英宰相ウィンストン・チャーチルからのメッセージ   

チャーチルの政治哲学や人生観を土台にし、幅広い分野の話を取り上げる。そして自説を述べる。

大阪・桜宮高校のバスケ自殺問題と中国の南方週末社説改ざん問題

2013年01月10日 22時33分55秒 | 時事問題と歴史
 時計が時を刻み、世界は刻々と変化している。約1週間、書き込まない間に大阪市立桜宮高校(大阪市都島区)のバスケットボール部キャプテンだった男子生徒が昨年暮れ体罰を苦に自殺した。同部顧問の男性教諭(47)から体罰受けた。中国では、有力紙・南方週末の新年社説が広東省共産党委員会の指示で大幅に書き換えられた。
 読売新聞のサイトによれば、自殺した生徒は母親に「今日もかなり殴られた。30~40発ぐらいたたかれた」と話したという。これが事実なら、橋下大阪市長が言うように、顧問は「完全な暴行、傷害」容疑で立件されることになる。
 10日付朝日新聞は顧問が「試合で発奮させるために体罰を加えた」と報じている。ほかの部員にも体罰を加えていたという。学校側は「生徒に顧問が殴ったことを知らなかった」「顧問は体罰を否定している」と弁明している。
 桜宮高校のバスケの顧問は体育大学の出身らしい。独断と偏見で話して申し訳ないが、特に体育系大学の先生は、例外もあろうが、「精神主義」を重視する傾向が強い。桜宮高校の顧問も「実力があるのに試合で力が発揮できない選手を発奮させたかった」(10日付朝日新聞)という。精神主義のなにものでもない。
 大阪の体罰事件は今に始まった話ではない。筆者が高校時代を過ごした約50年前も同じだ。筆者の体育の先生も授業や部活動で生徒をよく殴った。今と違って人権が叫ばれなかった時代。ある程度体罰を容認していた時代だった。
   それでも理由なく殴る体育大学出身の「センコー」についに筆者と友人数人は反乱を起こし、体育の教員がいる体育教員室に押しかけ、筆者の友人が「センコー」を殴った。居合わせた柔道部の先生から羽交い絞め合い、残念なことにその「センコー」は一発殴られただけで済んだ。その友人は2週間の停学。筆者ら数人は校長に厳重注意され、親に報告された。その“事件”以降、「センコー」の態度はかなり良くなったが、それでも時々殴っていた。
   今も昔も「精神主義」という日本人の負の遺産は受け継がれている。われわれ団塊の世代の父親連中は、これまた「性根を叩き直す」の精神主義がはびこった軍隊内で古参兵からしばしば殴られたという。
 生徒を殴る前に「なぜ」試合でうまくいかなかったのかを思考せよ、と桜宮の顧問に言いたい。生徒と共に試合を徹底的に分析せよ。殴って試合に勝つなら、これほど楽なことはない!
 古参兵が所属していた帝国陸軍が中国大陸を侵略したのは誰でも知っている。中国大陸侵略の先兵が満州(現在の中国東北部)に駐屯していた関東軍。中国共産党のお偉方が、関東軍と同じ過ちをしているように思えてならない。
 広東省の週刊誌「南方週末」の新年特別号が当局の指示で改ざんされた問題で、記者や市民が言論の自由を叫んで抗議した。
  南方週末の編集部が3日付の紙面に「中国の夢 憲政の夢」と題した社説を出稿し、人治の国から法治の国への脱皮を国民に呼びかけた。これに対して共産党宣伝部は、憲政、民主、自由などの表現をすべてカットし、党賛美の内容にすり替えた(産経報道)。
 また宣伝部は、「中国ではメディアが政府に対抗すれば、必ず敗者になる」とする党機関紙・人民日報系の環球時報の7日の社説を、北京の主要4紙に掲載するように命じた。しかし北京の大衆紙の新京報だけが載せなかった。党宣伝部の副部長が新聞社に「解散させる」と脅迫めいた言葉を浴びせた。新聞社の社長は党の強硬姿勢に屈して掲載した。ただ、社説が掲載される2,3面でなく、20面に原文の半分で掲載し、当局に抵抗したという(10日付朝日新聞)。
 どうも中国共産党は、かつての仇敵である日本帝国陸軍と同じ道を歩んでいるようだ。1920年代、日本の関東軍は日露戦争の勝利の結果、ロシアから大連・旅順の租借地を譲り受け、それを守ろうとした。既得権を守ろうとした関東軍は中国人の妨害に怒った。中国人は日貨排斥や在留邦人を殺害、中国にある日本資産を回収し損害を与えた。
 「われわれは強盗をしたのではない。夜霧に紛れて大連や旅順を奪ったのではない。日露戦争勝利の代価として得たのだ。君ら中国人も条約でこのことを認めたではないか」。関東軍の高級参謀はこう言った。頭にきた関東軍はついに満州事変を引き起こし、既得権を守るだけでなく、中国の資源を分捕り、さらには大東亜共栄圏などという大風呂敷をひいて、広大な中国大陸を侵略していった。そして最後に滅んだ。
   何で滅んだのか。関東軍の言い分は一理あったとしても、歴史の変化を読めなかった。状況の変化、時の変化を読めなかった。それは民族主義だった。
  “不幸”なことに、日本による日露戦争の勝利でアジアが目覚めた。それまで西洋列強には勝てないと思い込んでいたアジアの人々が、日本の対ロ勝利で白人に勝てると思うようになった。
  1920年代、フランス革命(1789)から生まれた民族主義はアジアを席巻していた。だれも抵抗できなかった。中国人を一番いじめていた英国人は歴史の変化を見抜いて、1926年12月にクリスマス宣言で中国政府と租借問題で真剣に論議すると発表した。中国における英国の既得権を手放す決意をしたのである。この歴史の変化に逆らえば、アジアにおける英国の影響力はすべてチャラになると分析したのである。
 “お目出度い”関東軍の参謀は自分の窓だけから世界を見て、ひたすら既得権にしがみついた。中国の民族主義を「理不尽だ。中国人の暴力は許せない」と叫んだ。時の変化を一顧だに考えなかった。
   昔の民族主義は、現在の議会制民主主義、言論の自由、人権、法の支配だ。これらが大きな歴史の流れのように筆者にはみえる。どうも中国共産党のお偉方は気づいていないらしい。気づいていても、関東軍参謀と同様、舵を政治の自由へと大きく切れないらしい。
   半世紀前、毛沢東は天安門楼上で紅衛兵ら若者を接見した。毛の発言は神さまの発言。だれも反対できなかった。ちょっとでも意見が違って反対すれば、同志の劉少奇ら「走資派」のように左遷されるか、殺された。
  現在、一党独裁体制を敷いている中国共産党幹部でさえ毛沢東と同じことはできない。時が変化しつつあるということだ。歴史は変わりつつあるのだ。目覚めよ!習近平総書記ら共産党の最高指導者よ。毛沢東らから受け継いだ既得権を死守すれば、将来は暗い。
 関東軍や日本軍部の運命と同じように行き着く先は・・・・。述べないことにする。述べたら、中国当局に文章を削除され、閉鎖の憂き目にあうだろうから。あっ、しまった!すでに閉鎖に値することを書いてしまった。 

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