本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

背きながら近づく

2024-09-01 20:52:03 | 十地経

仏教の話とか、また

こういう「十地経講義」の

ような話でも、

好きでたまらないというのも

おかしいし、

また反対に

全く受け入れないというのも

どうかと思うのです。

 

大学生の頃この話を聞いて

全く分からなかったのですが

何かしら、今まで求めていた

ことの答えが

あるような気がしたのです。

分からないなりにも、

毎月、お世話になっていた

東寺の宝菩提院で講義があり

聞かざるを得ないような

状況でもあったのですが

何か惹かれるように

出席していたのです。

 

その当時は話の内容よりも

準備の忙しさが大変で

そのことに追われていた

ように尾思います。

また、一泊二日で夕食のおでん

も出て、お酒も出るという

楽しい一面もあったのです。

 

講義を離れて、

世間の新聞に出てくるような

話題についての先生の考え方

もとても興味あるものでした

ときには歌も出るという

和やかなものでした。

先生の順が来ると決まって

「菩提樹」をドイツ語で

歌われました。

 

毎月あったのですが

やはり講義の日が近づくと

鬱陶しいものでした。

しかし、聞き終わると

何かスッキリしたものが

残っていたのです。

 

こういう話しも

好きでたまらないという

ことでもなく、

嫌ということでもなく、

何かしら聞かずにはおれない

というものがあったのです。

怖いもの見たさではないですが

一度聞くと、

また聞かねばというような

そういうことがあるようです。

 

背きながら近づく

ということがありますが、

反抗しているということは

反抗しながら近づいている

ということがあります。

高校生の頃、

祖父の生き方というか

信仰について疑問が起こり

毎日のように議論を

持ちかけたものでした。

ところが、

今思うと、反抗しながら

逆に近づいていったようです

 

先生の十地経講義は

ひとえに三浦先生に対して

講義されました。

お釈迦さまも弟子の中で

舎利子(舎利弗シャリホツ)に

対して話されました。

それで、

先生は三浦先生に

ノートはとらなくてもいい、

私の眼を見て聞きなさい。

と仰っておられました。

 

普通は聞きっぱなしで

その聞いたことを実行に

移された人はあまりおられません

でしたが、聞いて感動したことを

一つっ一つ実行されたのが

三浦先生でした。

 

ですから、

こういう話しは分かるとか

分からないということは

ないのであって、

ただ頷けばいいと思うのです

私たちのたかが知れた頭で

聞いて理解するということは

おこがましいことであって、

算盤の世界に生きている

私たちに分かるはずはないのです

 

ソクラテスではないのですが

こういう話しが

分からないということが

分かっただけでも

大変なことだと思います。

 

好き嫌い、損得勘定

という撥水加工が私たちの

頭には施されているのです。

何回か、繰り返し聞いていくうちに

その撥水加工が破られて

針の穴くらいの穴が開くのです

そこから少しづつ

仏法の話が沁みこんでいき

初めは点だった話が

次第に線として、面として

繋がっていくような気がします

 

分からないといことは

いいことで

反発するのは反発する

真なるものが自分の中に

芽生えてきたということ

のようにも思います。

 

やはり、真なるものには

喜んで近づくというより

背きながら近づいていく

ものでしょう。

 

そのように思いますが、…

 

 

 

 

 

 

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