本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

人間を救う原理を人間の内に求める

2024-08-23 20:20:55 | 十地経

ここの話も仏教と

他の宗教との違いを見る

とても面白いところです。

 

「自覚からいえばですね、

自分の他に仏があるはずは

ないんです、自覚からいえば。

自分の自覚を離れて

仏というものを考えることは

できないんです … 。

 

これはなにも別に

唯識ということじゃない。

清沢先生でもですね、

宗教は主観的事実だと。

主観におけるできごと

なんだと、宗教は。

それはしかもその、

唯識というんじゃない、

仏教の面目じゃないかと

思うんですね。

 

人間というものを救う

ような原理を

人間の内に求めると。

人間の外に求めるんです

大抵の宗教は、

仏教以外の宗教は。

なんか自分の外に何か一つの

自分を救うような力を

認めると、

どうしてもそこに

奇跡というようなことに

なるんです。

 

キリストは歴史の上に

現れた一つの人格です。

ナザレという特定の地域に

現れた、

特定の時に現れた人格です。

空想じゃない。

特定の時。

そこがまあ、

キリスト教の強み何です、

 

しかし、

その時にですね。

『我に来たれ』と言った。

仏教ではそういうことは

言わんです。

我に来たれというような

ことを言ったら、

それは群賊悪獣というんです

 

新興宗教の開祖や、

そんなものは。

仏教では釈迦がね、

これも特定の時代、

特定のところにあらわれた

人格ですけどね、

 

釈迦は我に来たれ

というようなことは言わん。

むしろ『往け』と言う。

『汝自身に帰れ』と、

こういうのが釈迦です。

 

だから釈迦は救い主と

いうんじゃない。

むしろそこに非常に大事

なのはですね、

ソクラテス的な一つの

性格を持っとるんです、

教育者という。

ソクラテスなんです。

 

キリスト教には

ソクラテスはないんです。

だから、

神がそのまま歴史上に

自分を現しているんだ。

絶対的なものが、

絶対のかたちをもって

相対の中に現れとるんです

そういうのは奇跡じゃないか

仏教ではそういう自分の

外にね … 。

 

外にあるものは仏教では

どういうかというと、

先輩後輩に過ぎんのです。

釈尊は我々の先輩なんだ。

つまり

後輩と先輩というのは

師弟なんです。

学生と教師なんです。

それだけの違いがある。」

 

仏教では十界ということを

いいます。

地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・

人間・天と、

ここまでが迷いの世界で

声聞・縁覚・菩薩・仏

という四つの世界が

仏の世界、さとりの世界

ということで、

私たちが迷えば

地獄・餓鬼・畜生・修羅

という世界にさまよい

修行して行けば

菩薩仏という悟りの世界

へ入っていくということです

 

よくその喩えとして

蓮の花を使います。

根の部分は地獄餓鬼畜生を

表し、そして茎が伸びて

その上に花がある

その花が菩薩仏を表してい

います。

 

仏菩薩が蓮の花に座るのは

そういうことを表しています

つまり、

仏といっても他ではなく

自分の中にあり

地獄も自分の中にある。

仏といってもその下には

地獄餓鬼畜生をもっている

人間というのは

間的在り方です

地獄にも堕ちていくし

仏にも成れるという

ことです。

 

 

「自分の他に仏があるはずは

ないんです、自覚からいえば」

 

という言葉はそういうことを

表しているのです。

「救う原理」というのは

お釈迦様が説かれた

色々の修行の内容でしょう。

また次回、

 

 

 

 

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