久しぶりに「GOO Blog」に記す。半年ぶりだ。今年1月下旬、私は「今年の米大統領選挙は世界を変えるかもしれない」と書いた。3か月余後に米大統領選挙が行われる。「時は流れ、変化する」は歴史の鉄則の一つだが、米大統領選挙も例外ではない。バイデン大統領がこのほど、大統領選挙から撤退し、カマラ・ハリス副大統領が民主党かの候補として出馬するという。
一方、ドナルド・トランプ前大統領が7月13日のペンシルベニア州バトラー近郊での選挙集会中に銃撃され、九死に一生を得た。彼が共和党大会で話した「神のご加護」かどうかは分からないが、それを利用して支持者に訴えるのは、まさにポピュリスト政治家、アジテーター政治家の真骨頂だ。いずれにしても、トランプ前大統領も、副大統領候補として選ばれたバーンズ氏にしても対立候補者を罵るスタイル演説は変わらない。共和党大会で、トランプが「すべてのアメリカ人の大統領になる」と殊勝な演説をしたが、その舌の根が乾かないうちに、彼本来の個人攻撃的な演説になった。
日本の政治もそうだが、アメリカの政治も政策論争でなく個人攻撃に徹している姿を見ると、民主主義制度の前途が危ぶまれる。私は今もトランプは民主主義の敵だと思っている。民主主義制度は「議論と妥協」のシステムだ。一人の有能な人物は全知全能ではない。民主主義制度の最も優れた点は、有能な人物や凡人が議論しつくし、より良い、現実的な政策を実行し、実施中に何か不都合があれば、それを修正していくことだ。偉大な一人の独裁者、優れた独裁者でさえも数百万の凡人が議論して出した結論には勝てない。歴史が証明している。
トランプが有能かというと、いささか疑問符が付く。商売人としては優れているのかもしれないが、政治をすべて「ディール(取引)」にしては危険だ。人々にとって、政策は目の前の既得権益よりも遠い将来の利益に資するためにあると思う。
「歴史は繰り返さないが、韻を踏む」と歴史家は言う。北朝鮮、ロシア、中国は第二次世界大戦前の日独伊なのだろうか。そうとも言えるし、そうとも言えない。ただ明確なことは、この3国に指導者は皆、独裁者だ。民主主義と自由、人権、法の支配を軽視する独裁者だ。
太平洋戦争の終戦直後に生まれ、民主主義制度と自由の下で暮らしてきた「団塊の世代」ほど恵まれた世代はいない。反骨精神に富み、時の政府に反対し、デモにも参加した。それが時として災いとなり、民主主義を冒涜したときもあった。子どもの頃は貧乏だったが、時とともに日本社会は豊かになり、まじめに働けば会社は終身雇用を保障した。
現在の日本はどうなのか。民主主義制度と自由の上に胡坐をかいてはいないだろうか。それが貴重なものだとは思わない人々が日本だけでなく、米国や欧州に日々、多くなってきている。何よりも日本の場合、経済は右肩下がり、若者の将来の生活や老後の生活が脅かされているのに、それに対して真剣に取り組もうとしない、トランプのようなポピュリスト政治家が多くなっている。
歴史はわれわれに教えているのは、このような不安で豊かさが萎む時代、人々はとかくポピュリストや独裁者の口車に心酔する。民主主義と自由が脅かされる。ヒトラーのような人物が投票箱を通して国のトップに選ばれ、彼を選んだ国民は最後には悲惨な最期を迎える。ナチス・ドイツの国民は典型的な例だ。
2024年は歴史の転換点なのかもしれない。真に国民をおもう政治家が自らの信念と政敵との議論を通して民主主義を進めていけるのかどうかの分岐点に差し掛かっているのかもしれない。世界の民主主義国家の政治家は襟を正してほしい。民主主義諸国家、アジア・アフリカの中進国や開発途上国は協力と団結と譲り合いの精神で国民の生活を安定させる政治を進めてほしい。その目標に向かって歩を進めてほしい。それは、老境を迎え間もなく鬼籍に入り、幸せな時代を生き抜いてきた「団塊の世代」の望みである。
一方、ドナルド・トランプ前大統領が7月13日のペンシルベニア州バトラー近郊での選挙集会中に銃撃され、九死に一生を得た。彼が共和党大会で話した「神のご加護」かどうかは分からないが、それを利用して支持者に訴えるのは、まさにポピュリスト政治家、アジテーター政治家の真骨頂だ。いずれにしても、トランプ前大統領も、副大統領候補として選ばれたバーンズ氏にしても対立候補者を罵るスタイル演説は変わらない。共和党大会で、トランプが「すべてのアメリカ人の大統領になる」と殊勝な演説をしたが、その舌の根が乾かないうちに、彼本来の個人攻撃的な演説になった。
日本の政治もそうだが、アメリカの政治も政策論争でなく個人攻撃に徹している姿を見ると、民主主義制度の前途が危ぶまれる。私は今もトランプは民主主義の敵だと思っている。民主主義制度は「議論と妥協」のシステムだ。一人の有能な人物は全知全能ではない。民主主義制度の最も優れた点は、有能な人物や凡人が議論しつくし、より良い、現実的な政策を実行し、実施中に何か不都合があれば、それを修正していくことだ。偉大な一人の独裁者、優れた独裁者でさえも数百万の凡人が議論して出した結論には勝てない。歴史が証明している。
トランプが有能かというと、いささか疑問符が付く。商売人としては優れているのかもしれないが、政治をすべて「ディール(取引)」にしては危険だ。人々にとって、政策は目の前の既得権益よりも遠い将来の利益に資するためにあると思う。
「歴史は繰り返さないが、韻を踏む」と歴史家は言う。北朝鮮、ロシア、中国は第二次世界大戦前の日独伊なのだろうか。そうとも言えるし、そうとも言えない。ただ明確なことは、この3国に指導者は皆、独裁者だ。民主主義と自由、人権、法の支配を軽視する独裁者だ。
太平洋戦争の終戦直後に生まれ、民主主義制度と自由の下で暮らしてきた「団塊の世代」ほど恵まれた世代はいない。反骨精神に富み、時の政府に反対し、デモにも参加した。それが時として災いとなり、民主主義を冒涜したときもあった。子どもの頃は貧乏だったが、時とともに日本社会は豊かになり、まじめに働けば会社は終身雇用を保障した。
現在の日本はどうなのか。民主主義制度と自由の上に胡坐をかいてはいないだろうか。それが貴重なものだとは思わない人々が日本だけでなく、米国や欧州に日々、多くなってきている。何よりも日本の場合、経済は右肩下がり、若者の将来の生活や老後の生活が脅かされているのに、それに対して真剣に取り組もうとしない、トランプのようなポピュリスト政治家が多くなっている。
歴史はわれわれに教えているのは、このような不安で豊かさが萎む時代、人々はとかくポピュリストや独裁者の口車に心酔する。民主主義と自由が脅かされる。ヒトラーのような人物が投票箱を通して国のトップに選ばれ、彼を選んだ国民は最後には悲惨な最期を迎える。ナチス・ドイツの国民は典型的な例だ。
2024年は歴史の転換点なのかもしれない。真に国民をおもう政治家が自らの信念と政敵との議論を通して民主主義を進めていけるのかどうかの分岐点に差し掛かっているのかもしれない。世界の民主主義国家の政治家は襟を正してほしい。民主主義諸国家、アジア・アフリカの中進国や開発途上国は協力と団結と譲り合いの精神で国民の生活を安定させる政治を進めてほしい。その目標に向かって歩を進めてほしい。それは、老境を迎え間もなく鬼籍に入り、幸せな時代を生き抜いてきた「団塊の世代」の望みである。