから、退却に伴う周到な準備をしていなかった。
 マッカーサーの米軍はマニラを放棄し、バターン半島に撤退。半島のコレヒドール要塞やその周辺に立てこもった。抵抗を続けたが、コレヒドール要塞の将兵を除いて、米軍は1942年4月9日に降伏した。
 日本軍は計算間違いした。日本軍の捕虜後送計画が実態に基づいてつくられたものではなかった。捕虜の状態や人数が想定と大きく異なっていた。約7万6000人もの米軍将兵が捕虜になった。これは、日本側の2万5000人の捕虜数予想を大きく上回った。
 米軍捕虜は一日分の食料を持っていると考えた日本軍司令部は、マリベレスから経由地のバランガまで一日で行軍できると考えた。しかし米軍捕虜は戦闘により極度に疲労していたため、実際には最長で三日かかった。
 バランガからサンフェルナンドの鉄道駅まで約50キロを、日本軍は全捕虜をトラックで輸送し、サンフェルナンドーカパス間約50キロを鉄道で運び、残りの10数キロを歩いてカバスの捕虜収容所に到着するはずだった。しかし、予想を超える米軍将兵が投降した上、トラックの大部分が修理中だった。トラック200台しか使用できなかった。
 米軍から捕獲したトラックも、継戦中のコレヒドール要塞攻略のための物資輸送に充てねばならなかった。当時の日本製のトラックの信頼性は低く、現場では米国製トラックの方が重宝されていた。
 結局、マリベレスからバランガを経由してサンフェルナンドの区間88キロを、将軍も含めた捕虜の半数以上が徒歩で行進することになった。マラリアやテング熱にり患し体力がない多数の米兵はバタバタと倒れた。日本軍に追い立てられた米軍将兵の極度の疲労。食料も尽きていた。日本軍にも敵に十分な食料を与えるだけの余裕がなかった。こうして、逃げ回ったあげくに降伏した米軍捕虜は猛暑の比島を行軍させられたのである。サンフェルナンドからカバスまで鉄道輸送する前に悲劇が起こった。
 この捕虜輸送を命令したのは本間雅晴・陸軍中将だった。戦後、マッカーサー元帥に恨まれ、迅速な裁判で、マニラで処刑されたが、陸軍で最も人道を重んじる名将だった。
 マッカーサー将軍は、本間中将が4年前にフィリピンの米軍が立てこもるバターン半島への総攻撃を命じた日時、つまり1946年4月3日午前零時53分に処刑した。マッカーサーの復讐だと言われている。人間は感情の動物である。いかに冷静であろうとも、時として感情に走る。マッカーサー元帥も例外ではなかった。
 そのマッカーサーでさえ、本間中将を絞首刑でなく銃殺刑にした。米軍は大部分の日本の戦争犯罪人の処分と異なり、本間中将を絞首刑ではなく銃殺刑にし、軍人としての名誉を尊重した。
 マッカーサー元帥は「文武両道の名将だね。文というのは文治の面もなかなかの政治家だ。この名将と戦ったのは僕の名誉だし、欣快だ」だと述べている。本間中将は陸軍きっての英語通だった。
 本間中将はマニラ進駐にあたり、将校800名をマニラホテルの前に集め、1時間に渡り「焼くな。犯すな。奪うな」と訓示した。
 米英人を個人的に憎んでいた大本営参謀の辻政信は東京から「偽の大本営命令」を出し、米軍捕虜を虐殺しようとしたが、現地軍司令官が本間中将に確認。それが偽だと分かり、事なきを得ている。もし、この偽情報が実行されていたら、史実以上に多くの米国人が亡くなり日本の汚点となったであろう。偽情報により米軍将兵への虐殺は実施されなかったとはいえ、本間中将の意に反し、結果として予想を超える米国人将兵が亡くなった。
 本間中将は「死のバターン行進」を後で知り、十分な捕虜計画がなされなかったことを後悔した。バターン戦ののち、陸軍参謀本部からバターン攻略の不手際をとがめられ予備役編入となり、終戦まで第一線には復帰しなかった。
 中将は東京からマニラに連行され、部下の責任を負い処刑されたが、人道主義者であったことに変わりはない。辞世の句「「栄えゆく 御國の末疑わず こころゆたかに宿ゆるわれはも」などを残し、悠揚として刑場に向かった。 
 歴史は複雑である。とかく自らの歴史観を抱いている人々は、その歴史観に沿った史料を持ち出し、それをもって、異見を主張する人々を批判する。右派は「米兵に紅茶を振る舞い、お握りを与えた」。左派は米軍将兵の経験を引用し、少人数で監視にあたった日本兵の多くは捕虜が脱走する可能性を残すより、捕虜をその場で刺殺するか銃殺したと述べた。また「ある者は何の理由も無く殺され、ある者は監視兵が日本語で与える命令に従わなかったために殺され、さらにある者は、指輪やその他の貴重品を差し出すことを拒んだために殺された」という。
  すべては事実だと思う。取材し、実際に見た光景を述べている。しかし、それが史実全体を映し出しているのではない。対立した事実、対立概念から真実に迫らなければ、本当の史実に近づけないと思う。史実の全体像を見ることができない。
   筆者は「死の行進」を経験した米軍将兵の発言から、戦争は人の精神をむしばみ、非人間的な動物に変えると思う。そうは思っていても、問題はその個々の証言から「バターン死の行進」の全体像をいかに把握するかだ。相対立する個々の史料をいかに組み立て、事実に迫るかだろう。そこから全体像が見えてくる。
 元産経新聞の高山氏にしても、米国の「バターン死の行進」保存団体にしても、歴史の「つまみ食い」をしているように思う。それは読者受けするが、歴史の史実全体に迫ることができない。
 歴史の客観的な事実とは、人々がもっともつまらないと思えるところにあるのかもしれない。劇的ではないストーリーであり、1688ー89年の英国の名誉革命を指導したハリファクス侯爵が述べた「歴史の事実は両極端な主張の真ん中」にある。それは対立し、矛盾する事実が積み上げられた結果から生じる。それでも100%、事実が証明されるわけではない。

(訂正)米兵の移動距離に間違いがありました。お詫びします。訂正しました。

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