明けましておめでとうございます。2015年の元旦から1週間が過ぎた。歳月の経つのは早い。7日付の朝日新聞に保守派の論客、佐伯啓思(けいし)氏の考え方が掲載されていた。
佐伯・京大教授が主張したい「保守の核心とは何か」。保守は「人間の理性や能力には限界があると考える点だ。つまり、過ちを犯すという前提に立つため、過去の経験や知恵を大事にする」
「第1次安倍内閣では『戦後レジームからの脱却』を前面に打ち出し、アメリカ占領政策から始まった『戦後』を見直そうとしました。戦前、戦後の連続性を担保しようと考えていた。ところが、今回は(アベノミックスを掲げ)完全にその旗を降ろしてしまった」
筆者の目に留まったのは「限界」「歴史の連続性」だ。保守(保守派、保守主義者、保守的思考の人々)は佐伯教授のおっしゃるように「人間の能力の限界」を知り、「歴史の連続性」を理解する。「歴史の変化」や「歴史の複雑さ」も認識する。
「右派」と「保守派」との違いはそこにあると思う。右派は観念的、静的、情緒的に周囲を捉える。筆者はそう思う。
英国に通算約6年間滞在した筆者は大英帝国の末裔から「保守とは何か」を教えられた。40年前だった。その時、英帝国の指導者や官僚は晩年を迎えていた。彼らが最も重視したことは「歴史」だ。つまり「過去」。歴史で起こった出来事や事件の1ページ、1ページが一人ひとりの英国人自身の過去である。個人の体験と同じくらい大切なのだ。そこから過誤を見つけ出し、それを未来に生かす。
そのような姿勢であれば、思想や理念、仏教などの宗教の虜にはならない。英国人は思想に凝り固まった人々、感情的な人々を信用しない。英国人のイデオロギーは「常識」である。常識は過去、現在、未来と途切れることがない歴史から汲み上げられている。
新大陸に最初に渡った人々は英国人(イングランド人、ウェールズ人、スコットランド人)、アイルランド人らだ。米国人の国民性は、英国人の国民性の一部を受け継いでいるとしても、北米大陸の地勢的な特異性が彼らの精神をつくり上げた。また米国の祖先はカルバン派のピューリタン。過激なまでに宗教心が篤い人々だ。要するに理念的な部分が多分にある。
佐伯教授は「自由や民主や人権の普遍性を世界化するというアメリカの価値観や歴史観はもともと進歩主義なのです。(日本人は)それを誤解してアメリカとの緊密な関係を築くことが保守だと思ってしまった」と述べる。
旧大陸から新大陸に渡ったピルグリム・ファーザーズは篤い信仰心を心に抱き、旧大陸では夢でしかなかった自らの理想社会を新大陸で築こうとした。しかし現在でも父祖らの理念や理想は実現していない。だからこそ米国人は父祖の理想を実現することが「世界の善」だと信じている。米国人は「進歩主義者」だ。この点で英国人と違う。
安倍首相は「保守」を理解していない。佐伯氏が言うように「保守は社会秩序をできるだけ安定させていく」ことを心がける。「改革するにしても急激ではなく、緩やかにやっていくのが本来のあるべき姿です」
清教徒革命で、チャールズ1世が処刑された。後世の英国人は17世紀半ばの清教徒革命を反省して、歴史に学んでいる。清教徒革命から独裁者オリバー・クロムウェルが出現した。革命が素晴らしい社会を実現すると信じた英国人の前に、最悪の独裁社会が現れた。
清教徒革命以降、英国人は暴力革命を嫌う。英国人にとって暴力革命は悪である。佐伯教授の記事を読んで共感するところが多々ある。
日本人は歴史を自らの知恵と行動の源泉の一つにしていない。筆者の主観的な発言かもしれないが、そう思う。
保守とは、過去を愛する人々だということを読者に理解してほしい。保守こそ、臆病なまでな慎重さで一歩一歩進み、現実を受け入れて理想に向かって進む人々だ。人間が完全無欠ではないことを知っている。世の中には100%正しい善などないことを理解している。
英国人はそのことを理解する。「人間の理性や能力には限界があると考える点だ。つまり、過ちを犯すという前提に立つため、過去の経験や知恵を大事にする」。再度、佐伯氏の発言を記す。だからこそ、自らの限界を認識している英国人は互いに協力して、自らの理想や考えを実現しようとするのだ。時には自らを犠牲にして、家族や自由を守り、後世の人々に議会制民主主義制度を伝える。
英国人は理解している。民主主義制度は欠陥だらけの不完全な制度だと。しかし、独裁制度や権威主義政治よりははるかにましな制度であり、なによりも個人の自由と独立心を育む。個々の人々が能動的な姿勢で、独立心を持たなければ、民主主義はうまく機能しない。
相手を打ち負かそうとして議論に参加するのではなく、相手の見解に耳を傾け、議論を深めて、より良い結論を求めようとする姿勢を自らも、議論する相手も持たなければ、民主主義制度は機能しない。世の中に、100%正しい思想や制度は存在しない。そんな制度は永遠に出てこないだろう。まず自分を取り巻く環境を正しく認識し、代を継いで少しでも改善していくのがベストだと考える。それが英国人の考え方だ。だから彼らは保守である。
理想主義者、リベラル派、右派はとかく物事を「こうだ」と決めつける。そして相手を罵倒し、打ち負かそうとする。相手がひれ伏したら、満足する。最近の朝日新聞の不祥事に対する右派の攻撃を見れば一目瞭然である。
リベラル派は理想社会が明日にでも実現すると思い込む。リベラル派は演繹的な思考方法ではなく、帰納的な考え方だ。最初にイメージで「これはこうあるべきだ。この事実はこうだ。これは悪だ」と心に抱き、それにあった資料だけをかき集めて、正当化する。「慰安婦問題」での朝日新聞の過誤はそこにあったと筆者は思う。
保守は演繹的な手法を取る。あくまで冷静に、自らの思想に合うことも合わないことも検証する。現在を受け入れ、漸進的な改革に着手する。そのように考えるのも保守の特質かもしれない。
佐伯・京大教授が主張したい「保守の核心とは何か」。保守は「人間の理性や能力には限界があると考える点だ。つまり、過ちを犯すという前提に立つため、過去の経験や知恵を大事にする」
「第1次安倍内閣では『戦後レジームからの脱却』を前面に打ち出し、アメリカ占領政策から始まった『戦後』を見直そうとしました。戦前、戦後の連続性を担保しようと考えていた。ところが、今回は(アベノミックスを掲げ)完全にその旗を降ろしてしまった」
筆者の目に留まったのは「限界」「歴史の連続性」だ。保守(保守派、保守主義者、保守的思考の人々)は佐伯教授のおっしゃるように「人間の能力の限界」を知り、「歴史の連続性」を理解する。「歴史の変化」や「歴史の複雑さ」も認識する。
「右派」と「保守派」との違いはそこにあると思う。右派は観念的、静的、情緒的に周囲を捉える。筆者はそう思う。
英国に通算約6年間滞在した筆者は大英帝国の末裔から「保守とは何か」を教えられた。40年前だった。その時、英帝国の指導者や官僚は晩年を迎えていた。彼らが最も重視したことは「歴史」だ。つまり「過去」。歴史で起こった出来事や事件の1ページ、1ページが一人ひとりの英国人自身の過去である。個人の体験と同じくらい大切なのだ。そこから過誤を見つけ出し、それを未来に生かす。
そのような姿勢であれば、思想や理念、仏教などの宗教の虜にはならない。英国人は思想に凝り固まった人々、感情的な人々を信用しない。英国人のイデオロギーは「常識」である。常識は過去、現在、未来と途切れることがない歴史から汲み上げられている。
新大陸に最初に渡った人々は英国人(イングランド人、ウェールズ人、スコットランド人)、アイルランド人らだ。米国人の国民性は、英国人の国民性の一部を受け継いでいるとしても、北米大陸の地勢的な特異性が彼らの精神をつくり上げた。また米国の祖先はカルバン派のピューリタン。過激なまでに宗教心が篤い人々だ。要するに理念的な部分が多分にある。
佐伯教授は「自由や民主や人権の普遍性を世界化するというアメリカの価値観や歴史観はもともと進歩主義なのです。(日本人は)それを誤解してアメリカとの緊密な関係を築くことが保守だと思ってしまった」と述べる。
旧大陸から新大陸に渡ったピルグリム・ファーザーズは篤い信仰心を心に抱き、旧大陸では夢でしかなかった自らの理想社会を新大陸で築こうとした。しかし現在でも父祖らの理念や理想は実現していない。だからこそ米国人は父祖の理想を実現することが「世界の善」だと信じている。米国人は「進歩主義者」だ。この点で英国人と違う。
安倍首相は「保守」を理解していない。佐伯氏が言うように「保守は社会秩序をできるだけ安定させていく」ことを心がける。「改革するにしても急激ではなく、緩やかにやっていくのが本来のあるべき姿です」
清教徒革命で、チャールズ1世が処刑された。後世の英国人は17世紀半ばの清教徒革命を反省して、歴史に学んでいる。清教徒革命から独裁者オリバー・クロムウェルが出現した。革命が素晴らしい社会を実現すると信じた英国人の前に、最悪の独裁社会が現れた。
清教徒革命以降、英国人は暴力革命を嫌う。英国人にとって暴力革命は悪である。佐伯教授の記事を読んで共感するところが多々ある。
日本人は歴史を自らの知恵と行動の源泉の一つにしていない。筆者の主観的な発言かもしれないが、そう思う。
保守とは、過去を愛する人々だということを読者に理解してほしい。保守こそ、臆病なまでな慎重さで一歩一歩進み、現実を受け入れて理想に向かって進む人々だ。人間が完全無欠ではないことを知っている。世の中には100%正しい善などないことを理解している。
英国人はそのことを理解する。「人間の理性や能力には限界があると考える点だ。つまり、過ちを犯すという前提に立つため、過去の経験や知恵を大事にする」。再度、佐伯氏の発言を記す。だからこそ、自らの限界を認識している英国人は互いに協力して、自らの理想や考えを実現しようとするのだ。時には自らを犠牲にして、家族や自由を守り、後世の人々に議会制民主主義制度を伝える。
英国人は理解している。民主主義制度は欠陥だらけの不完全な制度だと。しかし、独裁制度や権威主義政治よりははるかにましな制度であり、なによりも個人の自由と独立心を育む。個々の人々が能動的な姿勢で、独立心を持たなければ、民主主義はうまく機能しない。
相手を打ち負かそうとして議論に参加するのではなく、相手の見解に耳を傾け、議論を深めて、より良い結論を求めようとする姿勢を自らも、議論する相手も持たなければ、民主主義制度は機能しない。世の中に、100%正しい思想や制度は存在しない。そんな制度は永遠に出てこないだろう。まず自分を取り巻く環境を正しく認識し、代を継いで少しでも改善していくのがベストだと考える。それが英国人の考え方だ。だから彼らは保守である。
理想主義者、リベラル派、右派はとかく物事を「こうだ」と決めつける。そして相手を罵倒し、打ち負かそうとする。相手がひれ伏したら、満足する。最近の朝日新聞の不祥事に対する右派の攻撃を見れば一目瞭然である。
リベラル派は理想社会が明日にでも実現すると思い込む。リベラル派は演繹的な思考方法ではなく、帰納的な考え方だ。最初にイメージで「これはこうあるべきだ。この事実はこうだ。これは悪だ」と心に抱き、それにあった資料だけをかき集めて、正当化する。「慰安婦問題」での朝日新聞の過誤はそこにあったと筆者は思う。
保守は演繹的な手法を取る。あくまで冷静に、自らの思想に合うことも合わないことも検証する。現在を受け入れ、漸進的な改革に着手する。そのように考えるのも保守の特質かもしれない。