「未来」というと
何か知らないけれど
素晴らしい世界が待っている
ような、そのような気がする
意味合いをもった言葉です。
そういうせいか、
「みらい」と名のつく会社もあり、
また「ミライ」という名前の車
水素で走るという、
本当に未来の車です。
仏教では、未来のことを
当来(とうらい)といいます。
当に来るべき、という意味で
未来は偶然にやって来るのではなく
現在の中に内包されている、と
現在は過去の積み重ねが
今の自分を作っているし、
今やっていることが
未来の自分を作っている
ということです。
棚から牡丹餅のように
待っていたら美味しいものが
やって来るというのでは
ありません。
そういうことを大谷さんが
コマーシャルの文句の中で
言っておられました。
「何の準備もなく
凄いことをやり遂げるという
ことはないのであって、
未来は勝手にやって来るもの
ではなく、
自分で作るものだと思います。
そのために今何をすべきか」
ということでが、
まさに「当来」という内容を
表すものだと思います。
素晴らしい成績というか
前人未到の記録を成し遂げられて
いる大谷さんだからこそ
重みのある言葉だと思います。
過去・現在・未来ということは
仏教では三世(さんぜ)といいます
略して、去来現(きょらいげん)、
已今当(いこんとう)ともいいます
詳しくは
過去世・現在世・未来世といい、
現在世と未来世とを
「現当二世」(げんとうにせ)
ともいいます。
よくお経の中に出てくる文句です
未来ということも
若い人と老いている人にとっては
受け取り方が違うようです。
檀家の方で80過ぎたご婦人
通いなれた医院で先生から、
「前を向いて元気を出して
いきなさい」と言われて、
「先生、前を向いたら
あの世しかありません」
と答えて、先生も絶句された
ようです。
年とってくると未来よりも
過去のことに生きるようです。
よく母が、
「毎晩死んだ人の夢ばかり見る」
と嘆いていましたが、
その当時はなぜなのだろうと
分からなかったのですが、
母の年に近くなってくると
そういう私も亡くなった人の
ことばかり夢見るようになった
のです。
現在と未来が欠けていき
過去の思い出だけがありありと
思い出されてくるのです。
そういうせいか、
身近な人と話す時、
昔話が出てくると、
「その話は何べんも聞いた」
という返事が返ってきます。
しかし、
大事なのは過去の話が大切で
過去の話の中から新たな展開が
生まれてくるものです。
過去現在未来が
同時だとも言います。
「過現未同時」と、
何時から何時までが過去で
何時からが現在が始まり
そして何時からが未来が来るのか
といわれても、
今という一瞬の中に過現未という
ことが含まれてるのです。
「今」といった瞬間にその時は
過去になり、未来が来ている
ということです。
年とっても未来はあるもので
その未来を迎えるためには
現在の行いが正されなければ
いけないのではないかと
思うのです。
お釈迦さまが最後に説かれた
お経『遺教経』(ゆいきょうぎょう)
というのがあって、
非常に短い経典です。
その時、度すべきもの人たちは
ことごとく度した。
(度というのは渡ということで
真理の世界へ導いたということ)
まだ度していない人には
その至る道を示したと。
それで、自分のなすべき仕事は
すべてなし終えたと、
だから涅槃へ入ると、
こういうことが書いてあるのが
この『遺教経』です。
なかなかそうはいきません、
あの、一休さんでも
亡くなる時に
周りの弟子達がお言葉を
と言った時
「止にとうない」
と、
お弟子たちがびっくりされて
もう一度聞き直すと
「死にとうない」
と答えたという話しが有名です。
まして、凡人である私たちは
何と言う言葉が出てくるか
恐ろしいような気もします。
まあ、
何とか素晴らしい未来が
迎えられたら
これこそ冥利に尽きるような
気がするのです。が