本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

知識・意識・無意識

2023-07-08 20:31:39 | 十地経

「障りといっても、

間違いという意味も

障りになるけど、

この場合の場合は

間違いという意味でなしに

むしろ未熟だという

意味の障りですね。」

 

こういう未熟という

障りもあるということに

意外な思いもします

障りということも

何もしない場合には

障りということはないのです

何かやれば必ず障りという

ものが見えてきます

 

サッカーの古橋選手の

言葉ですが

「知識・意識・無意識」

ということを

話しておられました

先ずは新しいことを知る

色々方法とかテクニックとか

それを今度は

意識して繰り返し練習する

その練習が

無意識になるまで更に

練習していくということです

 

新しいことを知り

それを身につけようとすると

思うようにいかない

というように自分との闘い

そういう障りが見えてくる

ということです

 

その話を聞きながら

仏道修行も同じようなこと

のように思うのです

何も考えなかったら

煩悩もないのです

何か一つでも問題になると

そこから次々と課題が

見えてきます

 

十地経の地地転回という

ことも同じことで

「七地に入ってもやっぱり

七地の障りがある。」

というように

十地があるということは

一つの地に進むと

そこに障りが見えてくる

そこを克服すると

また次に障りが出てくる

 

ですから

ここで終わりということは

ないということです

歩みがあるということは

障りが出てくるので

さらなる歩みがある

ということです

 

難しいところで

まあ、ここでいいかというと

それは歩みが止まり

今まで得たものまで

失ってしまうという

危険が潜んでいます

仏道ということは

これでいいという

終着点はないということで

歩みが止まれば

後退していることで

元の木阿弥に

なってしまいます

 

そういう気持ちを

持ち続けるということが

年とともに踏ん張りどころ

でもあります

気持ちが沈んでいくところ

との闘いでもあります

 

ですから

障りが見えてくる

ということは歩んでいる

証拠であるように

思います。

 

 

 

 

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