大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

お江戸遊廓・洲崎パラダイスってご存知でしたか?【深川・洲崎】

2011年01月20日 20時07分05秒 | 江東区・歴史散策
先日、仕事で深川七福神巡りをご案内する機会がありました。ご参加者は皆ご年配の方々で深川の昔日を知る方が大勢いらっしゃいました。道すがら、お江戸の時代の洲崎十万坪という風光明媚な土地柄の噺をしたのですが、洲崎という地名に大いに反応された男性がいらっしゃったのです。

お江戸の歴史を語る上で、洲崎は庶民の遊山地として観光地となっていたことで知られていますが、それと共に明治から昭和にかけて洲崎は言わずと知れたお江戸の岡場所として男衆には絶大な人気を博していた場所なのです。この洲崎という地名に反応された御仁が、それまで洲崎が岡場所であったことをとんと知らなかった私に、事細かに洲崎遊廓を面白おかしく教えてくれたのです。

であればかつての遊廓の名残りが若干なりとも残っているのではないかと、暇にあかせて行ってみました。どうせならと行く前に少し洲崎遊廓について調べて見ました。

ご存知のように江戸時代において官許の遊里は言わずと知れた浅草裏手の吉原遊廓だけです。しかし官許以外の遊里は岡場所という名で、五街道の入口にあたる宿場町で公然と遊廓を開いていたのです。その代表として品川宿、内藤新宿、板橋宿、千住宿なのですが、明治に入るとこれに根津が加わります。

根津はもともと根津神社のお膝元で、概して門前町には岡場所が例外なく開かれます。余談ですが、深川富岡八満宮にも花街や岡場所があり、鎮守様詣でのついでに多くの男衆が色町で遊んだと言われています。特に深川芸者は向島、柳橋、浅草、神田の芸者衆と違い、「おきゃん」と呼ばれ、粋な深川を地でゆくキップのいい芸者だったと言われています。

まあ、そんな土地柄だったのかどうかは定かではありませんが、深川総鎮守のあった門前仲町からさほど離れていない洲崎は岡場所ができる素地があったのかも知れません。
実は前述の根津の岡場所の話に戻るのですが、明治に入り東京帝国大学が本郷に出来ると、教育機関ある本郷のそばの根津に遊廓があってはまずいという事で、根津の遊廓が洲崎に強制的に移転させられた歴史があります。明治17年ころの話のようです。根津から移転させられた遊廓は83軒あったそうです。そして明治42年にはここ洲崎にはなんと遊廓160軒、従業婦1700人、大正10年には遊廓277軒、従業婦2112人になったといわれています。

そして戦後、この場所は「洲崎パラダイス」という名の歓楽街となり、昭和29年頃はカフェー220軒、従業婦800人ほどが働いていたと言われています。昭和33年4月1日の売春防止法施行によって洲崎ではすべての遊廓の営業が廃止されました。

実は以前から不思議に思っていたことがあります。木場公園という大きな公園があるのですが、その公園の端を走る道に「大門通り」という表示が付けられています。どうして「大門通り」なのかと今に思うと、吉原でもそうであるように、遊廓の入口に立てられていた「大門」がここ洲崎遊廓にもあったのでしょう。その大門に通じる道が今なお、大門通りという名で残っていたのです。

かつての洲崎パラダイスがあった場所は東西線木場駅から東陽町へ向い、東陽3丁目交差点を左へ入った所です。すぐに旧洲崎橋があり、比較的広い道を進むと、すぐに左手にそれらしい建物が見えてきます。まぎれもなくかつて遊廓として使われた2階建ての建物で、現在は1階に商店が店を構えています。

 


2階部分にアンバランスな佇まいで柱が備わっています。その柱がタイル貼りになっていることが、かつてここが遊廓であった証拠なのです。当時の遊廓(昭和の時代)はどこも皆外壁や柱に派手なタイル貼りを多様していたと言われています。

もう一つ、これは完全に歴史的建造物ではないかと思われるような建物が残っていました。この建物こそが「洲崎パラダイス」と呼ばれていた頃からあるもので、壁面に「大賀」という郭号が残っています。当時の古い写真を見るとほぼ完全な姿でこの大賀は残っています。1階の入口の円柱は黒いタイル貼りが残り、やはり遊廓のシンボルとしてタイル貼りが使われていたと思われます。

 
 


現在この建物の1階には某政党の事務所が設けられています。かつての遊廓の建物に政党の事務所が入っていると言う時代の変遷を感じます。

尚、ここ洲崎を題材とした映画があることを知りました。昭和31年に製作された映画で題名が「洲崎パラダイス・赤信号(日活)」で、出演者は新珠三千代、三橋達也、芦川いづみ、小沢昭一と記されています。懐かしい方々ですね。私は昭和31年当時はまだ小学校の低学年で、この映画を見たことはありません。おそらく両親もこの映画の内容から子供には見せたくなかったのではないかと思われます。映画の内容を調べて見ると、赤線の女たちとそこに遊びに来る男たちの姿を描いているというではありませんか。当然、成人映画に指定されていたのかも知れないですね。

時代は下り、平成の世にかつての洲崎遊廓の名残りが僅かながら残っている風景はかなり貴重ではないでしょうか?そんな時代もあったのか、と思いながら洲崎を歩いてみました。





日本史 ブログランキングへ

神社・仏閣 ブログランキングへ

お城・史跡 ブログランキングへ


最新の画像もっと見る

コメントを投稿