今年が良い年でありますようにお祈りします。
「韓国と日本はあまりにも似ていて、つい自分の価値観で相手の言動を見てしまう。そこに落とし穴がある。大切なのは先入観を捨て、相手の思考方法を謙虚に知ることです」
2013年1月3日(きょう)付朝日新聞朝刊の1,2面「日韓語り合い近づいた」に載っていた、室内装飾会社に勤める宋胤碩(ソンユンソク)さんの言葉だ。100%同感する。
韓国の若者を取材した朝日新聞記者の武田肇氏は宋さんを「今回あったどんな韓国人よりも、竹島(韓国名は独島)や歴史問題に対する日本人の見方を正確に知り、韓国と日本がなぜ行き違うのか冷静な視点を持っていた」と紹介する。
日本の投稿サイト「2ちゃんねる」に「目を覆いたくなるような(韓国人サイトへの)中傷が並ぶ」(武田氏)とある。韓国中部の礼山女子高校生徒会の作った歌詞付き映像の中で歌われた「♪子どもからおばちゃんまで、独島を愛しているよ。受験生も気が狂うくらいに愛している」。これに対して「2ちゃんねる」に「韓国人は日本から出てけ」と書き込みがあった。韓国の女子生徒は翻訳機能を使って日本語を読んだという。
筆者は竹島を日本固有の領土だと歴史的に考えているが、感情的で狂信的な書き込みには断固反対する。そして宋さんの話は傾聴に値する。
宋さんは日韓の若者や一般人に「他の目で見なさい」と言っている。排日を叫ぶ中国人の情緒的な民族主義者にも当てはまる。「他の目」で見れば、「自分の目」で見た時と180度違う景色が眼前に広がってくる。
英国民を率いて第2次世界大戦を戦い抜いたウィンストン・チャーチル首相は、宋さんと同じようなことを著書「第2次世界大戦回顧録」で述べている。
「戦争においても政策においても、常に自分をビスマルクが『他の人』と呼んだものの立場において見るようにせねばならない。一省の長官がこのことを十分に、同情的にやればやるほど、正しい進路を発見する機会が多い。相手の立場がよくわかればわかるほど、どうしてよいかに迷うことは少ない。だが、深い十分な知識を伴わない想像はワナのようなものなので、わが英国の専門家で、日本人の心がどういうものであったかを、正しくいえるものはきわめてまれであった」
この文章を、チャーチルは終戦後数年して、太平洋戦争直前の日英関係を振り返って書いた。英首相は、19世紀の鉄血宰相、オットーフォン・ビスマルクの言葉を引用した。ビスマルクは、ドイツ統一までは仏墺と戦火を交えた。しかし、統一後は、仏英墺伊との間で勢力均衡を築き、欧州の平和維持に細心の注意を払った現実主義者だった。
チャーチルは太平洋戦争が始まる8カ月前の1941年4月、悪化した日英関係を修復しようと考え、当時の松岡洋右外相に書簡を送った。軍部指導者だけでなく大多数の日本人は、世界とアジア、とりわけ太平洋と日中戦争に対して「他の人」「他の目」で見ていなかった。
当時、英国は、ヒトラーの第三帝国、ムッソリーニのファシスト・イタリアに対して孤独な戦いを強いられていた。世界中で英国一国だけが巨大な敵と戦っていた。
チャーチルは、独伊に接近していた日本のアジアでの行動を恐れた。アジアには英帝国の巨大な既得権益であった。言うまでない植民地だった。そこに戦禍が飛び火することを恐れた。しかし欧州戦線で手一杯の英国は、アジアで日本と戦う余力はなかった。
人後に落ちないナチス・ドイツの信望者だった松岡外相は1941年3月にベルリンを訪問した。チャーチルはこの機会をとらえて書簡を松岡に送った。1941年4月1日付のチャーチルの書簡は具体的だった。日米の国力差は1対20。英首相は日本に米国と戦えば必ず敗北すると助言した。
「1941年の米国の鉄鋼総生産量は7500万トンで英国は1250万トン。合計で9000万トンになるのに対して日本の総生産量は700万トン。戦争遂行に不可欠な鉄鋼生産量を見ただけでも対米戦争は無謀だ」。チャーチルはこう論じた。
松岡外相は4月22日に返書を出した。「日本は八紘一宇の精神で対米英に対処する」。駐英日本大使のクレーギーに「八紘一宇」とは何かと、イーデン外相は極秘電で尋ねた。クレーギーは「八紘一宇は日本人の世界平和の概念だ」と答えた。
チャーチルは松岡に具体的に助言した。対米戦を回避することが日本にとり国益だと諭した。
大本営陸軍部戦争指導班は日記に「チャーチルの松岡に対するメッセージの開示があった。内容極めて不遜慨嘆に耐えず。・・・」と記している。そこには一点の観察力、観察眼、懐疑の心もない。思考力にいたってはゼロだ。思い込んだらひた走る日本人の国民性の短所が浮き彫りになっている。
それから30年後、70年安保闘争を目の当たりにした20世紀の著名な作家、司馬遼太郎(1923-1996)と海音寺潮五郎(1901-1977)は日本人が観念的な民族だと指摘した。そのうえ観念が豊かな感性、美意識と絡み合っているため非現実的だとも述べた。
戦前戦中の日本軍部、1970年代の安保闘争の闘士、オウム真理教の教祖に心酔して現在死刑の執行を待っている学生に共通していることは、観念と豊かな感性と、思い込んだ“善”に支配されたことである。そこには一かけらの観察眼、思考力、判断力、とりわけ懐疑力がなかった。
現在でも保守派と言われる政治家にこの欠点が顕著に見受けられる。またお題目のように「平和」を唱えている左派の政治家や知識人にも同じことが言える。
筆者はこの伝統(欠点)が日本人の精神に代を継いで脈々と受け継がれていることを憂う。また将来、先人と同じ精神状態で国家的な大失敗をするのではないか。東電の福島第1原発事故はまさにこの種の大失敗だ。
多くの日本人は遊園地で「モグラたたき」で遊ぶ子どものように、目の前に現れたことのみに反応する傾向が強い。尖閣で声高に勇ましい言葉をいう人々も過去の人々と同じなのではないのか。筆者はそう感じざるを得ない。
観察せよ、思考せよ、「なぜ」を考えよ。横並びを尊重するな。変わったことを言う人間をいじめるな。変わった発言をする人に耳を傾けよ。児童や学生のいじめが減った時、日本人の中に観察眼などが生まれていると筆者が確信するのかもしれない。
韓国人の中で、宋さんは「相手の目で見る」珍しい人物のようだ。大多数の韓国人は「観察し、思考しない」。日本人の多くも同様だ。理念や感情にまかせて相手を罵る。日韓両国民の大多数が宋さんのような姿勢で相手を見つめ続けることができるようになれば、日韓の歴史が変わるだろうと思う。
(写真 1941年3月から4月にかけて松岡洋右外相は独伊を訪問した。ドイツを訪問した松岡≪左≫を歓迎するアドルフ・ヒトラー≪右≫)写真はPublic domain
「韓国と日本はあまりにも似ていて、つい自分の価値観で相手の言動を見てしまう。そこに落とし穴がある。大切なのは先入観を捨て、相手の思考方法を謙虚に知ることです」
2013年1月3日(きょう)付朝日新聞朝刊の1,2面「日韓語り合い近づいた」に載っていた、室内装飾会社に勤める宋胤碩(ソンユンソク)さんの言葉だ。100%同感する。
韓国の若者を取材した朝日新聞記者の武田肇氏は宋さんを「今回あったどんな韓国人よりも、竹島(韓国名は独島)や歴史問題に対する日本人の見方を正確に知り、韓国と日本がなぜ行き違うのか冷静な視点を持っていた」と紹介する。
日本の投稿サイト「2ちゃんねる」に「目を覆いたくなるような(韓国人サイトへの)中傷が並ぶ」(武田氏)とある。韓国中部の礼山女子高校生徒会の作った歌詞付き映像の中で歌われた「♪子どもからおばちゃんまで、独島を愛しているよ。受験生も気が狂うくらいに愛している」。これに対して「2ちゃんねる」に「韓国人は日本から出てけ」と書き込みがあった。韓国の女子生徒は翻訳機能を使って日本語を読んだという。
筆者は竹島を日本固有の領土だと歴史的に考えているが、感情的で狂信的な書き込みには断固反対する。そして宋さんの話は傾聴に値する。
宋さんは日韓の若者や一般人に「他の目で見なさい」と言っている。排日を叫ぶ中国人の情緒的な民族主義者にも当てはまる。「他の目」で見れば、「自分の目」で見た時と180度違う景色が眼前に広がってくる。
英国民を率いて第2次世界大戦を戦い抜いたウィンストン・チャーチル首相は、宋さんと同じようなことを著書「第2次世界大戦回顧録」で述べている。
「戦争においても政策においても、常に自分をビスマルクが『他の人』と呼んだものの立場において見るようにせねばならない。一省の長官がこのことを十分に、同情的にやればやるほど、正しい進路を発見する機会が多い。相手の立場がよくわかればわかるほど、どうしてよいかに迷うことは少ない。だが、深い十分な知識を伴わない想像はワナのようなものなので、わが英国の専門家で、日本人の心がどういうものであったかを、正しくいえるものはきわめてまれであった」
この文章を、チャーチルは終戦後数年して、太平洋戦争直前の日英関係を振り返って書いた。英首相は、19世紀の鉄血宰相、オットーフォン・ビスマルクの言葉を引用した。ビスマルクは、ドイツ統一までは仏墺と戦火を交えた。しかし、統一後は、仏英墺伊との間で勢力均衡を築き、欧州の平和維持に細心の注意を払った現実主義者だった。
チャーチルは太平洋戦争が始まる8カ月前の1941年4月、悪化した日英関係を修復しようと考え、当時の松岡洋右外相に書簡を送った。軍部指導者だけでなく大多数の日本人は、世界とアジア、とりわけ太平洋と日中戦争に対して「他の人」「他の目」で見ていなかった。
当時、英国は、ヒトラーの第三帝国、ムッソリーニのファシスト・イタリアに対して孤独な戦いを強いられていた。世界中で英国一国だけが巨大な敵と戦っていた。
チャーチルは、独伊に接近していた日本のアジアでの行動を恐れた。アジアには英帝国の巨大な既得権益であった。言うまでない植民地だった。そこに戦禍が飛び火することを恐れた。しかし欧州戦線で手一杯の英国は、アジアで日本と戦う余力はなかった。
人後に落ちないナチス・ドイツの信望者だった松岡外相は1941年3月にベルリンを訪問した。チャーチルはこの機会をとらえて書簡を松岡に送った。1941年4月1日付のチャーチルの書簡は具体的だった。日米の国力差は1対20。英首相は日本に米国と戦えば必ず敗北すると助言した。
「1941年の米国の鉄鋼総生産量は7500万トンで英国は1250万トン。合計で9000万トンになるのに対して日本の総生産量は700万トン。戦争遂行に不可欠な鉄鋼生産量を見ただけでも対米戦争は無謀だ」。チャーチルはこう論じた。
松岡外相は4月22日に返書を出した。「日本は八紘一宇の精神で対米英に対処する」。駐英日本大使のクレーギーに「八紘一宇」とは何かと、イーデン外相は極秘電で尋ねた。クレーギーは「八紘一宇は日本人の世界平和の概念だ」と答えた。
チャーチルは松岡に具体的に助言した。対米戦を回避することが日本にとり国益だと諭した。
大本営陸軍部戦争指導班は日記に「チャーチルの松岡に対するメッセージの開示があった。内容極めて不遜慨嘆に耐えず。・・・」と記している。そこには一点の観察力、観察眼、懐疑の心もない。思考力にいたってはゼロだ。思い込んだらひた走る日本人の国民性の短所が浮き彫りになっている。
それから30年後、70年安保闘争を目の当たりにした20世紀の著名な作家、司馬遼太郎(1923-1996)と海音寺潮五郎(1901-1977)は日本人が観念的な民族だと指摘した。そのうえ観念が豊かな感性、美意識と絡み合っているため非現実的だとも述べた。
戦前戦中の日本軍部、1970年代の安保闘争の闘士、オウム真理教の教祖に心酔して現在死刑の執行を待っている学生に共通していることは、観念と豊かな感性と、思い込んだ“善”に支配されたことである。そこには一かけらの観察眼、思考力、判断力、とりわけ懐疑力がなかった。
現在でも保守派と言われる政治家にこの欠点が顕著に見受けられる。またお題目のように「平和」を唱えている左派の政治家や知識人にも同じことが言える。
筆者はこの伝統(欠点)が日本人の精神に代を継いで脈々と受け継がれていることを憂う。また将来、先人と同じ精神状態で国家的な大失敗をするのではないか。東電の福島第1原発事故はまさにこの種の大失敗だ。
多くの日本人は遊園地で「モグラたたき」で遊ぶ子どものように、目の前に現れたことのみに反応する傾向が強い。尖閣で声高に勇ましい言葉をいう人々も過去の人々と同じなのではないのか。筆者はそう感じざるを得ない。
観察せよ、思考せよ、「なぜ」を考えよ。横並びを尊重するな。変わったことを言う人間をいじめるな。変わった発言をする人に耳を傾けよ。児童や学生のいじめが減った時、日本人の中に観察眼などが生まれていると筆者が確信するのかもしれない。
韓国人の中で、宋さんは「相手の目で見る」珍しい人物のようだ。大多数の韓国人は「観察し、思考しない」。日本人の多くも同様だ。理念や感情にまかせて相手を罵る。日韓両国民の大多数が宋さんのような姿勢で相手を見つめ続けることができるようになれば、日韓の歴史が変わるだろうと思う。
(写真 1941年3月から4月にかけて松岡洋右外相は独伊を訪問した。ドイツを訪問した松岡≪左≫を歓迎するアドルフ・ヒトラー≪右≫)写真はPublic domain