英宰相ウィンストン・チャーチルからのメッセージ   

チャーチルの政治哲学や人生観を土台にし、幅広い分野の話を取り上げる。そして自説を述べる。

あの傷ではやむを得ない  日馬富士の引退会見に思う   

2017年11月29日 21時15分54秒 | スポーツ
 横綱日馬富士が、貴の岩への暴行の責任をとり引退した。引退会見で「本当に国民のみなさまに、騒がせて、相撲協会、支えてくれた方に迷惑をかけて、心から申し訳ないと思っている」と話した。
 日本人の考え方から言えば、日馬富士は潔く身を引いた。「私は人間は誰でも過ちを犯す。だから日馬富士にもう一度だけチャンスを与えても良いのでは」とこのブログで発言した。
 昔は男性ファンがほとんどだった大相撲。しかし、今日では女性ファンの数が多くなった。「週刊女性プライム」に女性ファンからの声が載っていた。「甘い? でも、過ちを犯した人が反省し、許され、また頑張る姿を見せることも、日本の国技とみなが思う大相撲のあるべき形ではないか? と思う」
 私もこの女性ファンと同じ見解だ。今日の日本社会に寛容の精神が薄れ、敗者復活が厳しくなっていることを憂う。しかし、テレビで貴の岩の頭の傷を見せられ、傷害事件とみてもやむを得ないとの見方に変わった。今も昔も暴力は許されないことだが、特に現在は暴力に対しては決して許されない土壌がある。時代が変わったのだ。 
 われわれ団塊の世代が小学生の頃、先生は体罰として生徒に水の入ったバケツを持たせて廊下に立たせた。10分ぐらいして教室に戻された。たまには頭をげんこつで叩いた。今日、こんな行為を先生がやれば、失職する。
 日馬富士の親方の伊勢ヶ浜氏は「(彼は)いろんな勉強もし、社会貢献にも目が届く珍しいタイプのお相撲さんだと思っていました」「なぜこんなことになったのか、ただただ不思議というか、残念でなりません」と涙ながらに話した。
 記者会見で、日馬富士は「16歳で家族から離れ、海を渡って日本に住み、そして人に迷惑をかけないよう、相撲を通じて縁があった方々、そして私を支え応援してくださったファンのおかげで横綱になれた。日本を愛しています。ファンの皆様におわびを申し上げ、そして感謝、感謝、感謝を申し上げたい」と話した。
 また「これからのことを思い叱ることが彼(貴の岩)にとって礼儀と礼節をちゃんと身につけ頑張っていけるのかなと思ってやったのが行きすぎたことになった」とも語る。しかし貴の岩への明確な謝罪は表明されなかった。日馬富士の肩を持つわけではないが、彼が貴の岩の「振る舞い」に対して我を忘れるほど激怒したのだろう。暴力は決してあってはならないが、貴の岩の「振る舞い」が何かを知りたい。そして日馬冨士にかぎらず、大なり小なり人間は感情の動物であり、その感情を抑えることが難しいときもある。それを克服する努力が必要だ。
 私は会見を聞いて、モンゴル人の日馬富士が日本の文化や伝統を理解しようと必死に今日までやってきたことを理解した。このブログで書いたが、どの国でも、その国の国民の考え方やものの見方、伝統、文化、言語などを自由自在に、意識せずに自分のものにするのは不可能に近いと思う。
 その意味で日馬富士を称えたい。しかし彼がこの取り返しのつかない教訓を忘れずに、これらの長い人生を歩んでいってほしいと願う。決して暴力で物事を解決してはならないとの教訓を。たとえ説教であっても。インドの偉大な指導者で、非暴力主義でその国の独立を導いたマハトマ・ガンジーの精神を、私も含めて学ぶことが大切だ。 
 それとは別に、相撲協会は貴の岩が、なぜ横綱から暴力を振るわれたかを明らかにし、この事件に絡むすべてのことを洗いざらい公にしてほしい。そして、相撲が持つ、外国人が参加するスポーツの面と日本文化の宗教的な神事の面とをいかにして現代に両立させるかを模索し、あたらしい道を切り拓いていってほしい。それは大相撲協会が、300年の相撲の伝統を絶やしたくないという望みから外国人力士を採用し始めた責任にも通じる。外国人の出身国の文化や考え方を理解し、日本の文化や伝統を教え、ひいては外国人力士の出身国の国民にも日本人のものの見方を説明する努力こそが大切だ。
 「何事も始があれば終わりがある」という定理を覆してまでして、相撲協会は外国人を力士にしたのだから。本当なら、力士のなり手が日本国内で少なくなり、土俵が成立しなくなった20~30年前に、この伝統が終焉を迎えても不思議ではなかったのだから。 

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