ここ三河の西尾藩は1600年の関ヶ原の戦い以後、数多くの大名が入れ替わり、立ち代わり藩主の座を変えてきました。関ヶ原直後に最初に西尾に入った大名は本多家で、その後松平(大給)家、本多家、大田家、井伊家、増山家、土井家、三浦家を経て、最終的に大給松平家と落ち着いたのが10代将軍家治公の時代の明和元年(1764)に松平乗祐(のりすけ)が初代西尾藩主になってからで、およそ100年五代に渡って大給松平家が西尾藩主として明治の廃藩置県まで支配していました。
西尾城二の丸表門・鍮石門
そんな大給松平家の西尾における菩提寺である「盛厳寺」へと向かうことにしました。盛厳寺は大給松平家の転封ごとに各地を移転したのですが、明和元年(1764)に松平乗祐(のりすけ)が初代西尾藩主になった折にここ西尾に移り、大給松平家の菩提寺として藩主の厚い庇護を得ていました。
盛厳寺山門
盛厳寺本堂
立派な山門をくぐると正面にご本堂が構えています。ご本堂の左手奥に西尾藩四代藩主の松平乗全(のりたけ)と奥方様の立派な墓があります。尚、江戸表における西尾藩大給松平家の菩提寺は虎ノ門にある天徳寺で累代墓が置かれています。
松平乗全と奥方の墓
松平乗全は1839-1862まで藩主を勤め、その間の1643年に幕府寺社奉行、1644-1645の2年間は大阪城代、1645-1855幕府老中、1658-1860ではあの安政の大獄で井伊派の幕閣として一ツ橋派の処分を行った幕府老中を担っています。それなりの人物だったことから、墓もそれなりに立派な造りになっています。
それではいよいよ大給松平家の居城である西尾城へ登城することにいたしましょう。かつて西尾城の天守が聳えていた場所は現在は西尾市歴史公園という名前に変わっています。六万石の大名の居城であることから、当時はかなりの規模を有する城下町であったことが覗われます。
大手門跡の石碑
かつて大手門が置かれていた場所には、その場所を現す石柱が歩道脇に立てられています。この大手門跡から内堀があったであろう場所まではかなりの距離があり、町屋の面積を加えると西尾藩はたいそう規模の大きな城下町を形成していたように思えます。
西尾城見取り図
登城はまずイラストマップ上の二の丸表門である鍮石門(ちゅうじゃくもん)から入ることにしました。この鍮石門は政務が行われていた二の丸御殿の表門として使われていたそうです。お城の表門としての威厳が感じられる立派な構えです。実はこの門はオリジナルではなく平成8年に再建されたものです。
鍮石門
鍮石門をくぐるとかつて二の丸御殿があった「椿聴苑」の広場が現れます。その広場の奥手にある建物が平成7年に京都から移築された「旧近衛邸」です。どうして近衛家の建物がここ西尾にあるのかは定かではありませんが、江戸時代後期に造られたもので、書院と茶室が備わっています。
椿聴苑
旧近衛邸
この場所に近衛邸が移築された理由として、想像するにここ西尾が抹茶の故郷ということで紆余曲折を経て、茶室を備えている近衛邸が選ばれたのではないでしょうか。ここ近衛邸では月曜と祝日の翌日を除いて「抹茶」を楽しめるとのことです。ちなみに「抹茶一服300円(和菓子付)」。
大名時計
近衛邸を後にかつて天守が聳えていた本丸へと進んでいきましょう。本丸につづく道を進むと右手に水を湛えた濠が現れます。そしてかつては渡櫓があったであろう門跡を抜けると数段の階段とその左手に丑寅櫓の石垣が現れます。
内堀
本丸跡へとつづく石段
西尾神社鳥居
本丸井戸址
本丸跡地には西尾神社のお社ともう一つ「御剣八幡宮」のお社が置かれています。特にこの御剣八幡宮は西尾城内の鎮護のために本丸内に置かれたもので、代々の城主の崇敬が深く、源家相伝の名剣「髭切丸」と「白旗一流」を奉納したことから御剣八幡宮と名付けられたそうです。
御剣八幡宮
御剣八幡宮を回り込むように右手に進むと、現在の西尾城址のシンボルともなっている3層の本丸丑寅櫓が見えてきます。ここ西尾城も明治に入り、廃藩置県で天守や隅櫓などほとんどが櫓台とともに壊されてしまいました。しかし丑寅櫓だけは前述の御剣八幡宮の境内だったためか櫓台は壊されずに残されました。そして平成8年に三層の櫓が木造で再建されました。この櫓も入場可能なのですが、たまたま訪れたのが月曜日に重なり、残念ながら登楼することができませんでした。
西尾城址石碑
現在はそれほどの広さではない二の丸、本丸跡ですが、地方の城下町の風情を感じさせてくれる美しい姿の本丸櫓が色付きが遅れている木々の梢越しに絵葉書のような姿を見せています。
本丸丑寅櫓
本丸丑寅櫓
西尾市内にもまだまだ見るべき名刹・古刹がたくさんあります。今回は時間の都合で他の見所を割愛しましたが、次回は西尾市に隣接する旧吉良町と併せゆっくりと見学したいと思います。
三河西尾は大給松平家六万石の城下町~寺社と城址巡り(其の一)~
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そんな大給松平家の西尾における菩提寺である「盛厳寺」へと向かうことにしました。盛厳寺は大給松平家の転封ごとに各地を移転したのですが、明和元年(1764)に松平乗祐(のりすけ)が初代西尾藩主になった折にここ西尾に移り、大給松平家の菩提寺として藩主の厚い庇護を得ていました。
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立派な山門をくぐると正面にご本堂が構えています。ご本堂の左手奥に西尾藩四代藩主の松平乗全(のりたけ)と奥方様の立派な墓があります。尚、江戸表における西尾藩大給松平家の菩提寺は虎ノ門にある天徳寺で累代墓が置かれています。
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松平乗全は1839-1862まで藩主を勤め、その間の1643年に幕府寺社奉行、1644-1645の2年間は大阪城代、1645-1855幕府老中、1658-1860ではあの安政の大獄で井伊派の幕閣として一ツ橋派の処分を行った幕府老中を担っています。それなりの人物だったことから、墓もそれなりに立派な造りになっています。
それではいよいよ大給松平家の居城である西尾城へ登城することにいたしましょう。かつて西尾城の天守が聳えていた場所は現在は西尾市歴史公園という名前に変わっています。六万石の大名の居城であることから、当時はかなりの規模を有する城下町であったことが覗われます。
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かつて大手門が置かれていた場所には、その場所を現す石柱が歩道脇に立てられています。この大手門跡から内堀があったであろう場所まではかなりの距離があり、町屋の面積を加えると西尾藩はたいそう規模の大きな城下町を形成していたように思えます。
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登城はまずイラストマップ上の二の丸表門である鍮石門(ちゅうじゃくもん)から入ることにしました。この鍮石門は政務が行われていた二の丸御殿の表門として使われていたそうです。お城の表門としての威厳が感じられる立派な構えです。実はこの門はオリジナルではなく平成8年に再建されたものです。
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鍮石門をくぐるとかつて二の丸御殿があった「椿聴苑」の広場が現れます。その広場の奥手にある建物が平成7年に京都から移築された「旧近衛邸」です。どうして近衛家の建物がここ西尾にあるのかは定かではありませんが、江戸時代後期に造られたもので、書院と茶室が備わっています。
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この場所に近衛邸が移築された理由として、想像するにここ西尾が抹茶の故郷ということで紆余曲折を経て、茶室を備えている近衛邸が選ばれたのではないでしょうか。ここ近衛邸では月曜と祝日の翌日を除いて「抹茶」を楽しめるとのことです。ちなみに「抹茶一服300円(和菓子付)」。
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近衛邸を後にかつて天守が聳えていた本丸へと進んでいきましょう。本丸につづく道を進むと右手に水を湛えた濠が現れます。そしてかつては渡櫓があったであろう門跡を抜けると数段の階段とその左手に丑寅櫓の石垣が現れます。
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本丸跡地には西尾神社のお社ともう一つ「御剣八幡宮」のお社が置かれています。特にこの御剣八幡宮は西尾城内の鎮護のために本丸内に置かれたもので、代々の城主の崇敬が深く、源家相伝の名剣「髭切丸」と「白旗一流」を奉納したことから御剣八幡宮と名付けられたそうです。
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御剣八幡宮を回り込むように右手に進むと、現在の西尾城址のシンボルともなっている3層の本丸丑寅櫓が見えてきます。ここ西尾城も明治に入り、廃藩置県で天守や隅櫓などほとんどが櫓台とともに壊されてしまいました。しかし丑寅櫓だけは前述の御剣八幡宮の境内だったためか櫓台は壊されずに残されました。そして平成8年に三層の櫓が木造で再建されました。この櫓も入場可能なのですが、たまたま訪れたのが月曜日に重なり、残念ながら登楼することができませんでした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/90/0d1accc82f8496321a1d2a607156e08a.jpg)
現在はそれほどの広さではない二の丸、本丸跡ですが、地方の城下町の風情を感じさせてくれる美しい姿の本丸櫓が色付きが遅れている木々の梢越しに絵葉書のような姿を見せています。
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西尾市内にもまだまだ見るべき名刹・古刹がたくさんあります。今回は時間の都合で他の見所を割愛しましたが、次回は西尾市に隣接する旧吉良町と併せゆっくりと見学したいと思います。
三河西尾は大給松平家六万石の城下町~寺社と城址巡り(其の一)~
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