本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

遺教経(ゆいきょうぎょう)

2024-09-04 19:54:18 | 十地経

普通には「遺」という字

イ、と読むようです

遺言も法律的にはイゴンと

一般的にはユイゴンと読みます。

遺教ということも

お釈迦さまの最後に残された

教えということで、

その言葉がお経になったので

「遺教経」といいます。

 

「『遺教経』というお経が

ありまして、釈尊の遺言です。

つまり『涅槃経』です。

その中に、

自分は今、入滅すると。

あのお経には如是我聞がない

お経です。つまり最後です。

沙羅双樹の間に入滅されるとき

そこへ集まった悲しんどる

弟子を激励してですね、

泣き悲しむなと、

こういって遺言を垂れられる

経文です。

だからして非常に独特の感銘を

与える経典です、短いけど。

 

その時に自分は今、

これから涅槃に入ると。

しかし法は残したと。

つまり度すべきところのものは

ことごとく度し終わり、

未だ度せざるもののためには、

度すべき因縁を与えたと。

だから仕事は済んだと。

 

死んでも死に切れん、

そんなことじゃない。

仕事が済んだから涅槃に入る。

だから死ぬるんじゃない。

涅槃に入るという。

仏に死んだということはない。

凡夫にこそ死ぬるということは

あるのです、

仏は仕事が済んだというだけの

話しです。

 

仕事は終わったんだと。

だからして、今、

度せざるものがあるけれども、

それらの人もまた、

済度されるような法が与えられたと。

 

つまりお釈迦さんは、

自分も仏になったから、

その仏になった経験を通して、

仏にならしめた法を見つけたと。

法で救われるんだと。

 

自分という人格で

救われるんじゃないと、

こういうんです。

 

私は仏という人格を得しめられた。

得しめたものは法なんだ。

我を仏にした法はちゃんと見つけた。

だから、この法を与えると。

 

だから仏は人間を直接

手を出して救うということはない。

法を通して救うんです。

これ、大事な点です。

だから法を明らかにしたら、

それで仏の仕事は終わったんだ。

 

法を明らかにするってことが

仏の仕事なんだ。

その法に救われるのは、

我々の仕事だ。

 

法が見つかった、

見出したというときに、

仏の仕事は済んだんだ。

あと、我々はまた、

時機到来して、

法に救われていくというだです。

 

仏というのも法によって救われた

人ですし、

我々はこれから救われる仏なんです。

未来の仏なんだ、我々は。

釈尊は既に成就された仏です。

我々はこれからなる仏なんです。

その法というものが、

実は、釈尊を仏にし、

我々を仏にするものなのです。」

 

どうしても私たちは

法というより人につくというか

そういう弱さがあります。

惚れこみすぎてもいかん、

ということも仰ってました。

人より法だといっても

人に就くのが人間の習性です。

そこのところを

よくよく存じ上げられていたので

お釈迦さまは念を押すように

人ではない、法なんだ、

ということを厳しく仰って

おられます。

 

私に近くにいて

私を見る人よりも

法を実践する人の方が

私の近くにある。

ということを仰っておられます。

 

こういうことを

知っておくことが大事なのでは

ないでしょうか。

 

 

 

 

 

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