大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

木曽路十五宿街道めぐり (其の十) 木曽福島~上松

2015年08月18日 08時32分03秒 | 木曽路十五宿街道めぐり
肥田亭さんでの昼食を終えて、いよいよ本日の後半戦の始まりです。
肥田亭さんのほぼ真向いに「まつり会館」があります。ここにはあの水無神社の「みこしまくり」の様子が展示されています。(入館無料)
中山道は上ノ段の風情ある家並みに沿って200mほどつづいています。

上ノ段家並み



その道筋はその先で鋭角的に折れ曲がる「桝形」となって下り坂になります。坂を下りきると八沢川に架かる「中八沢橋」にさしかかります。この辺りで私たちは福島宿の外へでたことになります。
「中八沢橋」を渡ると道筋は右に折れ、JR中央本線の木曽福島駅へと進んでいきます。
駅へと通じる道筋はちょっとした商店街になっています。

道筋はやや上り坂となり、右手を見ると谷間に県道461号線とその向こうに木曽川が流れています。

そんな景色を眺めながら進むと、前方左手に立派な駅舎が見えてきます。JR中央本線の木曽福島の駅です。「特急しなの」が停車する駅らしく、駅前には飲食店やお土産屋が並んでいます。

木曽福島駅

そんな駅前の様子を見ながら、木曽福島とお別れし、木曽路の旅をつづけていきます。

JR木曽福島駅を過ぎて、道筋は細い側道へと入り込んで行きます。
側道に入ると右手に「御嶽教」と書かれた建物があります。これは新興宗教ではありません。
御嶽教を信仰する山岳宗教は江戸時代までは神仏混淆でした。しかし明治に入り、神仏分離政策により神道は国家管理となるのですが、山岳宗教は仏教の講という形をとって生き残ってきたのです。

ちょうど木曽福島は「御嶽山」の入口にあたるので、山岳信仰者の主要なルートになっていたのです。



道筋は木曽町役場前に出てきます。ちょっとわかりにくい道筋になるのですが、役場の敷地を迂回するような道がつくられています。
その道を進むと、役場の裏側を辿るような土道に変ります。「この道でいいのかな?」と思いつつ進んで行きます。



高台の中腹に穿かれたような細い道筋の左側は低木が続き、右側には柵はついているのですが、ほぼ崖っぷち状態で民家の屋根が崖の下に連なっています。

そんな道筋をしばらく進むと、徐々に下り坂となり、本来の旧街道筋へと合流します。

この辺りの地名が「塩渕」というようですが、その名の由来は「馬が川に転落して、積み荷の塩をまいてしまった」といわれていますが、シオという地名は川の曲流部につけられることが多いので、木曽川の曲流部にできた渕」という説の方が正しいのではないでしょうか? 

そんな道筋を歩いていると、集会所の前に塩渕の一里塚跡の石碑が置かれています。お江戸から数えて70番目の一里塚です。

塩渕付近の光景

塩渕の一里塚を過ぎ、左手の山並みを見ながら進むと、旧街道はいったん461号線に合流します。先ほどまで私たちがいた福島の町はかなり後方に遠ざかってしまいました。

50mほどの距離ですが461号に沿って歩くと、旧街道筋は461号から左手へ分岐するように上り坂へと道筋を変えていきます。
さあ!これからまた標高をあげていくのかな、と思いつつ本日の終着地点である上松宿を目指すことにします。





461号線から分岐した旧街道の道筋はやがて勾配をゆるくしながら左手からやってくる別の道筋と合流します。

その向こうには車の往来が多い19号線が走っています。
道なりに進んで行くと、道筋は2差路となります。
その分岐する場所に「中山道」の道標が置かれています。

その道標に従って進んで行きます。その道筋は19号線の下を通るように穿かれています。
この辺りは461号線と19号線の合流地点となっており、その合流地点につづく道筋が無理矢理つくられているといった感じがします。

私たちが辿る道筋は19号線の下をくぐり、合流点に上る階段に達します。

階段を上ると、右手から461号線が走り、19号線と合流していきます。
階段を上った辺りの標高は763mです。

私たちはこの461号線を横切り、右側の歩道へと移動するのですが、ここには信号がありません。
車の往来に気を付けながら、渡っていきましょう。

道筋は19号線へと入って行きますが、周りの景色は木曽路を思わせる緑濃い山並みが広がっています。

木曽福島駅前からここまで約2キロ強の距離歩いてきました。この先、私たちはしばらく19号線に沿って旅を続けていきますが、本日の終着地点である上松駅前までは7.7キロほどあります。
その途中に小休止を兼ねてトイレ休憩を予定しています。その場所はここから1.5キロほど先の19号線に面した「道の駅・木曽福島」です。

19号線の右手は深い谷となって、木曽川が流れ、その向こうには山並みがうねるように連なっています。



木々に覆われた木曽の山並みを見ながら、19号線を進んでいきます。
道筋にはこれといった集落もなく、単調な道程です。

道筋は元橋の信号交差点にさしかかります。
この交差点を右手に進んで行くと御嶽山に至ります。

私たちは元橋信号交差点を渡って、道の駅・木曽福島へ向かうことにします。

19号線の左側にはJR中央本線が走っています。
元橋信号交差点をすぎるとすぐに19号線から左へ折れる細い道筋があります。そしてこの道筋はJR中央本線の線路の下をくぐり、左手の山並みの中へと延びています。
実はこの道筋が本来の中山道です。

道の駅・木曽福島でトイレ休憩をした後、本来の中山道を歩いていただくため、再び元橋交差点まで戻る予定です。

道の駅・木曽福島には展望テラスが設置されており、眼下には木曽川が流れ、その向こうにはうねるようにつづく山並みと晴れていれば御嶽山を望むことができます。

道の駅・木曽福島

道の駅・木曽福島での休憩の後、再び元橋交差点に戻り、本来の中山道筋へと入っていきます。JR中央本線のガードをくぐると、道筋は緩やかな上り坂となり、小さな集落の中を通過していきます。
その集落を抜けると、道筋は木々が生い茂る林の中へと進んで行きます。





車の往来が多い19号線よりは、街道らしい雰囲気を漂わせ、中山道をあるいているんだな、と感じる道筋ですが、一応舗装道路になっています。
街道は木々が生い茂る林の中へと入ってきます。この道筋はいわゆる林道として使われているようですが、陽射しが遮られ、ほんの少し空気が変わったような気がします。

そんな道筋を進むと、右手のちょっとした高台に「御嶽山遥拝所」が現れます。





石段を上っていくと、平らにならした場所に常夜燈が1本と御嶽山を望む方向に鳥居が置かれています。
御嶽信仰が強かった時代には、中山道筋で御嶽山を望める場所にはこのような遥拝所が置かれていたといいます。

遥拝所を過ぎると、道筋は緩やかな下り坂へと変ります。



林を抜けると街道の右下にはJR中央本線の線路と19号線が並行して走っています。そして先ほど休憩した道の駅・木曽福島の建物が見えてきます。



道筋はこの先で坂を下りきったところで、右折しJR中央本線のガードをくぐって再び19号線と合流します。
合流後、19号線に沿って歩きますが、歩道がないので車の往来に十分に気を付けながら歩いて行きます。70mほど進んで再び19号線から分岐するように左手の道へと入って行きます。



19号線から分岐した道筋は細くなり、田舎道を歩いているような雰囲気を漂わせています。
道なりに進んで行くと、緩やかな下り坂となり、19号線へと再び合流していきます。
19号線は新しいバイパスができており、合流する道は旧19号の道筋です。
新しいバイパスができたことで、旧19号は車の往来はかなり少ないようです。

旧19号との合流地点近くに置かれているのが、沓掛一里塚跡です。お江戸から数えて71番目、京より69番目の一里塚ですが、かつての塚はなく、丸い自然石に「沓掛一里塚」と刻まれた石碑が置かれているだけです。



一里塚は街道の左右に置かれていたのですが、山側の一里塚は明治43年(1910)に中央本線の鉄道敷設の際に取り壊されてしまいました。

それでは旧19号線に沿って旅をつづけていきましょう。面白いことにほとんど車の往来がありません。
道の右側には木曽川の流れが迫り、巨岩がゴロゴロとした木曽川の眺めは一幅の絵を眺めているようです。そして前方には木々の緑と木曽川のコバルトブルーの水にアクセントをつけているかのような赤い橋が見えてきます。



木曽川が流れる木曽谷にそって進む道筋は行く手に連なる山並みの中へとまるで吸い込まれていくようにつづいています。さあ、「木曽の棧(かけはし)」に到着です。
橋に到着したあたりで本日の歩行距離も12.8キロに達します。

「木曽の棧」は木曽八景の一つで「棧の朝霞(あさかすみ)」と呼ばれた景勝地です。
ここで言う「棧」とは木曽川に架けた橋ではなく、街道時代に木曽川に沿って穿かれた中山道の崖っぷちに造られた一種の橋のようなものです。



街道時代の初期の頃の棧は丸太と板を組み、藤づる等で結んだものだったのですが、通行人の松明(たいまつ)で焼失してしまいました。棧がなくなってしまったことで、旅人達は道筋を迂回せざるを得なくなり、難儀せざるを得ませんでした。そこで慶安元年(1648)に尾張藩が875両という大金を投じて、中央部分を幅8間(約14.5m)、長さ56間(102m)の石垣を築き、その上に道筋を造ったといいます。かなり頑丈なもので、江戸時代を通じて使われていましたが、明治の鉄道工事の際にこの棧は壊されてしまいました。

この石垣造りの棧の一部は旧19号線の改修時に、その姿を後世に伝えるためとして残しています。その石垣は現在架かっている赤い橋の橋上から見ることができます。



赤い橋を渡った対岸には民営の「棧温泉」があります。
泉質は単純二酸化炭酸泉、効能は神経痛、筋肉痛、五十肩、運動麻痺、打ち身、冷え性、慢性消化器病、慢性婦人病です。
木曽地区の温泉は冷泉が多いようで、ここも13度の水を42度に沸かしています。
利用料は800円。

そして同じく橋を渡り終えた木立の中に大きな歌碑と明治天皇御聖蹟碑が置かれています。
大きな歌碑は正岡子規の文学碑で、碑面には「かけはしや あぶない処に 山つつじ 桟(かけはし)や 水にととかず 五月雨 むかしたれ 雲のゆききの あとつけて わたしてそめけん 木曽のからはし」 と刻まれています。

さあ!ここから本日の旅も終盤戦にさしかかります。木曽の棧から旧19号線に沿って進んでいきます。およそ2.5キロ先の上松宿入口の十王橋の交差点へと向かいましょう。

旧19号線は車の往来はそれほど多くはありませんが、ところどころに歩道帯がない個所があります。



本日の歩行距離が14.5キロを過ぎると、右手から19号線のバイパスが迫ってきます。
旧19号線はここでバイパスと合流します。
私たちはいったん旧19号の右側の側道へ入り、そのまま地下道通り、階段を上って合流点脇に出てきます。
そして19号線に沿って進みますが、すぐにJR中央本線のガード下をくぐります。
このガード下には歩道帯がないので、車の往来には十分に注意しなければなりません。
ガードをくぐると、前方に笹沢の信号交差点が見えてきます。
その交差点の先には19号線の上松第3トンネルの入り口が見えます。
私たちはこのトンネルの中を通らず、右手へ分岐する道筋を辿り、上松宿入口手前の十王橋信号交差点へと進んでいきます。

現在の幹線である19号線は上松宿の手前でトンネルに入ってしまい、宿内を見ずして通り抜けてしまうのです。
上松宿が観光的な素材がたくさんあるわけでもないので、あまり影響はないのではと思うのですが、上松にお住まいの方々はどのように思っていることやら……。

さあ!本日の歩行距離も15キロを超えました。
私たちの終着地点である上松駅前まであと1.2キロまで迫ってきました。



さあ!十王橋交差点にさしかかります。
この交差点を境にして前方に上松の家並(町並み)が始まります。
そして同時にこの十王橋が上松宿の東の入口にあたります。
江戸から数えて38番目の宿場町である上松宿はそれほど大きな宿場ではありません。5町31間(約540m)の宿内に家並みが連なっていました。

しかし昭和25年(1950)の大火で宿内の上町(かんまち)、中町、下町のすべての家並が焼失し、それまであった本陣や脇本陣の建物も燃えてしまいました。
現在見る上松の宿場には古い家並みはほとんど残っていませんが、上町(かんまち)には僅かながら大火で焼け残った家があるくらいです。

上松の家並

そんな上松の町のいたるところに掲げられている看板があります。その看板には「祝 御嶽海久司君 大相撲春・大坂場所デビュー決定 出羽海部屋(上松町出身)」と書かれています。ということで初土俵は2015年3月です。3月場所では6勝1敗の成績を残しています。
四股名は「みたけうみひさし」で番付は2015年の5月場所で幕下東三枚目です。2場所目となった5月場所では6勝1敗の好成績を残しています。



宿場町の風情がほとんど感じない道筋を進んで行くと、路傍に目立たない存在で置かれているのが上松の本町一里塚跡碑(72)です。もともとは別の場所にあったもののようです。

本町一里塚跡

一里塚跡碑を過ぎると、道筋はゆるやかな下りになり、すぐに上松のメインストリートらしき道筋に合流します。
上松は江戸時代から木材で発展してきましたが、現在でも「材木の街」として頑張っています。 
とくに赤沢自然休養林は日本三大美林の一つといわれ、伊勢神宮の遷宮(二十年毎に建て替えられる際)に使用される御神木が産出されることで知られています。

このまま広小路の信号交差点まで進み、右折すると本日の終着地点であるJR中央本線の上松駅前に到着です。本日の歩行距離はここまで16.2キロです。駅前には観光案内書とトイレがあります。

上松駅前

木曽路十五宿街道めぐり(其の一)塩尻~洗馬
木曽路十五宿街道めぐり(其の二)洗馬~本山
木曽路十五宿街道めぐり(其の三)本山~日出塩駅
木曽路十五宿街道めぐり(其の四)日出塩駅~贄川(にえかわ)
木曽路十五宿街道めぐり(其の五)贄川~漆の里「平沢」
木曽路十五宿街道めぐり(其の六)漆の里「平沢」~奈良井
木曽路十五宿街道めぐり(其の七)奈良井~鳥居峠~藪原
木曽路十五宿街道めぐり(其の八)藪原~宮ノ越
木曽路十五宿街道めぐり(其の九)宮ノ越~木曽福島
木曽路十五宿街道めぐり(其の十一)上松~寝覚の床
木曽路十五宿街道めぐり(其の十二)寝覚の床~倉本駅
木曽路十五宿街道めぐり(其の十三)倉本駅前~須原宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十四)須原宿~道の駅・大桑
木曽路十五宿街道めぐり(其の十五)道の駅・大桑~野尻宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十六)野尻宿~三留野宿~南木曽
木曽路十五宿街道めぐり(其の十七)南木曽~妻籠峠~妻籠宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十八)妻籠宿~馬籠峠~馬籠宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十九)馬籠宿~落合宿の東木戸
木曽路十五宿街道めぐり(其の二十)落合宿の東木戸~中津川宿



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木曽路十五宿街道めぐり (其の九) 宮ノ越~木曽福島

2015年08月17日 11時31分29秒 | 木曽路十五宿街道めぐり
さあ!中山道36番目の宿場町である「宮ノ越」を抜けました。
次の37番目の宿場町である福島宿まではおよそ7.5キロの距離です。



宿場をでてしばらく行くと、街道の傍らの草むらに自然石に一里塚と刻まれた一里塚跡が置かれています。お江戸から数えて69番目の一里塚ですが、この一里塚跡碑は2014年に置かれたものです。

一里塚跡を過ぎると、道筋は視界が大きく開けた田園地帯に入ります。
木曽川は街道の遥か右手を流れているため、流れを見ることはできません。

できれば変化に富んだ川沿いの景色を見ながら歩ければいいのですが、この先はかなり単調な田園風景を眺めながらの旅になります。
こんな道筋を淡々とした歩調で2キロほど進むと中央本線の踏切に達します。



JR中央本線の踏切を越えて、しばらくすると「原野集落」へと入ってきます。
中山道の「間の宿」であった原野には出梁造りの家が処々に残り、宮ノ越宿よりもかつての街道時代の雰囲気が残っているように感じます。

現代の原野の集落は比較的平坦な場所に穿かれた旧街道に沿って、民家が寄り添うように軒を連ねています。
かつては街道をゆく旅人達の休憩場所として、茶屋などが並んでいたのでしょう。

そんな間の宿「原野」辺りの標高は840mを超えています。
本日第一日目の行程では藪原周辺の標高が900mを超え、徐々にではありますがほんの少し標高を下げつつも、まだ840mの高さにあります。ということは、ほぼ箱根峠に等しい高度をずっ~と辿ってきたことになります。

さすが木曽路といった感がしますが、この先どれほどの標高を辿って行くのかが楽しみです。



本日の歩行距離10キロを超えると、まもなくJR中央本線の原野駅に到着です。到着といっても駅舎は街道の右手奥にあり、その姿を目視することはできません。
というより、この小さな原野の集落に何故、駅が必要なのかと、つい疑問が湧いてきます。
一つ前の宮ノ越駅からわずか2.5キロしか離れていないこの場所に駅があること自体不思議です。
駅前といっても商店街らしきものもありません。

そんな素朴な疑問を持ちながら、本日の歩行距離10.5キロ地点を通過し、ほんの僅かな距離でビニールハウスが置かれたT字路にさしかかります。
その角に置かれているのが「中山道中間地点」の標です。

中間地点

江戸、京都双方から67里38町(約268km)の位置だといます。
まあ、東海道中でも「どまんなか」なんていう場所がありましたが、中山道では「どまんなか」という表記は使っていないようです。

さて、この中山道中間地点辺りから街道の右手の山腹にひときわ目立つ大きな岩を目視することができます。
この大きな岩を明星岩と呼んでいますが、三角形の巨岩が山腹から飛び出しています。朝日がこの岩に射し込むと光り輝くと言われています。この大岩は、その昔に木曽駒高原の濃ヶ池(のうがいけ)が決壊した時に転がってきたものといわれています。

また中間地点の辺りからは晴れていれば、木曽駒ヶ岳の雄姿を見ることができます。
さあ!本日の終着地点の「道の駅・日義木曽駒」に到着です。本日の歩行距離は11キロです。
尚、道の駅にも中山道中間地点碑が置かれています。



第2日目はここ「道の駅・日義木曽駒」が出立地点となります。
明日はここから次の宿場である福島宿を辿り、上松宿までのちょっと長めの16.2キロの旅が待っています。

この「中山道中間点碑」の傍らにはもう一つの石碑が置かれています。
石碑に刻まれている文字は「駒岳夕照」です。この「駒岳夕照」は有名な近江八景になぞらえて木曽の美しい情景の中から8カ所を選んだ「木曽八景」の一つです。
ここ日義木曽駒の道の駅からは、秋から春までの間、雪をかぶった駒ヶ岳連峰を見ることができます。その白い雪に夕日が映えて赤紫色に照り輝く様があまりに幻想的である事から、駒岳夕照と命名されています。



ちなみに近江八景の中で「夕照」を冠する場所は東海道筋の「瀬田の唐橋」で「瀬田の夕照」と命名されています。



さあ!道の駅の前の19号線を歩道橋で渡り、中山道筋へと進むことにしましょう。中山道中間地点碑が置かれているT字路を左折していよいよ第二日目の行程が始まります。街道右手に連なる低い山並みを見ながら進むと、それまでの道幅よりかなり狭くなる細道の入口にさしかかります。細道といっても一応舗装されていますが、迷わずこの細い道へと進んでいきます。
道筋を進むと、二差路の右手に小沢センターが現れます。私たちは左手につづく道へと入って行きます。
道の右手一帯は田園、左手はちょっとした崖になっています。そんな道筋を進むと路傍に中山道の道標が置かれています。

その道標は歩いている道から崖を下る方向を指しています。「えっ!ほんとうにここなの?」と思いつつ、崖下へと通じる細い坂道を下りていきます。もちろん舗装はされていない草道です。
おそらく街道時代の道筋はこのような変則的ではなく、直線的につながっていたと思われますが、時代が下って本来の道筋が消滅してしまったのではないでしょうか。

僅かな距離の坂道を下ると、まだ草道が先へとつづいています。小川らしき小さなせせらぎを渡り進んで行くと、目の前に比較的大きな川筋が現れます。川の名前は「正沢川」とよばれています。道筋はこの正沢川に沿ってつづいています。
そしてその先に見せてきたのがちょっと危なかっしい造りの鉄製の橋です。





この鉄製の橋は川の真ん中にある大きな石(岩)を橋脚の支えとして利用しており、歩く部分は網目になっています。正沢川は静かな流れの渓流といったものではなく、かなり白波を立てて流れる急流です。
これが本当に中山道なのかは定かではありませんが、都会人とっては私たち日本人が忘れてしまったかもしれない日本の原風景に触れたような気分を感じると同時に、まるで絵葉書を見ているような田園風景にしばし見とれながら、これぞ木曽路そのものといった印象が伝わってくる瞬間です。



橋を渡り終えると、道筋は右手に延びています。注意しなければならないのは、川筋に沿って伸びる道筋がありますが、これを進むと行き止まりになってしまいます。

私たちは前方の家並みの中へとのびる細い坂道へ進んでいきます。僅かばかりの民家が軒を連ねる細い坂道を上って行くと県道に合流します。その合流地点に「中山道」の道標が置かれています。ということは、やはり今辿ってきた道筋がかつての街道だったのでしょう。



民家の間の細い上り坂の道筋はその先で県道に合流します。合流地点には「中山道の標」が置かれています。
ここからは平坦な道筋となり、道の左右には民家が並んでいます。
道筋が左手にカーブすると、路傍に「中原兼遠屋敷跡(なかはらかねとお)」と記された標があります。街道からは約400mと少し奥まった場所に位置しています。(当行程では見学は割愛します)

《参考》中原兼遠の屋敷跡:街道から約400m
住所:木曽郡木曽福島町新開上田

街道から逸れて細い道筋へ入って行くと、民家はすぐに途切れて左右は畑となります。
そして道筋は中央本線を跨ぐ跨橋にさしかかります。橋上からは遠くの山並みと一面の畑を眺めることができます。



こんな場所に屋敷跡があるのかと思いつつ、右手をみるとひときわ目立つ大きな松の木が遠目に1本見えます。この松が「義仲元服の松」と呼ばれています。

義仲元服の松

屋敷跡へは更に畑の畦道のような道を辿り前述の松の木まで歩いていきます。兼遠の屋敷は木曽川と正沢川そして天神川に囲まれた上田の地に南北150m、東西600mにわたる河岸段丘の上に築かれ、自然の城塞をなす要害の地であったと記されています。

830年も前の事なので、そんな面影は全く残らず、それこそ「夏草や兵どもが夢の跡」といった雰囲気が色濃く残っています。この館で義仲は幼少時代を過ごし、13歳で元服した後に宮ノ越に近い地に自分の舘を設け、そこで旗挙をしました。その場所は現在、旗挙神社が社殿を構えています。

「中原兼遠屋敷跡(なかはらかねとお)」から再び旧街道筋へもどり進んで行くと、天神川にさしかかります。川を渡ると左手に木々に覆われた小高い丘が現れます。近づいていくと街道左脇に小さなお堂二十三夜の石碑が置かれています。
ここが手習天神と呼ばれる神社です。

手習神社

この神社は兼遠が義仲の学問のために勧請したもので、若き義仲がここで手習いをしたことから手習天神と呼ばれています。
そして街道脇から丘の上につづく石段を見上げると、社殿が置かれています。

※二十三夜:二十三夜講も庚申講と同様の集まりですが、こちらは月待といって、月齢二十三日の日を忌み篭り(いみごもり)の日として、講中が集まり月の出を待って月を拝むものです。月待ちというと二十三夜と言われるように、全国的に広まっていた信仰です。十五夜から八日過ぎた二十三夜の月は、真夜中頃に東の空から昇ってきます。



手習天神をあとに街道をすすんでいきましょう。道筋は住宅街を貫き、やがて19号線といったん合流します。
合流する場所は上田口の交差点です。この交差点の標高は813mです。この交差点で右折して19号線に沿って歩きますが、
すぐに中央本線を跨ぐ橋があります。この橋を渡ったら、今度はすぐ右へと入る道筋へ進んでいきます。

道筋はすぐに下り坂となります。坂道を下るにつれて見晴しが良くなり、街道の右手一帯が開けてきます。遠くには木曽川が流れ、その流れが徐々に19号線に近づいてくるようです。
先ほどの交差点の標高が813mありましたが、徐々に標高は下がり798mになり、更に下げていきます。そんな道筋はこの先で再び19号線に合流します。そして木曽川が右手に迫ってきます。



19号線に合流すると反対側にデイリーヤマザキが現れます。しかし合流地点で反対側に渡りたいのですが、信号も横断歩道もないため渡ることができません。このまま19号線の右側の歩道を歩いて矢崎橋交差点へと進んでいきます。
木曽川は19号線のすぐ脇を流れ、右手には緩やかな稜線を描く低い山並みが続いています。
車の往来が激しい19号線に沿って歩くのですが、車の騒音を気にしなければ、何度も長閑な旅路です。





矢崎橋を過ぎるとそれまで19号線のすぐ脇を流れていた木曽川はいったん遠ざかっていきます。私たちはそのまま19号線の右側の歩道を進みますが、実は19号線の左側に2つの史跡が置かれています。その一つが「経塚」です。

この経塚は初代木曽代官山村良候が家臣を伴って全国の霊場に大乗経を納めたことを記念して、100回忌の元禄14年(1701)に塚を築き松を植えたものです。後世になって五代(曾孫)、六代(曾曾孫)の木曽代官が碑文を刻み、大日如来を祀って先祖の霊を慰めたそうです。19号を渡るにはちょっと危険なので、遠目から見ていただきます。

そしてその先に大きな店構えの蕎麦屋さんが19号線の右手に現れます。店の名前は「車屋」です。当店は福島宿内に本店を構え、ここが支店のようです。
そんなお店がある場所のちょうど反対側に「芭蕉句碑」が置かれています。しかもなにやら金網に囲まれた、薮の中に石碑らしきものが置かれています。
句碑には「思い立つ 木曽や四月の 桜狩り」と刻まれています。

芭蕉句碑

旧街道は車屋さんの店から斜め右手へと進みます。いったん19号線とはお別れです。
道筋を進むと、頭上を通る橋の下にさしかかります。木曽川にかかる「木曽大橋」で、ここから飛騨高山へと通じる木曽街道(361号線)の起点にあたる場所です。

木曽大橋

木曽大橋のガードをくぐり、その先で旧街道は再び19号線と合流します。
合流するとまもなく関町の2差路の交差点にさしかかります。19号線は左へ分岐していきますが、すぐトンネルに入ってしまいます。私たちは右手に分岐する道筋へ進んでいきます。
その分岐点の高台に「関所の町・木曽福島」の大きな看板が置かれています。
ここを通過すると木曽福島の関所まで500mの距離です。
さあ!まもなく福島宿です。





宿場へとつながる道筋の右手には木曽川が間近に迫っています。前方を見るとここ福島宿のランドマークとして関所があることを示すドデカイ「冠木門」が迫ってきます。

冠木門

何故ゆえにこんな大きなものを造ったのかと思うのですが、ここ福島の関所は中山道の中でも碓井の関所とともにとりわけ女改めと鉄砲検査が厳しかったことで知られており、中山道を代表する関所だったのです。そんなことでこのことをことさら強調するために、こんな大きな冠木門を造ったのではないでしょうか? ちなみにこの冠木門は木製ではなく鉄製ですよ!

福島宿は中山道37番目の宿場町です。天保14年(1843)の記録によれば、宿内の家数は158軒、そのうち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠14軒、宿内の人口は972人

中山道の中でも厳しいお調べが行われた福島宿にしては、宿内の規模はそれほど大きなものではないような気がします。
特に本陣1軒、脇本陣1軒はちょっと少ないと思われます。このことは関所を抱える宿場町特有の特徴で、関所のある宿場では居住まいが悪く、大名たちもできる限りここに留まることを避けていたのではないでしょうか。

さあ!福島宿内の散策を楽しむことにいたしましょう。旧街道は関所を抜けて、上の段へと繋がっていたのですが、私たちはまず福島の関所を見学した後、木曽川を渡り対岸の高台へと向かうことにします。まずは江戸時代の四大関所の一つである福島の関所へと向かいます。
かつて街道時代に使われていたと思われる緩やかな土道の上り坂を上がると木の柵に囲まれた一画に「関所跡」の大きな石碑が置かれています。
その先に関所の入口にあたる「東門」が構えています。

関所跡碑

※四大関所とは、「天下の険」と歌われた「箱根」、浜名湖の西岸に設けられた「新居」、関東・信濃・北陸の分岐点に当たる「碓氷」、そして、木曽路のほぼ中央に当たる「福島」の四つの関所のことです。

関所跡がある場所は崖下に木曽川が流れ、背後には山の斜面が迫る狭隘な地形に置かれています。過ぎ去った時代の旅人たちは中山道を辿ってくると、必然的にこの関所に誘われるように進んでこなければならなかったはずです。ということは、福島の関所は何人たりとも勝手に抜けられないような立地に置かれていたわけです。

「東門」をくぐると左手に関所の建物が現れます。この東門は比較的高さがあるので、当時は馬に乗ったままでも通過できたと思われます。そして関所の入口に構える西門に到着です。



「東門」をくぐると左手に関所の建物が現れます。この東門は比較的高さがあるので、当時は馬に乗ったままでも通過できたと思われます。そして関所の入口に構える西門に到着です。西門には受付があるので、ここで入場券を購入します。
◆入館料:大人300円 団体割引:15名以上10%割引



私たちはこれまで東海道中で箱根や新居の関署跡を見てきましたが、ここ福島の関所の立地から箱根、新居に比べると敷地も狭く、なにやら暗い感じがします。現在見る関所の建物は「福島関所資料館」として復元されたものです。資料館には上番所・下番所・勝手を復元し、関所通行に関する資料が展示されています。



当時の取り調べではまず下番が取り次ぎ、上番がその報告に誤りがないかを更に確認したようです。

番所に垂れ下がる幔幕(まんまく)と大きな提灯に染められた「まるいち」の紋所はここ福島の関所の関守を任されていた「山村家」の家紋です。
江戸の初期に関所が設置されたときから廃関されるまでの約270年間、代官である山村家が守り通しました。このように1つの家柄だけで関所を守ったのは大変珍しく、幕府からも一目置かれた存在だったようです。

関所のある道筋には関所に務める役人の家々が連なっていたといいます。その一つが、関所の隣に家を構える「高瀬家」です。
高瀬家は大阪冬の陣の頃にここ福島にやってきて、高瀬八右衛門武声が代官山村氏に仕え、御側役、鉄砲術指南役、勘定役を務めた家柄です。
尚、高瀬家は藤村の姉(園)の嫁ぎ先として知られています。園(その)は藤村の作品「家」に登場するお種、「夜明け前」の中ではお粂のモデルになった人物です。そのような格式を持つ高瀬家ですが、昭和2年の大火で古い家は焼失し、当時のものは土蔵と庭園の一部が残っているだけです。土蔵には江戸時代に官許の薬屋(奇應丸)を営んでいた高瀬家の歴史や藤村関係の資料の展示が多くあります。
尚、高瀬家の土蔵の見学には一人200円の見学料が必要です。

福島関所の見学を終えて、石段を使って国道(19号線)へいったん降り、反対側へ渡り関所橋へと進んでいきます。
勢いよく流れる木曽川に架かる関所橋の欄干に一枚のレリーフが嵌めこまれています。



良く見ると「祭り」の一場面を描いているようです。この絵柄は毎年7月22日、23日の両日に開催される水無(すいむ)神社の祭礼で「みこしまくり」といわれる行事を描いています。
絵柄には神輿を地面に転がすか、叩きつけているのが分かりませんが、奇祭の一つではないかと思われます。「まくり」とは転がすという意味です。実は重さ100貫(約400㎏)もある木製の白木の神輿を地面に転がし、転がして、なんと最後には壊してしまうというかなり荒っぽい祭のようです。

この祭りはまず水無(すいむ)神社から天狗の装いをした『猿田彦の神』に先導されて町内を練り歩きます。そして町内を巡りながら「心願(しんがん)」と呼ばれる神事を行います。「心願(しんがん)」とは赤ん坊を御輿の下をくぐらせ、その子の健康を願う神事です。

そして祭り2日目にこの祭りのハイライトが訪れます。「まくり」の神事が行われるのですが、神輿が地面に叩きつけられ、徐々にその姿を変えていくのですが、その神輿の破片を我先にと拾いあうことも一つの神事です。
この破片を家に持ち帰り祀ると災難除けになると言われています。
そして日が変わるころ、神輿は本来の姿を失い、担ぎ棒だけの無残な姿になってしまいます。

こんな祭りの様子を展示する「祭り会館」が本日の昼食場所である「肥田屋」の傍にあります。

木曽川の流れに架かる関所橋を渡って対岸の高台へと進んでいきましょう。
少し勾配のある坂道を上りきると道筋はT字路になり、突き当りに水場が設けられています。
私たちをこのT字路を右折して、興禅寺門前へと進んでいきます。



門前には「萬松山興禅寺」の石柱と「木曽義仲公廟所」と刻まれた石碑が置かれています。
趣のある山門の先へ参道が通じ、その向こうにもう一つの門が置かれています。

興禅寺は義仲公、木曽の領主木曽家代々、木曽代官山村家代々の菩提所で、木曽三大寺の一つとして知られています。
※木曽三大寺:木曽郡大桑村の常勝寺(じょうしょうじ)、木曽福島の長福寺

興禅寺は永享6(1434)年木曽義仲追膳供養のため、木曽氏12代信道公が荒廃していた寺を修復再建し、開山には鎌倉建長寺開山蘭渓道隆五世の孫、圓覚太華和尚を迎えました。これにより信道公を開基、太華和尚を中興開山としています。
明応5(1496)年叔雅和尚の代に木曽氏16代義元公(叔雅和尚の父)の庇護を受けて寺勢はますます大きくなり、これにより、義元公を中興開基、叔雅和尚を中興開山としています。

参道を進むと古めかしい門が私たちを迎えてくれます・
実は当寺の歴史は古いのですが、昭和2年の大火によって境内の諸堂はすべて焼失し、現在ある建物はすべて再建されたものです。この古めかしい御門も再建(昭和29年)されたものですが、様式は室町時代の勅使門です。

勅使門

勅使門をくぐり直進すると、正面に大悲殿(御影観音堂:昭和30年再建)があり、その堂前には義仲公お手植えと言われている桜の木が植えられています。(但しこの桜は2代目です。)

その桜の傍らに山頭火の句碑が置かれています。碑には「たまたま詣でて、木曽は花まつり」と刻まれています。

また傍には「木曽踊発祥之地」と刻まれた大きな石碑が置かれています。木曽踊は長野県木曾地方で哀調を帯びた木曽節に合わせて踊る素朴な盆踊りです。



碑文にあるように鎌倉時代(15世紀)に木曽氏12代目信道が小丸山城を築き 興禅寺を木曽義仲の菩提寺としました。この時の倶利伽羅峠の戦勝を記念した霊祭で武者たちの「風流陣の踊り」が行われ, その武者踊りが「木曽踊」の起源と考えられています。その後民衆に伝わり盆踊りとして広まっていきました。

大悲殿(御影観音堂)の脇を抜けて、いったん境内の外へでて、道を上り行き止まりの高台にあるのが義仲公をはじめとする木曽氏の墓です。



すでに辿った宮ノ越の徳音寺でも義仲公、巴御前や家臣たちの墓を訪れましたが、さすが木曽には義仲公ゆかりの墓があるもんですね。
この廟所には中央に義仲公、右側は信道(木曽氏第十二代、寺開基)、左は義康(第十八代福島城を築いた)の墓が置かれ、義仲公の墓には、彼の遺髪が埋められているそうです。

木曽氏廟所に上がる手前に大きな句碑が置かれています。これも山頭火の句碑「さくら ちりをへたるところ 旭将軍の墓」と刻まれています。



さて、当寺には「看雲庭」と呼ばれている大きな枯山水の庭があることで知られています。
ただ、この庭が歴史ある古い物という訳ではないのですが、その広さは東洋一(日本一)を誇り、雲海の美をテーマにした景観を見ることができます。昭和37年に現代作庭家の巨匠重森三玲氏によって造られました。
尚、この庭と併設されている宝物館に入るためには入館料が必要です。
大人:500円(その内容からいってちょっと高いような気がしますが……。)



それでは興禅寺を辞して、旅を続けてまいりましょう。
興禅寺門前の道をまた戻る形で直進していきます。まもなくすると右手に立派な堂宇を構える寺が見えてきます。この寺が興禅寺と並び木曽三大寺の一つに数えられている「長福寺」です。門前に「面談謝絶」とあるので、境内に入ることはできません。
長福寺を過ぎると、道筋は左へと折れ、すぐ右手に現れる木曽福島会館前を通り、木曽会館の駐車場が途切れた次の交差点で右へ曲がります。右へ曲がると道筋の右手の石垣の上は福島小学校です。

実はこの先に山村代官屋敷跡があります。山村家の敷地面積は広大で、現在の福島小学校の敷地も代官屋敷の一部だったのです。その石垣の脇に代官屋敷の東門跡の標が置かれています。
そしてその石垣に積まれた2つの石の表面になにやら文字が彫られています。
上の石の文字はかなりかすれて、読みづらいのですが、「俎(まないた)の なる日はきかず かんこ鳥(世有)」と刻まれています。



延享2年(1745)に尾張藩主徳川宗勝(むねかつ)が帰国の途中、山村代官屋敷に1泊しました。このとき供として従ってきたのが藩の重臣であり、学者でもあった横井世有(せゆう)です。横井世有が書 いたのが「岐岨路紀行 」ですが、この句は「岐岨路紀行」の一節です。

道筋はこの先で信号交差点にさしかかります。この交差点を渡った右手に山村代官屋敷跡のリニューアルされた「門」がどっしりと構えています。そして真っ直ぐに伸びた桧の並木を見ながら屋敷の入り口へと向かいます。



山村家は家康公の「福島を幕府直轄にする」という幕命により、所領の木曽福島を取り上げられましたが、時を同じくして山村家は福島代官になり、そして旗本になった家柄です。
 
その後、木曽地区は尾張藩の所領になりましたが、尾張藩は山村家に福島代官職をそのまま続けさせ、山村家は江戸と名古屋に屋敷を持ち、幕府と尾張藩に仕えるという、かなりしたたかな人物だったようです。

その山村代官の権限は強大で、代官屋敷も豪壮を極め、屋敷内には庭園が20もあったといいます。山村家の敷地面積は下屋敷の数倍もあり、隣の福島小学校の敷地も屋敷の一部だった、といいますが、現在残っているのは、山村代官下屋敷のみで、享保8年(1723)に建てられたものです。

泉水庭園が見事と紹介されていますが、手入れが行き届いていないのか、行政の予算がないのか、言われているほどのものではありませんでした。
ただこの庭に面した廊下からは木曽駒ヶ岳を借景とした景色を眺めることができます。

館内には山村家ゆかりのものが展示されていますが、展示されているものがそれほど価値のあるものとは思えません。ただ建物が古いということであれば一応は価値があるのかな? またどうでもいいのですが、「おまつしゃさま」なる、山村家の守り神のお稲荷様が一つの部屋に祀られています。そしてそのお稲荷様の祠の中に「キツネのミイラ」が収まっています。
私達が当館を伺った時、職員の方が自慢そうに「キツネのミイラ」を御開帳してくれたのが妙に印象的でした。

ここまで福島宿内を見てきましたが、前述のように昭和2年の大火によって、宿内のほとんどが焼け落ち、古い家並みをほとんど見ることがありません。宿場町であったことは確かなのですが、福島の地は宿場町の印象よりも、山村家の支配の地としての印象が強く残る場所です。

私たちが辿ってきた道筋は街道時代の道筋から逸れた場所です。本来の宿場の道筋は上町の信号から本町に至る部分だったので、山村代官屋敷を後に、本町方面へと進んで行くことにします。
山村代官前の信号交差点から道筋を下ると、木曽川に架かる大手橋にさしかかります。橋を渡ると、その先に支所前の信号交差点があります。この辺りがかつての宿場の家並があり、一番賑やかな場所だったようです。

支所前の信号交差点で右折すると右手に蔦屋という旅館が店を構えています。そしてその向かいに仕舞屋風の建物が1軒あります。見るからに老舗然としたお店で「酒屋」です。
商号には七笑酒造と書かれています。

七笑酒造

「七笑」とは面白い商号ですが、この七笑とは木曽駒高原にある集落の地名からとったものです。
実はこの七笑の集落で義仲公の若きころ、すなわち「駒王丸」と呼ばれていた頃に過ごした場所なのです。

この七笑酒造の前を通り、次の角を左へ曲がるのが中山道の道筋です。
細い道筋へ入ると、左側は七笑酒造の酒蔵が並ぶ工場になっています。七笑酒造の工場が途切れる辺りから道筋は上り坂となります。
坂を登りきると、右手に置かれているのが復元された高札場です。
おそらくこの辺りが福島宿の入り口だったのではないでしょうか。
そして私たちがいる場所が「上ノ段」と呼ばれている地域です。

高札場

この上ノ段には福島宿で唯一、宿場時代の風情を残している家並みを見ることができます。

道筋に沿って連格子が嵌められた2階建ての家並が数軒つづいています。

上ノ段の家並

そんな一画に店を構えるのが「肥田亭」さんです。私たちはこの肥田亭さんで昼食をとることにします。
建物自体は100年を超える古いもののようです。趣ある造りの店内で食べるおしゃれな定食はなかなか美味です。

肥田亭内

巴御膳

ここ肥田亭さん到着時点で本日の5.7㌔地点に達します。

肥田亭
長野県木曽郡木曽町福島上の段 5248番地
☎0264-24-2480
<ランチタイム>    11:30~13:30(L.O.)
<カフェタイム>    15:30~17:00
<ディナータイム>   17:30~21:00(L.O.)
<閉店>         21:30
定休日:火曜日

肥田亭

木曽路十五宿街道めぐり(其の一)塩尻~洗馬
木曽路十五宿街道めぐり(其の二)洗馬~本山
木曽路十五宿街道めぐり(其の三)本山~日出塩駅
木曽路十五宿街道めぐり(其の四)日出塩駅~贄川(にえかわ)
木曽路十五宿街道めぐり(其の五)贄川~漆の里「平沢」
木曽路十五宿街道めぐり(其の六)漆の里「平沢」~奈良井
木曽路十五宿街道めぐり(其の七)奈良井~鳥居峠~藪原
木曽路十五宿街道めぐり(其の八)藪原~宮ノ越
木曽路十五宿街道めぐり(其の十)木曽福島~上松
木曽路十五宿街道めぐり(其の十一)上松~寝覚の床
木曽路十五宿街道めぐり(其の十二)寝覚の床~倉本駅
木曽路十五宿街道めぐり(其の十三)倉本駅前~須原宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十四)須原宿~道の駅・大桑
木曽路十五宿街道めぐり(其の十五)道の駅・大桑~野尻宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十六)野尻宿~三留野宿~南木曽
木曽路十五宿街道めぐり(其の十七)南木曽~妻籠峠~妻籠宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十八)妻籠宿~馬籠峠~馬籠宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十九)馬籠宿~落合宿の東木戸
木曽路十五宿街道めぐり(其の二十)落合宿の東木戸~中津川宿



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木曽路十五宿街道めぐり (其の八) 藪原~宮ノ越

2015年08月17日 08時50分21秒 | 木曽路十五宿街道めぐり
木曽路十五宿街道めぐりの其の一から其の七までの区間では塩尻を起点として洗馬、本山、贄川、漆器の町「平沢」を経て、美しい町並みの残る「奈良井宿」そして鳥居峠を越えて藪原宿へやってきました。

薮原宿は江戸日本橋から35番目の宿場で、天保14年(1843)には人口1493人、家数266軒、本陣1、脇本陣1、旅籠10軒の規模です。中山道の中心に位置する藪原宿は江戸時代からミネバリの木で作られた「お六櫛」の生産で栄えていました。

しかし現在の宿内は静かな佇まいを見せてはいるのですが、期待するほどの宿場の風情はなく、街道沿いには「お六櫛」を扱う店を含めてわずか数軒ばかりが古そうな店構えを見せています。

かつて高札場が置かれた場所から、ほんの僅かな距離にJR藪原駅があります。いかにも田舎の駅舎といった可愛らしい駅ですが、この駅は無人駅ではありません。そして駅前には比較的大きな駐車場が併設されていますが、それほど多くの車は駐車していません。この駐車場が満車になることがあるのかと思いたくなるくらいに、長閑な空気が流れている駅前です。
もちろん商店街などありません。

藪原駅前

駅舎のある広場から見上げる場所にあるのが、「道の駅きそむら」です。「其の八」の出発地点はここ「道の駅きそむら」です。

そんな「道の駅きそむら」の標高はなんと936mもあります。前回は標高1197mの鳥居峠を越え、坂道を下って、下って下界に降りてきたように思えたのですが、まだ標高が936mもあることに、さすが木曽路という思いを改めて感じる瞬間です。



さあ!いよいよ第2回の木曽路街道めぐりが始まります。第2回はここ「道の駅きそむら」の駐車場が第一日目の起点です。
ここから木曽の山間を辿り、36番目の宮ノ越宿を経て、原野駅近くの「道の駅・日義木曽駒」までの11キロが本日の行程です。それでは「道の駅きそむら」の前を走る国道19号線に沿って進んでまいりましょう。
道筋は緩やかな下り坂から始まります。藪原宿内からは木曽の山並みは少し遠ざかっていましたが、国道19号を歩き始めると山並みが迫ってきます。



19号線の右側には中央本線の線路が走り、その向こうには奈良井川に代わり、木曽川の流れが現れてきます。
第1回の行程では街道に沿って奈良井川が付かず離れず流れていたのですが、これからは木曽川を友に街道歩きを楽しんでいくことになります。緩やかな下り坂を進んで1キロほど進むと、標高は917mとなります。



1キロ地点を過ぎると国道19号は緑濃い木々がうっそうと茂る山並みが迫る谷間へと入ってきます。
木曽川の早い流れが国道19号のすぐ右手に迫ってきます。歩き始めて1キロあたりまでは中央本線の線路が見えていたのですが、途中でトンネルに入ってしまっているので、線路は見えません。
1.5キロ地点の標高は更に下がって899mです。山間を縫うようにして走る国道19号線1.5キロ地点を過ぎると、緩やかに右手へカーブをきって木曽川に架かる橋を渡ります。

道筋は比較的新しく整備されたようです。橋を渡ると国道の右側の崖側に大きなレリーフが嵌めこまれています。
見上げるほどの大きさなので、何が彫られているのがすぐには分からないのですが、よく見ると大きな松の木が左手に置かれ、右半分には馬と人物が描かれています。レリーフの題は中山道の鳥居峠を越える様子を描いているようです。



私たちはすでに鳥居峠を越えてこの場所に来ているので、かなりの難所であることは実感としてわかっていますが、現代の東下りの旅人たちは、この先に難所が待ち構えていることをこのレリーフを見て心の準備をするのではないでしょうか。

レリーフを過ぎると、19号線は今度は緩やかに左手にカーブをきって進んで行きます。



カーブを曲がりきると、久し振りに信号交差点が現れます。菅(すげ)の交差点です。
菅交差点はT字路になっていますが、私たちはそのまま国道19号線に沿って進んで行きます。
菅交差点を過ぎると、まもなく歩き始めて2キロ地点にさしかかります。そしてこの辺りの標高は少し上がって909mに達します。



菅(すげ)交差点から少し行くと、前方にトンネルの入り口が現れます。
トンネルの中を歩くのか、と思って近づいてみると、トンネルにはトンネルの外側を歩けるように歩行者専用の側道が付けられ、外の景色を眺めながら歩くことができます。

一応、トンネルには名前が付いており、トンネル入り口には「吉田洞門」の銘板が嵌めこまれています。

吉田洞門

旧中山道はかつてはこの吉田洞門の上を辿っていたようです。現在は閉鎖されて通行ができません。
幕末の文久2年に皇女和宮様が江戸へ向かう道中では吉田洞門の上の高巻という場所を通ったそうです。

洞門の側道の右側には木曽川の流れが迫っています。そして木曽川の流れの向こう側には長閑な畑が広がり、吉田地区の集落の家が散見できます。



平成の世に辿る中山道は国道19号線に沿って歩く部分が多いのですが、過ぎ去った時代の旅人たちは山肌に穿かれた草道、土道を歩いたことでしょう。この吉田洞門の上は山並みが連なっています。かつてはこの洞門の上を歩いていたということは、右側に流れる木曽川をかなり高い位置から見下ろすように街道が造られていたことになります。
ちょうどこの辺りは木曽川の右手の山並みは遠く離れた位置にあり、比較的視界が広がり、開放的な景色になっています。

洞門の側道が終わり、19号線の歩道を進むと吉田交差点にさしかかります。それまで間近に迫って流れていた木曽川はこの辺りから少しづつ遠ざかり、視界から見えなくなっていきます。

そんな景色を眺めながら進むと、歩き始めて3キロ地点にさしかかります。そしてこの辺りの標高は897mです。



歩き始めて3キロ地点を過ぎると、国道19号線は再び山間へと入って行きます。
山が両側から覆いかぶさるように迫ってきます。
中山道はほんとうに変化のある景色を楽しめます。

街道間近に山並みが迫る景色がほぼ途切れなくつづくのは、東海道中では経験がありません。
裏を返せば、それだけに昔の旅人はたいへん苦労した道筋だったに違いありません。

現在の19号線はいたるところで木曽川を橋で渡るようになっていますが、その昔の中山道はおそらく木曽川に迫る山肌に道筋が穿かれ、それほど多くの橋が架けられていなかったのではないでしょうか。

いくら川幅が狭いとはいえ、いったん大雨が降れば川幅の狭い木曽川は濁流と化し、簡単な木橋はあっという間に濁流に飲み込まれてしまったはずです。

そんなことを考えながら進んで行くと、前方に趣のある橋が視界に入ってきます。
周囲の木々の緑に映えるような白いペンキで塗られたトラス型の橋です。木曽川に架かる橋で、橋の名前は「吉田橋」です。

吉田橋

吉田橋を渡る前に、その手前の信号で進行方向に向かって左側へと移動しましょう。というのは、吉田橋を渡るとすぐに木曽川に沿ってつづく遊歩道へと入るための準備です。吉田橋の橋上からは木曽川の流れと木々の緑に覆われた美しい景色が現れます。



吉田橋を渡ると、すぐに左手に入る遊歩道が木曽川に沿ってつづいています。
車の往来が多い19号線を歩くよりは、木曽川の流れと水音を聞きながらの歩行の方が気持ち的にかなり落ち着きます。
それほど長い距離ではありませんが木々の緑を間近に見ながら進むと、前方にトンネルの入り口が目に飛び込んできます。そして遊歩道は再び19号線に合流します。その合流地点には標高887mの表示が掲示されています。

山吹トンネル



前方にぽっかりと口を開けたトンネル入り口が近づいてきます。
トンネルの名前は「山吹トンネル」といいます。
トンネルの入り口には隧道の完成年月日や長さ、幅などが表示されています。
◆完成年月日:1985年3月
◆トンネルの長さ:334m
◆トンネルの幅:8m


このトンネルができる前までは、中山道の道筋はこの先にある「巴渕」から山吹山を回り込んで穿かれ、その道筋には「間の茶屋」があったと言われています。
山吹峠という地名もありますが、この名は義仲公の愛妾であった山吹姫からとったものです。

トンネル内に入ると若干ヒヤッとした空気を感じます。幹線である19号線はやたらと車の往来が多く、大きなトラックが轟音といったほうがいいくらいの音を鳴り響かせて私たちの傍を走り抜けていきます。
でも、一応トンネル内にはガードレールが付された歩行者用の歩道帯がついているので、少しは安心なのですが、トンネル内を進むにつれて入口も出口も見えなくなり、ほんの少し閉塞感を感じてしまいます。

トンネルを抜けると、本日の歩行距離4キロに達します。そして前方に神谷入口の信号交差点が現れます。

この神谷入口信号交差点のところがこれまで歩いてきた「木祖村」とこれから先の「木曽町」の境になります。そんな場所に現代の旅人にとっては「立場」的存在のコンビニ(セブンイレブン)が現れます。



こんな辺鄙な場所にコンビニがあるなんて、中山道を歩く現代の旅人にとってはまさにオアシスですが、このコンビニはここを歩く旅人を意識して出店した訳ではなく、19号線を利用する車のドライバーのためのもののようです。
ここまで街道沿いには休憩場所、すなわちトイレがなかったので、まずはトイレ休憩を兼ねて一休みをしましょう。

さあ!旅をつづけていきましょう。コンビニから500mほど進むと木曽川に架かる「山吹橋」にさしかかります。この橋を渡り少し行くと比較的大きな交差点が現れます。
巴渕交差点です。その交差点の角に36番目の宿場町である「宮ノ越宿」の大きな標が置かれています。

宮ノ越宿

とはいってもこの場所が宮ノ越宿の入り口(木戸)ではありません。本来の宿の木戸はまだ先です。私たちはこの交差点で右折し、19号線としばらくお別れとなります。そして旧街道を辿り、宮ノ越宿へと進んでいきます。



巴渕の交差点を右折すると、それまでの19号線の喧騒から隔絶されたように静かな道筋へと変ります。その道筋の右側には木曽川が流れ、周囲は鬱蒼とした木々に覆われています。
路肩にはこの辺りの方々が植えていると思われる草花が整然と並んでいます。

ちなみに木曽路(木曽谷)の中で義仲公や巴御前、さらには四天王と最も関わりが深い宮ノ越を訪れる際に、是非読んでいただきたいのが「歴史街道・木曽義仲」です。当号は木曽義仲の特集で、彼の生い立ちから終焉までを詳しく記述されています。



この本を読んだ印象では、木曽路での義仲公の人気は絶大で、義仲公あっての木曽路といった感じです。



その道筋の先に中央本線のガードが見えてきます。ガードをくぐるとすぐに現れるのが「巴渕」です。

巴渕

木曽川が大きく折れ曲がって流れる場所が「巴渕」と呼ばれています。折れ曲がって流れる水流が巴状の渦巻きとなることでこう名付けられているようですが、実は伝説によると、この渕には龍神が住み、化身して義仲公の養父である「中原兼遠(かねとう)」の娘として生まれた巴御前がこの渕で水浴をし、泳いで武芸を鍛錬したといいます。
巴御前は義仲公の愛妾となり、共に出陣し彼女の霊はここに帰ってきたと伝えられています。

木曽川が大きく折れ曲がるこの場所には、小さな広場が設けられ、そこには東屋が置かれています。小休止を兼ねて東屋で腰を掛け、すぐ下を流れる木曽川を見ると、それまで勢いよく流れていた川筋はさざ波一つたたない、静かな水を湛える渕になっています。
翡翠のような美しい色合いの水を湛える巴渕はまさに龍神の棲家のような神秘的な雰囲気を漂わせています。

巴渕

この巴渕に架かる橋が「巴橋」です。巴橋を渡る時、右手の巴渕は静かな水を湛えているのですが、橋の左手には堰が設けられ、その先には白波をたてながら木曽川が勢いよく流れています。
橋を渡ると「南宮神社手洗水」の案内が置かれています。  
巴淵の脇に清水が湧き出ており、義仲が産土南宮神社を拝するときの手洗水としたといわれ、今も石舟が残っています。

南宮神社手洗水

私たちは巴橋を渡り、細い道筋を辿り、徳音寺集落を抜けて進んでいきます。この道筋が旧中山道です。

巴渕から静かな雰囲気を漂わす徳音寺集落を抜けながら、およそ900m進むと木曽川に架かる「葵橋」にさしかかります。
旧街道はそのまま直進して「宮ノ越宿」へと向かうのですが、私たちはいったんここで旧街道とお別れし、義仲公所縁の場所へ向かうことにします。
葵橋を渡るとすぐにJR中央本線のガードが現れます。このガードをくぐると、道筋は急に上り坂となります。
けっこうな急坂なので、これまで歩いてきた体にはかなり負担を感じます。
坂を登りきると平坦な道筋になり、200mほど進んだ左側に神社が現れます。
「旗挙八幡宮」と書かれた大きな看板には「木曽義仲公館跡・元服大欅(けやき)」の文字が書かれています。

旗挙八幡宮

義仲公は養父「中原兼遠」によって駒王丸と名付けられ育てられました。そして義仲公はこの辺りに城(館)を構え、八幡宮を祀ったと伝えられています。
駒王丸は13歳にして元服し、木曽次郎源義仲と名を改め、治承4年(1180)に一千余騎を従え、頼朝の挙兵から20日遅れで、平家打倒の「旗挙」をしました。時に義仲27歳の頃です。これにより当社は「旗挙八幡宮」と呼ばれるようになったそうです。

尚、毎年8月中旬には宮ノ越の北に位置する「山吹山」の山肌に「木」の火文字が灯されます。これは「らっぽしょ祭り」と呼ばれる行事で、「らっぽしょ」とは義仲公が平家追討の旗挙を行ったことを意味しているようです。



その後、北陸に進撃、入京を果たした後、義仲公は征夷大将軍に任ぜられました。
しかし、後白河法皇の策略によって鎌倉軍に敗れ、近江の粟津ヶ原(あわつがはら)で討死。旗挙してからわずか4年、31歳の短い生涯でした。

源義仲は久寿元年(1154)源義賢の次男として武蔵国(埼玉県)大蔵で生まれたといわれています。幼名を駒王丸といい母は小枝(さえ)御前という遊女であったらしい。父義賢は帯刀先生(たてわきせんじょう)といい、近衛天皇が皇太子の時に剣を帯びて護衛長官をつとめましたが、久寿二年(1155)、一族内の勢力争いが原因となって起きた大蔵合戦で兄義朝の長男悪源汰義平に討たれました。義仲の兄仲家は義賢が都にいた時の子で、残された仲家を源頼政がひきとり猶子として育てましたが、宇治川の合戦で敗れ頼政とともに討死しています。

義賢を討った悪源太義平は後難を恐れ、畠山重能に駒王丸を捜し出して殺すよう命じたが、重能は僅か二歳の子を殺すにはしのびず、ちょうど武蔵に下向してきた斉藤別当実盛に預けました。実盛は、東国に駒王丸をおくのは危険であると判断し、小枝御前に抱かせて木曽の中原兼遠のもとに送り届けたのです。

小さな社殿の傍らの(けやき)は樹齢約800年の大木です。義仲の元服を記念して植えられ、「旗挙欅」とも呼ばれているものですが、落雷により傷つき、痛々しい姿になっています。

旗挙欅

その様子はあたかも悲劇の武将である義仲公を物語っていると同時に「兵が夢の跡」といった雰囲気を漂わせています。
この痛々しい欅の傍らには2代目の欅がありますが、これも100年以上経過していると思われます。

尚、この旗挙八幡宮からさほど遠くない場所に「南宮神社(なんぐうじんじゃ)」が社殿を構えています。
義仲が宮ノ越に館を構えた際、関ヶ原にある美濃国一の宮の南宮神社を勧請し現在の場所に移されたとされています。宮の越の地名も、宮(神社)の越し(中腹)を意味するものです。
義仲の戦勝祈願所として、木曽家にとっては重要な社でした。また養蚕の神、安産の神としても崇められ、村内ばかりでなく木曽中からの参拝者が絶えなかったといわれています。

それでは同じ道筋を辿り、葵橋を渡り旧街道へ戻ることにしましょう。



宮ノ越宿への道筋は左手に木曽川の流れを眺めつつ進んでいきます。それなりに家並みが増えてくるのは宮ノ越宿が近いことを示しています。

道筋を進んで行くと、前方にこんもりとした林が見えてきます。見るからに鎮守の杜か何らかの寺院が置かれているといった雰囲気が漂っています。

間もなくすると三叉路に達しますが、その右手奥に木曽八景の一つ「徳音寺の晩鐘」として知られている徳音寺が堂宇を構えています。

徳音寺山門

当寺は仁安3年(1168)義仲公が母小枝御前の菩提所と平家追討の祈願所として建立したもので 柏原寺が前身です。義仲討死後、覚明上人が義仲法名により寺名を徳音寺と改め、義仲の菩提寺と したといいます。

立派な山門をくぐり境内に入ると左手に立派なご本堂が置かれています。

ご本堂

本堂へと連なる境内には数本の杉の大木が植えられ、ご本堂の背後に迫る木々に覆われた山がまるで借景のような美しさを見せています。そしてご本堂の前には巴御前の乗馬姿の像が置かれています。





さらにご本堂の前を通って、一番奥には義仲公を祀る「御霊堂」が置かれ、堂内には義仲公の等身大の像と御位牌、そして甲冑が供えられています。



御霊堂のある場所から直角に右へ折れて直進すると、いよいよ義仲公をはじめ小枝御前、今井兼平、巴御前、樋口兼光の墓所へと繋がっていきます。(左から2番目の画像が義仲公の墓)

木々に覆われ苔生した石段を上って行くと、まるで雛壇のように義仲公の墓を一番奥に配置し、あたかも義仲公を守るかのように小枝御前、家臣の今井兼平、巴御前、樋口兼光の墓石が整然と並んでいます。









尚、門前には「木曽殿菩提所徳音寺」と刻まれた石柱が立っています。
義仲公の墓は宮ノ越の徳音寺の他に、木曽福島の興禅寺、滋賀県の大津市の義仲寺に置かれています。



ちなみに徳音寺がある場所の地名は「日義(ひよし)」といいます。「日」は義仲公が「朝日将軍」と呼ばれていたので朝日の「日」、「義」は「義仲」の一文字をとって「日義」という地名になっています。

歴史の中での義仲公の評価は朝廷から逆賊として追われる身になったことで、おおかた「悪者」扱いされることが多いのですが、ここ木曽では彼の評価がどうであれ、郷土の英雄として扱われているのは事実のようです。
平家追討という源家一族の共通の目的の中で、いち早く旗挙をし、怒涛の勢いで京まで上り、征夷大将軍の称号まで賜った義仲公だったのですが、京都での振る舞いがあだになり、朝廷から追われる身になってしまった義仲は、ついには義経らの鎌倉源氏軍に討たれてしまうのです。まあ、考えようによっては木曽の山猿が都という都会に出て、人が変わってしまったのかもしれませんが…。
そしてこれを討った義経も平家滅亡後、兄頼朝とそりが合わず、最終的には鎌倉方に討たれてしまうという巡りあわせ。
ということは一番ズルイ野郎は「頼朝」か、ということになるのですが……。

そんな栄枯盛衰のはかなさを演じた義仲公を郷土の英雄として崇める木曽の日義には、小さな町に似合わないくらい立派な「義仲舘」があります。

義仲館

館内の入口から入ると、まずは木曽義仲、巴御前そして今井四郎兼平、樋口次郎兼光、根井行親、楯親忠ら木曽四天王のほぼ等身大と思われるろう人形が私たちを出迎えてくれます。人形が来ている衣装も見事なもので、併せて甲冑も素晴らしいものです。
館内はそれほど広くはないのですが、義仲公ゆかりの地の写真、平安時代の甲冑、義仲陣太鼓、義仲の生涯を描いた絵画などの展示があります。

入口の門から入ると正面に義仲公と巴御前の像が置かれています。



義仲舘を辞して、旅を進めていきましょう。間もなくすると本日の歩行距離が7.5キロに達します。ということは本日の終着地点である道の駅「日義木曽駒」までは3.5キロに迫ってきました。
そして道筋は36番目の宿場町である「宮ノ越」の宿内へと入って行くのですが、実は宮ノ越宿は明治16年の宮の越の大火で宿場は全焼したため、江戸時代の建物はまったくといっていいほど残っていません。さらにはこの大火で宿場の入口も出口も分からないままなのです。

私たちは義仲舘からまっすぐに延びる道を歩き、木曽川に架かる「義仲橋」を渡り、一応宿内へ入ることにします。
義仲橋を渡り、すぐの交差点を左へ折れると旧街道に入ってきます。確かに古い家並みは残っていません。

宮ノ越の宿場は四町三十四間(450m)ほどの長さをもち、266軒の家があり、585人が住んでいました。天保時代の記録によると本陣1、脇本陣1、問屋場2、旅籠21軒の規模を持っていました。

まもなくすると街道左側に本陣跡の標識があります。そして中山道宮越宿の木柱と明治天皇御小休所跡の石碑が立っていいます。脇本陣は街道の右側の草むらの中に、木札で脇本陣跡と表示されているだけです。



木曽路十五宿街道めぐり(其の一)塩尻~洗馬
木曽路十五宿街道めぐり(其の二)洗馬~本山
木曽路十五宿街道めぐり(其の三)本山~日出塩駅
木曽路十五宿街道めぐり(其の四)日出塩駅~贄川(にえかわ)
木曽路十五宿街道めぐり(其の五)贄川~漆の里「平沢」
木曽路十五宿街道めぐり(其の六)漆の里「平沢」~奈良井
木曽路十五宿街道めぐり(其の七)奈良井~鳥居峠~藪原
木曽路十五宿街道めぐり(其の九)宮ノ越~木曽福島
木曽路十五宿街道めぐり(其の十)木曽福島~上松
木曽路十五宿街道めぐり(其の十一)上松~寝覚の床
木曽路十五宿街道めぐり(其の十二)寝覚の床~倉本駅
木曽路十五宿街道めぐり(其の十三)倉本駅前~須原宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十四)須原宿~道の駅・大桑
木曽路十五宿街道めぐり(其の十五)道の駅・大桑~野尻宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十六)野尻宿~三留野宿~南木曽
木曽路十五宿街道めぐり(其の十七)南木曽~妻籠峠~妻籠宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十八)妻籠宿~馬籠峠~馬籠宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十九)馬籠宿~落合宿の東木戸
木曽路十五宿街道めぐり(其の二十)落合宿の東木戸~中津川宿



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木曽路十五宿街道めぐり(其の七) 奈良井宿~鳥居峠~藪原宿

2015年08月10日 14時49分23秒 | 木曽路十五宿街道めぐり
奈良井宿は下町・中町・上町の3地域からなっています。私たちは昨日、下町、中町そして鉤の手から上町を歩き、ほぼ宿内を踏破しています。



私たちの本日の出発地点は奈良井川畔の権兵衛駐車場です。そして期待と不安を胸に「鳥居峠」を越えて、藪原宿の道の駅「木曽川源流の里きそむら」までの6.2キロへ、いよいよ出立です。



権兵衛駐車場辺りの標高は942mですが、ここから徐々に勾配を上げていきます。
それでは中山道筋へ戻ることにしましょう。宿場然とした家並みが途切れる辺りに置かれているのが「高札場」です。この高札場には江戸時代から明治初期まで掟・条目・禁制等を周知する目的で使われていました。当時の絵図をもとに昭和48年(1973)に復元されたものです。



高札場の隣には水場・宮の沢が置かれています。水場とは生活用水や火事の消火のために近郊の沢水や湧き水を引いて設けられたもので、現在、奈良井宿には6箇所の水場があります。

高札場と水場を過ぎると、奈良井宿の上町のはずれに達します。このはずれの森の中に社殿を構えるのが「鎮神社」です。



疫病の流行を鎮めるため、元和4年(1618)に下総国(現千葉県)の香取神社から御神体を勧請したことに名の由来があります。この場所からは鎮神社の常夜燈越しに奈良井宿の上町の家並みと遥か彼方の山並みを眺めることができます。

鎮神社が奈良井宿のはずれとなり、私たちはいよいよ「鳥居峠」への入口へ向かいます。



楢川民族資料館を右に見ながら、緩やかな坂道を進んで行きましょう。ほんの僅かな距離で、右手の林の中へ斜めに延びる石段が現れます。その石段の下に自然石の道標が置かれています。





石碑の表面には「中山道 右上鳥居峠 左下奈良井宿」と刻まれています。
奈良井の宿場からさほど離れていないこの場所からいよいよ鳥居峠への峠道の前哨戦が始まります。峠の頂の標高が1197mなので、頂までの約2キロで標高差250mを克服しなければなりません。

標高1197mに位置する鳥居峠。古くは県坂(あがたさか)と呼ばれ、中山道の前身である岐蘇路(きそじ)という古道が通っていました。鳥居峠と名付けられるのは明応年間(1492~1500)に木曽の領主だった木曽義元の故事に因んでいます。その義元が小笠原氏との戦に向かう最中、峠から御嶽山を拝遥し戦勝祈願したところ、見事勝利をおさめたので鳥居を奉納したとの由来が伝わっています。

そんな鳥居峠ですが、中山道を辿って京へのぼる旅人、そして江戸へと向かう旅人は木曽の深い谷間を縫うように歩いてくるのですが、ここにきて突然現れる峠越えの急坂にどんな思いをしたのでしょうか。

石段をのぼると、道筋は左右を杉並木に覆われた土道のスロープに変ります。



このスロープの坂道は最初の頃はそれほどきつくないのですが、登るにつれて勾配がきつくなります。300mほど登ると、いったん舗装道路に合流します。そこには「鳥居峠へ2.16 k」の道標が無造作に置かれています。
装道路はこの先で大きく左へカーブを切って「自然探勝園の案内板」前にさしかかります。



この「自然探勝園の案内板」の先で、本格的な旧中山道のラフロードが始まります。
その道筋の入口は先ほどと同じような石段で、その先には石畳がつづいています。
登り口の脇にはまた自然石の道標が置かれています。道標には「上る 鳥居峠 下る 奈良井宿」と刻まれています。



さあ!いよいよここから標高1,197mの鳥居峠の最高地点を目指す旅が始まります。

勾配のある石段をのぼると、石畳の道筋が始まりますが、石畳の道筋はそれほど長くありません。石畳の道筋が途切れるあたりで、道筋は峠越えとは思えないほど平坦に近い状態になります。



私たちが歩く道筋の左側は谷が深くえぐられ、ところどころに大雨で崩落したような爪痕が残されています。右の写真は崩落で道筋が失われ、仮の桟橋が架けられています。そして山肌には倒木した木々が無残な姿をみせています。



古くは信濃と美濃の国境だった鳥居峠。そんな地理的要因からしばしば合戦の場となったのが鳥居峠です。戦国時代末期には武田家を見限った木曽義昌の軍勢と、没落の道を辿りつつあった武田勝頼の軍勢がここで刃を交えました。
山道を辿っていく途中、葬沢(ほうむりさわ)と呼ばれる場所があります。案内板によると、この場所は天正10年(1582)2月、木曽義昌が武田勝頼の2000余兵を迎撃し、大勝利を収めた鳥居峠の古戦場です。この時、武田方の戦死者500余名でこの谷が埋もれたといわれ、戦死者を葬った場として、葬沢と呼ばれています。



葬沢(ほうむりさわ)を越えると、細い道筋の傍らに「掘っ建て小屋」が現れます。



「中の茶屋」があった場所に建てられた休憩小屋です。あばら家といった感じでトイレの設備はありません。
小屋の壁には菊池寛の「恩讐の彼方へ」の舞台となった鳥居峠についての説明が掲げられています。

中の茶屋を過ぎると、道筋は急斜面を上るつづら折りへ変ります。ここまではそれほどキツイ上りではなかったのですが、いよいよ峠の頂への胸突き八丁かなと思わせるような坂道です。
つづら折りの坂道が終わると、こんどはダラダラとつづくスロープ状の上り坂が始まります。この坂も結構きつく感じます。



長い坂道が終わると旧中山道は、やがて明治時代に開かれた旧国道に合流します。国道といっても馬車の往来のために造られた道なので、道幅は狭く砂利道です。この旧道と旧国道の合流地点に「峰の茶屋」という休憩小屋があります。





小屋の前には水場があり、山中から引いてきた清水がこんこんと流れ落ちています。峰の茶屋とありますが、実際の峠の頂はもう少し先です。



峰の茶屋からはほぼ平坦な歩きやすい道筋に変ります。



しばらく歩くと三叉路にさしかかります。そんな三叉路の角に置かれているのが、「クマ除けの鐘」です。1000mを越える鳥居峠周辺には野生の熊が生息しているんですね。開発が進んだ鳥居峠なのですが、山深いこの辺りに野生の熊がいてもおかしくはないのです。



遠く過ぎ去った時代に、この道筋を辿った旅人たちは野生の熊の出現におびえながら峠超えをしたのではないでしょうか。

道筋の左側は山が迫り、右側は深い谷にえぐられ、落ちてしまったら、とつい頭によぎります。それほど起伏のない道筋は「トチの巨木」が群生する場所にさしかかります。



道筋の崖側に幹部分に大きな穴があいた「子産の栃(こうみのとち)」と呼ばれるトチの木が1本立っています。
昔、この穴の中に捨て子があり、子宝に恵まれない村人が、育てて幸福になったことから、このトチの実を煎じて飲めば、子宝に恵まれると言い伝えられています。



ここからほんの僅かな距離で、鳥居が建つ場所にでてきます。ここが「御嶽遥拝所」です。御嶽山は古来から信仰の山として知られています。江戸の方向から来た信者にとって鳥居峠を越えたこのあたりで、御嶽を望むことができるため遥拝所は設けられたといいます。そしてこの場所こそ峠の最高地点です。また、この「鳥居」が鳥居峠の名のいわれとなったものです。

「御嶽遥拝所」からさほど離れていない場所に、「義仲硯水」と書かれた石碑が置かれています。
木曾義仲が平家討伐の旗揚げをした時、御嶽山へ奉納する願書を書くのに使ったと伝えられているものです。石碑の上の小高いところに、古い井桁状に囲まれたものがあるのですが、それが義仲硯水のようです。

そして、その先にあるのが丸山公園です。そこにはいくつかの句碑が建っています。松尾芭蕉、法眼獲物などの美濃以哉派のもので、薮原や木曽福島などの町人富裕層を中心とした俳人達が建立したものです。
「木曽の栃 浮世の人の 土産かな 芭蕉」



さあ!丸山公園が置かれている場所から道筋はいよいよ下り坂へと変ります。峰の茶屋から丸山公園までは、ほとんど起伏がなく、難なく歩いてきてしまいます。あの上り坂の疲れも丸山公園までの道程の間でほとんど消えています。



中山道(木曽路)の最大の難所の一つとして知られている「鳥居峠」の頂(御嶽遥拝所の辺りが本来の頂)を越えると、道筋は一転して坂道へと変ります。身体にとって下りの坂道はエネルギーの消耗が上りに比べて格段に少ないように思われます。

緑濃い林の中に穿かれたほぼ1本道をひたすら降りていくといった感じです。
下り始めてふと思うことは、江戸方面からの上りより、京方面からの勾配と上りの距離がキツイように思えるのですが……。

途中、つづら折りの道が続く道筋にさしかかります。ほんとうに下り坂は樂です。

つづら折りの道が終わると、前方に道が大きく湾曲するところから真ん中に延びる石畳の道筋が現れます。もちろんこの石畳を下りていくことになるのですが、この石畳は復元されたもののようです。
復元された石畳とは言え、カラマツ林に囲まれた旧街道には石畳がとても似合います。



石畳の道が途切れる辺りお稲荷さんの小さな祠が置かれています。そしてこの先の案内板が置かれている場所で鳥居峠の峠道は一応終わるのですが、藪原の宿場までは緩やかな坂が続いていきます。

歩き始めて4キロ地点を過ぎると、右手に現れるのが消防署です。そして原町へと入っていきます。



消防署のある交差点脇に公衆トイレが置かれていますので、ここで小休止です。
尚、トイレ脇に自動販売機が置かれていますが稼働していません。尚、反対側の消防署の敷地にも自動販売機があります。こちらの販売器は稼働しています。

さあ!歩き始めて4キロ地点を通過しました。本日の終着点である道の駅まで残すところ1.5キロに迫ってきました。

緩やかな下り坂の道を下っていきましょう。街道の左側に「天降社・水神」の祠のある辺りから民家が増え、藪原の宿場が近いことを感じさせてくれます。そんな街道脇に「原町清水」と呼ばれる水場が置かれ、清らかな水がとめどなく流れ落ちています。道筋はまだ下っています。



そして街道からほんの少し右奥に入ったところに置かれているのが「御鷹匠役所跡」です。



別名お鷹城と呼ばれ、鷹狩りに使う鷹の雛を確保するために設けられた施設です。尾張藩は享保15年(1730)ここに御鷹匠役所を設置し、訓練された鷹は将軍家に献上したり、諸大名への贈り物にしていました。明治4年に役所は廃止されました。
正面に三沢山、眼下には藪原の家並みを望むことができます。

道筋の先にやや視界が広がる辺りに置かれているのが、「飛騨街道分岐点(追分)」です。飛騨街道は境峠、野麦峠を経て高山に至る険阻な道だったそうです。



藪原宿への最後の急坂を下りていきましょう。道筋はまっすぐ伸びていますが、私たちは街道筋から中央本線の線路際の細い道へ入り、線路を跨ぐ陸橋を渡り藪原宿へ向かうことにします。

【藪原宿概要】
薮原宿は江戸日本橋から35番目の宿場で、天保14年(1843)には人口1493人、家数266軒、本陣1、脇本陣1、旅籠10軒の規模です。

藪原宿は江戸時代からミネバリの木で作られた「お六櫛」の生産で栄えていました。「お六櫛」の名の由来については諸説ありますが、妻籠宿の旅籠屋にいた娘の名からとったという説が有名です。

頭痛の病に悩んでいたお六は御岳山に治癒の願をかけたところ、ミネバリの木で作った櫛で髪を梳かすようお告げを聞き、その通りに櫛を作り毎日朝夕と髪を梳いたところ、みるみるうちに眼病が回復したという話が伝わっています。

宿場内に入るとかつての宿内を貫く街道がまっすぐに延びています。なんとも静かな雰囲気が漂っています。



江戸寄りのはずれにまず本陣が構えていたのですが、現在全く痕跡を留めていません。ただ1本の木柱に「藪原宿本陣跡」と書かれているだけです。



本陣は木曽家の家臣だった古畑氏が務めていました。間口14間半、奥行き21軒半の広い屋敷は20余室の部屋を持ち、番所や馬屋等も付属し木曽11宿中最大規模の本陣だったと言われています。

本陣跡のすぐ隣には創業1613年の元旅籠の「こめや」が古い佇まいを見せています。



現在も旅館を営んでいるとのことです。現在の建物は1884年大火後の再建です。ここ藪原宿も前述の大火で、古い家並みがほとんど残っていません。先へつづく道筋を眺めて感じるのは、高層の建物がほとんどないため、空が広く感じるくらいです。

それでは街道筋からちょっと逸れますが、藪原宿を見下ろす高台に社殿を構える「藪原神社」へ伺うことにしましょう。中央本線の線路脇の高台に建つ神社で、天武天皇9年に熊野から勧請したのが始まりといいます。
そのため、熊野社、熊野大権現、熊野大神宮とも呼ばれていたといいます。

参道入口の石段をのぼったところに朱色の一の鳥居が置かれています。



石段を上がりきると、石造りの明神鳥居が置かれ、鳥居の手前には手水舎、左右に狛犬が守っています。社殿は二つ目の鳥居からさらに石段をのぼったところに建てられています。尚、御祭神は伊弉冉尊・速玉男命・事解男命の三柱です。



再び宿内の街道筋へ戻りましょう。街道に戻りちょっと進むと、左手に石垣が現れます。
この石垣は元禄8年(1695)の藪原の大火後に築かれた防火高塀で、この石垣を基礎にして上に土塀を設け火事に備えていました。





さあ!歩き始めて5キロ地点を通過です。そんな場所に店を構えているのが、お六櫛の看板を掲げる宮川漆器店です。

そしてその先にはお六櫛問屋の篠原商店です。ちなみに東海道中の土山宿内にかつてお六櫛を扱う店が何軒もあった、なんて話を思い出しました。その元祖がここ藪原宿の「お六櫛」の元祖である篠原商店なのでしょう。

そして道筋はこの先で二股に分岐します。旧街道は右手に延びる道筋です。そんな分岐点の手前の右側に「藪原宿の高札場跡」が置かれています。



当時は御半形(ごはげ)と呼ばれ、桝形だった場所です。現在は左手へ進むと駅へと直進する道が造られ、当時の街道を思い起こさせるような面影はありません。

旧街道はこの高札場跡から右手に延びる道筋へと進んでいきます。
道筋は細くなり、すぐ右手には墓地が現れます。一見すると、墓石は古いものもありますが、結構新しい墓石が目立ちます。
墓地が途切れる辺りに流れる川を渡ると、道筋は右手へカーブを描き、その先にD51機関車が見えてきます。

このD51の機関車が置かれている角に藪原一里塚跡(66)が置かれています。
道筋はT字路となるので、これを左へ折れ進んで行くとJR中央本線の薮原駅ホーム下のガードへとさしかかります。ガードをくぐり左折しましょう。そうすると左手に薮原駅の駅舎が現れます。



駅舎を過ぎて、私たちは本日の終着地点の道の駅「木曽川源流の里きそむら」へと通じるちょっと急な坂道を登っていきましょう。お疲れ様でした。奈良井宿から鳥居峠を越えてここ「道の駅」までの6.2キロを完歩いたしました。

木曽路十五宿街道めぐり(其の一)塩尻~洗馬
木曽路十五宿街道めぐり(其の二)洗馬~本山
木曽路十五宿街道めぐり(其の三)本山~日出塩駅
木曽路十五宿街道めぐり(其の四)日出塩駅~贄川(にえかわ)
木曽路十五宿街道めぐり(其の五)贄川~漆の里「平沢」
木曽路十五宿街道めぐり(其の六)漆の里「平沢」~奈良井
木曽路十五宿街道めぐり(其の八)藪原~宮ノ越
木曽路十五宿街道めぐり(其の九)宮ノ越~木曽福島
木曽路十五宿街道めぐり(其の十)木曽福島~上松
木曽路十五宿街道めぐり(其の十一)上松~寝覚の床
木曽路十五宿街道めぐり(其の十二)寝覚の床~倉本駅
木曽路十五宿街道めぐり(其の十三)倉本駅前~須原宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十四)須原宿~道の駅・大桑
木曽路十五宿街道めぐり(其の十五)道の駅・大桑~野尻宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十六)野尻宿~三留野宿~南木曽
木曽路十五宿街道めぐり(其の十七)南木曽~妻籠峠~妻籠宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十八)妻籠宿~馬籠峠~馬籠宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十九)馬籠宿~落合宿の東木戸
木曽路十五宿街道めぐり(其の二十)落合宿の東木戸~中津川宿



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木曽路十五宿街道めぐり(其の六) 漆器の里「平沢」~奈良井宿

2015年08月10日 14時14分31秒 | 木曽路十五宿街道めぐり
平沢の町のはずれで本日の歩行距離は9.5キロに達します。私たちは町のはずれで二股に分かれる道筋にさしかかります。
ここで道筋を右手へと進むのですが、これが本来の中山道であったのかは定かではありませんが、この道筋を辿ると奈良井川の流れを間近に見ることができる土手道となります。
奈良井川の対岸は緑濃い山並みが続いています。なんとも長閑な雰囲気を漂わせる道筋です。



奈良井川沿いの土手道を進んで行くと、左手に現れてくるのが「木曽楢川小学校」です。都会ではもう見られない木造の校舎です。さすが木材の産地である木曽ならではの木造校舎です。
校舎の一角には「とんがり屋根」の構造物も!



自然に溢れた木曽に似合う小学校ですが、教室に入ると木の香りがプンプンと漂っているのではないでしょうか。こんな小学校に通う子供たちがうらやましいかぎりです。

木曽楢川小学校を過ぎると、私たちは木曽平沢地区からいよいよ奈良井地区へと入っていきます。
奈良井川に沿ってつづいた土手道も終わりに近づいたところで、私たちは奈良井川に架かる橋を渡り、奈良井地区へと進んでいきます。橋を渡ると道筋は少し上り坂となります。坂を登っていくと、眼下に奈良井川の流れを一望することができます。
そしてその先の中央本線の踏切を渡ると、新しい奈良井の町の家並みが現れてきます。

街道の左手には中央本線の線路と奈良井川が並行して走っています。そんな道筋に現れる「丸山漆器店」を過ぎると、本日の歩行距離はちょうど11キロに達します。





さあ!奈良井宿の古い家並みが近づいてきます。
宿場内に入る前に、町を守るために置かれた鎮守様である「八幡神社」へお参りすることにしましょう。
街道筋から斜めに入る坂道をほんの少し上ると八幡神社の参道石段下に出てきます。

この八幡神社は奈良井宿下町の氏神で、祭神は誉田別尊です。奈良井宿の丑寅の方角にあたり、鬼門除けの守護神として崇敬されたともいわれています。創建は天正年間(1573~92)に勧請されたのが始まりで、当時の領主だった奈良井義高の館から見ると北東にあたり、鬼門鎮護の神社として崇敬庇護されました。現在の本殿は一間社流れ造り、江戸時代末期に建立されたそうです。



そして八幡神社の石段の中ほどのところから右手に延びる土道に沿って、旧中山道の杉並木が残されています。
この道筋は江戸時代の中山道で、現在17本の杉並木が残っています。



この杉並木が途切れるところに置かれているのが「二百地蔵」です。
右手奥の地蔵堂の前には、聖観音をはじめ千手観音・如意輪観音などの観音像が200体近く合わせまつられています。明治期の国道開削・鉄道敷設の折に奈良井宿周辺から集められたといいます。

【奈良井宿概要】
戦国時代に武田氏が定めた宿駅となりましたが、そもそもの集落の成立はさらに古いと考えられています。
慶長7年(1602)江戸幕府によって伝馬制度が設けられて中山道六十七宿が定められ、奈良井宿はその宿場の1つとなりました。



選定地区(※重要建築物群保存地区)は中山道(木曽路)沿いに南北約1km、東西約200mの範囲で南北両端に神社があり、町並みの背後の山裾に五つの寺院が配され、街道にそって南側から上町、中町、下町の三町に分かれ中町に本陣、脇本陣、問屋などが置かれていました。奈良井宿は中山道最大の難所といわれた鳥居峠をひかえ、峠越えに備えて宿をとる旅人が多く「奈良井千軒」とよばれるほどの賑わいをみせていました。



現在も宿場当時の姿をよく残した建物が街道の両側に建ち並んでいます。建物の大部分は中二階建で低い二階の前面を振り出して縁とし、勾配の緩い屋根をかけて深い軒を出しています。

かつて屋根は石置き屋根でしたが、現在ではほとんど鉄板葺きです。二階正面に袖壁をもつものもあり、変化のある町並みを構成しています。奈良井宿は昭和53年5月に国の重要伝統的建造物群保存地区の選定を受け、平成元年には建設大臣の「手づくり町並賞」を受賞しました。

又大きく町並みを修景していないせいか上問屋史料館や杉の森酒造などの大きな町屋だけでなく間口が狭い比較的小規模な町屋、水場や庚申塔、地蔵などの民俗的な側面や社寺仏閣など信仰の場なども残されています。奈良井宿は完全に観光化されていない為、実際に生活している方々も多く、所々で生活感も感じられる大変好感がもてる町並みです。

八幡神社および杉並木の見学を終えて、再び旧街道筋へと戻りましょう。JR奈良井駅を左手に見ながら、ほんの僅かな距離で街道から逸れて左手に入る細道があります。



この細道に入ってすぐ左手に中央本線の線路下をくぐる地下道があります。この地下道をくぐり奈良井川側へと移動します。
地下道をくぐると広い公園があり、公園を横切って進むと前方に太鼓橋が現れます。



この太鼓橋が「木曽の大橋」と呼ばれているものです。橋を渡った対岸には「道の駅・奈良井木曽の大橋」がありますが、道の駅には珍しく、売店など商業施設がまったくありません。

それでは街道風情を醸し出す奈良井の宿内の散策へとまいりましょう。





木曽路十五宿街道めぐり(其の一)塩尻~洗馬
木曽路十五宿街道めぐり(其の二)洗馬~本山
木曽路十五宿街道めぐり(其の三)本山~日出塩駅
木曽路十五宿街道めぐり(其の四)日出塩駅~贄川(にえかわ)
木曽路十五宿街道めぐり(其の五)贄川~漆の里「平沢」
木曽路十五宿街道めぐり(其の七)奈良井~鳥居峠~藪原
木曽路十五宿街道めぐり(其の八)藪原~宮ノ越
木曽路十五宿街道めぐり(其の九)宮ノ越~木曽福島
木曽路十五宿街道めぐり(其の十)木曽福島~上松
木曽路十五宿街道めぐり(其の十一)上松~寝覚の床
木曽路十五宿街道めぐり(其の十二)寝覚の床~倉本駅
木曽路十五宿街道めぐり(其の十三)倉本駅前~須原宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十四)須原宿~道の駅・大桑
木曽路十五宿街道めぐり(其の十五)道の駅・大桑~野尻宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十六)野尻宿~三留野宿~南木曽
木曽路十五宿街道めぐり(其の十七)南木曽~妻籠峠~妻籠宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十八)妻籠宿~馬籠峠~馬籠宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十九)馬籠宿~落合宿の東木戸
木曽路十五宿街道めぐり(其の二十)落合宿の東木戸~中津川宿



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木曽路十五宿街道めぐり(其の五) 贄川(にえかわ)~漆器の里「平沢」

2015年08月10日 13時42分00秒 | 木曽路十五宿街道めぐり
さあ、贄川宿のはずれにさしかかってきます。道筋は「ひのきや漆器店」の角を曲がり、路地へと入って行きます。
これが本当の旧街道であれば、おそらくここが桝形又は鉤の手といわれていた場所ではないでしょうか。
細い道はすぐに左へ折れ、そしてすぐに右へ折れて、JR中央本線の線路を跨ぐ陸橋へとつづいています。
陸橋を渡ると、19号線に出てきます。国道に出てすぐ右手奥に見事なトチの大木が現れます。



トチノキの大木としては、県下第一と言われ、長野県天然記念物に指定されています。樹齢は600年以上と推定され、幹回りは約8.6メートル、胸高周囲で9.8メートル、樹高は32メートルに達します。



枝張り約900平方メートルにもなり、樹姿・樹幹の美しさは長野県天然記念物にふさわしいものです。トチノキは全国の山地の谷合に広く分布し、鳥居峠および本山の池生神社の社叢のトチノキの巨木もよく知られています。
トチの木に見送られるように木曽路の旅を続けていきましょう。

歩き始めて5キロ地点にさしかかります。19号線の反対側に「食堂SS」が見えます。街道のドライブインですが、その外観と造りはまさに昭和そのもの。広い駐車場を備えているので、街道を行き来するトラックの運転手のご用達なのでしょう。
店内の様子を見る機会があったのですが、壁には「読み切れない」ほどのメニューがびっしり。
和食から洋食、麺類など作れないメニューがないのではと思うほどのメニューが並んでいます。
面白いメニューの中に「火野正平よろしくオムライス」なんてものも。



食堂SSを過ぎていくと、19号線沿いに「うるし工芸」や「漆器の店」が現れてきます。
私たちの本日の行程では奈良井宿に入る手前で、漆器造りで知られる「平沢」の町の中を抜けていきます。
ここから平沢の町まではまだ距離があるのですが、木曽漆器というくくりでは、この辺りから漆器を扱う店があってもおかしくはありません。

そんな漆器店を眺めながら19号線に沿って進んでいきましょう。
歩き始めて5.5キロ地点で19号線からそれるように極端に細い道筋へと入って行きます。
この細道が正式なルートなのかどうかは判断しかねるのですが、一応、ルートになっているので分け入るような状況で、この細道へと進んでいきます。



細道は当然のことながら、舗装も石畳でもありません。草道といったほうがいいかもしれません。
でも、山間の道筋をイメージする中山道らしい道筋です。
細道の左側はフェンスが張られ、右側は鉄パイプの柵が設置されているので、一応は道として使われているのではないでしょうか。

そんな細道を辿っていくと、道筋は徐々に下り坂となり、前方に集落が現れます。ここが桃岡集落です。集落に入ると、街道の右手に「素戔嗚」の扁額を掲げた「津島神社」の鳥居が現れます。



石段の上の小さな祠の横に置かれている半球の石は「こだま様」と呼ばれています。
※こだま様とは「蚕」のことです。

桃岡集落を抜けて、再び19号線に合流する手前に置かれているのが、お江戸から63番目の押込の一里塚跡碑がぽつねんといった姿で置かれています。



この一里塚跡を過ぎると、再び19号線に合流し、奈良井川に架かる橋を渡ります。
橋を渡り、中央本線のガード下にさしかかったところで、本日の歩行距離は6キロに達します。
本日の総歩行距離が12.2キロということは、この辺りがほぼ中間地点です。



19号線が中央本線のガードをくぐる辺りで、本日の歩行距離は6キロに達します。
道筋はやや左へとカーブを切りながらつづいていますが、街道の右手には奈良井川が流れ、その背後には緑濃い木曽の山並みが間近に迫っています。
そんな道筋を進むと、前方に大きな看板が見えてきます。「龍門堂」と書かれています。
その龍門堂の手前で旧街道は19号線から分岐して左へと入っていきます。

先ほどくぐった中央本線の線路が街道の左側に近づいてきます。
そして長瀬集落の家並みが街道沿いに現れてきます。
この長瀬の集落には座卓などの木材加工の工場や漆器の工場があります。あの龍門堂も漆器の工場のようです。 
この道筋は車一台しか通れない程の狭さで、700mほどで再び19号線と合流します。



19号線に合流すると、地名は木曽平沢に変ります。いよいよ漆器の郷「平沢」が近づいてきました。
19号線に沿って歩くこと500mほどで久しぶりに見るコンビニ(セブンイレブン)が現れます。この辺りで本日の歩行距離は7.5キロに達します。
旧街道筋はコンビニの角を右手へと入って行きますが、私たちは昼食のため前方の道の駅「木曽ならかわ」へと向かうことにします。

この道の駅「木曽ならかわ」には「木曽くらしの工芸館」が併設され木曽漆器の展示館やレストランなどがあり、二階には地元作家の作品も展示されています。長野オリンピックのメダルもここの工房で作られたとのことです。
工芸館では漆器や地元の名産物を購入することもできます。

【木曽漆器の歴史】
木曽漆器は木曽福島町(現在は木曽町)の八沢町がルーツであるといわれています。 
八沢の竜源寺にある経箱はうるし塗りでできていて、そこには応永元年の年号と作者名があることから八沢では600年前から漆塗りが行われていたことになります。奈良井、薮原、平沢の漆器造りは江戸時代初期に八沢町から伝えられたようです。 

平沢の漆器は江戸時代の初期の1652~55年には普及していたという記録があるので、350年以上の歴史を重ねる地場産業になっています。
この地に漆業が根付いたのは、木曽五木の産地であり、原料にめぐまれたこと、湿気が多いこと、空気がきれいであることという、漆器造りには欠かせない最適な条件が揃っていたことによります。また山並みがつづくこの辺りは農地面積が少なく、農業で生計を売ることができなかったというこの地方独特の事情もありました。
その後、本家の八沢を始め、奈良井や薮原の漆器は衰退してしまいましたが、平沢が主産地として生き残ったのは以下の要因と努力によるようです。
(1)明治時代に鉄道が開通し、交通事情がよくなった。
(2)付近の山から「さび土」と呼ばれる粘土が出土し、これが下地塗りの材料になり、強度と価格で競争力を付けた。 
(3)輪島に人を派遣し、技法を学ばせるなどの努力をした。
木曽平沢は国の重要漆工業団地に指定され、今では、食器類から装飾品にいたるまで、さまざまなもの作られています。



昼食後、再び木曽路の旅をつづけてまいります。
道の駅「木曽ならかわ」の裏手の道筋へ戻り、いよいよ漆器の郷「平沢」へと進んでいきましょう。道の駅を出発して10数分で諏訪神社へ通じる参道石段の下に到着します。私たちはこの石段を上り、いったん諏訪神社の境内へと向かいます。



うっそうとした森の中に社殿を構える諏訪神社の境内は、まさに神域といった雰囲気を漂わせています。
信濃国一宮の諏訪大社は、建御名方命と八坂刀女命を主祭神としますが、本宮(諏訪市)・前宮(茅野市)・下社〈春宮〉〈秋宮〉(下諏訪)と四つの鎮座地があり、摂社・末社は全国に多数あります。
創建は文武天皇の大宝2年(702)という古社ですが、ここ平沢に勧請した諏訪神社の本殿は、天正10年(1582)年の武田勝頼と木曽義康の合戦で焼失、享保17年(1732)年に再建されました。本殿は市有形文化財、社叢は市天然記念物に指定されています。
境内の下には松尾芭蕉の句碑が立てられている。
「送られつおくりつはては木曽の秋 芭蕉」



社殿の造りは二間社流造り、こけら葺きです。建物自体は270年以上経っています。本殿の前の雄の狛犬は、片手の下に金の玉を置いています。

諏訪神社の境内を抜けて、反対側の階段をおりて旧街道筋へと戻ることにします。
さあ!漆器の郷「平沢」の町並みが前方に現れてきます。



平沢は度重なる火災で古い建物は残されていませんが、多くの漆器店や工房が軒を並べています。一瞬、宿場町と見まがうばかりの家並みが続き、本山宿で見た斜交(はすかい)の建築様式の家が多く見られます。



街道沿いの家々のほとんどが、なんらかの形で漆器に関係するといわれるほどの「木曽漆器の町」です。そんな町並みを眺めながら平沢の町の散策をしてみましょう。



平沢の町のはずれに近い場所に1軒の漆工芸の工房があります。その工房の建物も国登録文化財に指定されています。工房の名前は「巣山元久工房」といいます。



ここで製作される漆器類はかなり高品質のものが多いのですが、工房主の巣山さんのご厚意により、特別に内覧を許可されていますので工房内の見学をさせていただきます。
現在76歳になる巣山元久さんご自身が工房内の案内をしてくれます。
〒399-6302
長野県塩尻市木曽平沢1561-1 Tel.0264-34-2027

巣山元久工房をあとに、いよいよ本日の最終目的地である「奈良井宿」へと向かうことにしましょう。

木曽路十五宿街道めぐり(其の一)塩尻~洗馬
木曽路十五宿街道めぐり(其の二)洗馬~本山
木曽路十五宿街道めぐり(其の三)本山~日出塩駅
木曽路十五宿街道めぐり(其の四)日出塩駅~贄川(にえかわ)
木曽路十五宿街道めぐり(其の六)漆の里「平沢」~奈良井
木曽路十五宿街道めぐり(其の七)奈良井~鳥居峠~藪原
木曽路十五宿街道めぐり(其の八)藪原~宮ノ越
木曽路十五宿街道めぐり(其の九)宮ノ越~木曽福島
木曽路十五宿街道めぐり(其の十)木曽福島~上松
木曽路十五宿街道めぐり(其の十一)上松~寝覚の床
木曽路十五宿街道めぐり(其の十二)寝覚の床~倉本駅
木曽路十五宿街道めぐり(其の十三)倉本駅前~須原宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十四)須原宿~道の駅・大桑
木曽路十五宿街道めぐり(其の十五)道の駅・大桑~野尻宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十六)野尻宿~三留野宿~南木曽
木曽路十五宿街道めぐり(其の十七)南木曽~妻籠峠~妻籠宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十八)妻籠宿~馬籠峠~馬籠宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十九)馬籠宿~落合宿の東木戸
木曽路十五宿街道めぐり(其の二十)落合宿の東木戸~中津川宿



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木曽路十五宿街道めぐり(其の四) 日出塩駅~贄川(にえかわ)

2015年08月10日 13時03分04秒 | 木曽路十五宿街道めぐり
《木曽路》
中山道の中で、特に木曽川上流地域にある贄川宿から馬籠宿まで11の宿場町を結ぶ区間を木曽路と呼ばれました。

木曽路には鳥居峠や馬込峠など難所が多いと同時に、名所見所が多い事でも知られ江戸時代中期には当時の尾張藩書物奉行であった松平君山が近江八景を倣い木曽八景(徳音寺の晩鐘・駒ヶ岳の夕照・御嶽の暮雪・桟の朝霧・寝覚めの夜雨・風越の晴嵐・小野の瀑布・与川の秋月)を選定しています。

又、木曽路は現在でも当時の町並みを色濃く残しているのも大きな特徴の1つで、中山道最大級の規模を誇る奈良井宿やいち早く地域を挙げて景観保全活動を行った妻籠宿、間宿でありながら漆器の生産で発展した木曽平沢は国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。

歴史的には木曽義仲(源義仲:信濃源氏)が育った地域とされ、その後もその後裔とされる木曽氏が支配し街道沿いには義仲や木曽氏の史跡が点在しています。

江戸時代に入ると大部分が幕府直轄領である天領となり木曽氏の重臣だった山村家が代官として領内(7千5百石)を支配し福島宿に代官所を設けました。

さあ!そんな魅力ある木曽路へと入ってまいりましょう。
出立地点は昨日の終着地点と同じ、初期中山道の案内に隣接する大きな駐車場からです。ここからまずは木曽路最初の宿場町でもあり、お江戸から33番目の贄川を目指します。



緑濃い山並が左右に迫る19号線を歩き始め、ほんの僅かな距離で奈良井川の支流である境川に架かる「境橋」にさしかかります。この境川を境にして進行方向が木曽路、そしてこれまで歩いてきた部分の信濃路に分かれていました。
すなわち、古くは木曽と信濃、江戸時代には尾張藩と松本藩の境界になっていた場所です。また現在では塩尻市と楢川村との境界になっています。



そしてこの境となる地が「桜沢」となるのですが、橋を渡るとすぐ街道右脇に昭和初期に建てられた石碑が置かれています。「是より南、木曽路」と刻まれています。
裏面には「歌ニ絵ニ其ノ名ヲ知ラレタル木曽路ハコノ桜沢ノ地ヨリ神坂ニ至ル南二十余里ナリ」と刻まれていて、ここが桜沢の北のはずれであることが記されています。さあ!木曽路への旅がここから始まります。
19号線の右側は深い谷が穿かれ、流れを速めた奈良井川の水音が聞こえてきます。

そしてここから500m弱の距離に木曽路にはいって最初の集落が現れます。桜沢集落です。街道に沿って家並みが続きますが、
この集落は江戸時代に本山宿と贄川宿の間の宿として、また木曽路の入口として栄えていました。 
集落の中に明治天皇駐輦碑が置かれている家がありますが、この家はかつて間の宿の茶屋本陣だった百瀬家です。

桜沢の集落を過ぎると右手の谷に流れる奈良井川がどんどんと迫り、ほぼ街道の真下を流れるようになります。そして奈良井川は街道を横切るようにしてその流れは左手に移ります。
そんな奈良井川の上に架かる片平橋の上を歩いていくのですが、ふと橋の縁から下を見ると足がすくむほどの高さに私たちがいることに気が付きます。

片平橋から下を眺めると、右手のほうにダムがあり、その後方に山並みが聳えているという素晴らしいアングルを楽しむことができます。



片平橋を渡りおよそ500mで19号線から分岐して右手に入る細い道筋が現れます。ここが桜沢の次の集落である「片平の集落」の入口です。この片平集落もほんの僅かな家数の小さな集落です。そんな小さな集落の中に、一つのお寺が堂宇を構えています。



山門の寺号を見ると「鶯着寺」と書かれています。これを「おうちゃくじ」と読みます。約200mの片平集落の中を歩いて行くと、道筋に出梁造りの家が数軒並んでいます。そして再び国道19号線に合流します。

幹線であるが故に道幅は広いのですが、当然車の往来は激しくなります。
奈良井川は今度は19号線の左側に流れを変えています。そして奈良井川の後方に木曽の山並みが連なっています。かなり雄大な景色で、さすが木曽路といったところです。





歩き始めて2キロ地点にさしかかります。すると19号線の右側の側壁の上になにやら史蹟らしきものが置かれています。
遠目からもおそらく気が付くと思いますが、この史跡は若神子(わかみこ)の一里塚跡です。お江戸から数えて62番目の一里塚です。



しかし国道19号からはやたら高い位置に置かれているので、一里塚の傍に行くには19号線の側壁に穿かれた細い土道を登っていかなければなりません。足を滑らせたら怪我どころでは済まないような場所なので下から見上げるだけにしましょう。

若神子(わかみこ)の一里塚跡を過ぎると、旧街道は19号線と分岐するように右手へと入っていきます。そして現れるのが本日の行程で3つ目の小さな集落です。集落の名前は若神子(わかみこ)集落です。

ほんの僅かばかりの家数の集落ですが、随所に水場があり、山の中で湧き出す清水を引き込んで生活用水にしているようです。
集落のはずれの右手上方には諏訪神社が置かれています。あっという間に若神子(わかみこ)集落を抜けてしまいます。

諏訪神社への参道を過ぎると道筋は大きく湾曲し、その先で道が二股に分かれています。旧街道筋は右側の道を辿ります。
国道19号線を見下ろすように穿かれた旧街道を進んで行くと、本日4つ目の小さな集落である「中畑集落」にさしかかります。





中畑集落を抜けると道筋は大きく右へ曲がり、このまま行っても大丈夫かな、と思われるような道筋へ入っていきます。少し上り坂となるのですが、その坂が始まる辺りの一角に庚申塔をはじめ、石碑群が置かれています。そんな様子を見ながら進んでいく道筋は国道19号線を見下ろす崖の縁に穿かれた細い土道です。おそらく19号線の敷節によって本来の旧街道が削られ、こんな細い道筋になってしまったのではないでしょうか。でも街道歩きにとっては、このような道の方が新鮮さを感じます。





街道歩きらしい土道(草道)は徐々に下り坂となり、再び19号線と合流します。
この先の旧中山道筋は19号線と中央本線を渡った左側に穿かれていたようですが、渡ることもできないのでそのまま国道19号線に沿って進んでいきます。
すでに歩き始めて3キロ地点を通過し、間もなく中央本線の贄川(にえかわ)駅前に到着します。

歩き始めて4キロ弱、ここまでトイレがありませんでした。駅前には一応公衆トイレがありますので、緊急を要する場合はここでいったんトイレ休憩をとってください。尚、この先に贄川の関所がありますが、ここにもトイレがあります。

さあ!贄川駅に到着です。私たちはここに至るまであの草道を歩いて、そのまま19号線の右側を進んできました。贄川駅前に行くには19号線を渡らなければなりませんが、渡るには信号のない横断歩道を利用しなければなりません。
車の往来が多いので、横断歩道を渡る際には十分に気を付けてください。

また駅前にはコンビニはありません。



贄川駅を後に19号線に沿って進んでいきましょう。公園らしき広場に沿って歩いて行くと前方に贄川宿の大きな看板が見えてきます。



《贄川宿》塩尻市
贄川宿は慶長から元和年間に整備された宿場町で中山道69次中33番目(62里27町46間:約246.5キロ)に位置しています。

贄川宿は天保14年(1843)に編纂された「中山道宿村大概帳」によると本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠25軒が設置され家屋124軒、人口545人で構成されていました。

木曾11宿最北で木曾路の北の入口を守る軍事的拠点となっていた事から古くから重要視され贄川宿が開かれると街道の人の出入や物資の搬出入を管理する贄川関所が置かれました。
宿場は4町6間の長さがあり特に江戸時代後期から御岳山信仰が盛んになり登拝を求めた信者や講中が贄川宿を利用しました。

贄川関所は福島関所の副関にあたり女性などの人物改めや木曽檜をはじめ木材改めなどが厳重に行われたと言われています。

明治初頭に宿駅制度が廃止に伴い贄川関所が取り壊しになり、昭和5年(1930)の火災で多くの町屋が焼失した為、隣の宿場町である奈良井宿と比べると古い町並みは少ないですが宿場外れにある深澤家住宅(国指定重要文化財)や麻衣迺(あさぎぬ)神社本殿(塩尻市指定有形文化財)、観音寺山門(塩尻市指定有形文化財)などの古建築が残り当時を伝えています。

贄川の由来は往時、温泉が湧き出て熱い源泉が川のように流れていた事から「熱川」と呼ばれていましたが、源泉が枯れると「贄川」と呼ばれるようになったそうです。

19号線を進んで行くと、国道から分かれるように旧中山道の道筋へと通じる関所橋が現れます。欄干を叩いていくと木曽節のメロディを奏でるようになっている橋です。橋を渡ると左手に復元された石置屋根の贄川関所が現れます。







関所の前の道が現在のJR贄川駅の方向へ延びています。実は本来の旧中山道はJRの線路の東側を通って、この関所前に繋がっていたはずなのです。現在のように19号線から折れ曲がって関所に入る道筋ではなかったのです。

《贄川関所概要》
贄川関所は建武2年(1334)頃に木曽家村(源義仲の七代後裔)に設け四男家光がその任にあったことが始まりとされます。
この地は木曽谷の北端にあたり軍事的にも重要視された地で慶長19年(1614)の大坂冬の陣や元和元年(1615)の大坂冬の陣の際には警備の為兵が置かれています。

江戸時代に入り中山道(木曽路)が整備されると贄川関所も重要視され木曽代官の山村氏家臣が配置され婦女子や白木の搬出など厳重に取り締ったと言われています。いわゆる口留番所の役割を担っていました。
明治2年に関所が廃止になると建物も壊されましたが「古絵図」や寛文年間に編纂された「関所番所配置図」などを参考にして復元されました。関所の階下にある「木曽考古館」には贄川で発掘された縄文中期の土器が展示されています。

関所の先がいよいよ贄川の宿場町です。前述のように昭和5年(1930)の大火で古い家並みがほとんど消失してしまい、かつえの面影はほとんど残っていません。そんなことで本陣跡も今は分からなくなってしまいました。
ここ贄川にも「水場」が備わっています。大火の経験から水場を大事にしているといいますが、先ほど通った若神子集落といい、水の不自由だった木曽にはこういう水場があったといいます。まあ、集落の人々の井戸端会議の場でもあったのでしょう。

贄川宿内に入ったものの、本陣や脇本陣がどこにあったかの標示が一切ありません。また桝形や鉤の手などの形跡も見当たらず、古い家並みもほとんどありません。ほんの少し期待を裏切られたような気がします。

贄川宿のはずれに近づいてくるあたりに、宿内で唯一といってもいい古そうな建造物があります。それが国の重要文化財に指定されている「深澤家住宅」です。
深澤家は中山道(木曽路)贄川宿の豪商として知られ、幕末には苗字が許されるなど商人ながら格式ある家柄です。江戸時代を通して行商で販路を開き文化年間には京や大坂など広く商いを展開していました。



現在ある建物は嘉永4年(1851)の火災後に再建されたもので木造2階建て、切妻、金属板葺き、平入りで当時の町屋の姿を踏襲していて、敷地内にある北蔵(文政4年建築)と南蔵(文久2年建築)と共に国指定重要文化財に指定されています。

さあ!贄川の宿場もあっという間に通り抜け、宿のはずれにさしかかります。

木曽路十五宿街道めぐり(其の一)塩尻~洗馬
木曽路十五宿街道めぐり(其の二)洗馬~本山
木曽路十五宿街道めぐり(其の三)本山~日出塩駅
木曽路十五宿街道めぐり(其の五)贄川~漆の里「平沢」
木曽路十五宿街道めぐり(其の六)漆の里「平沢」~奈良井
木曽路十五宿街道めぐり(其の七)奈良井~鳥居峠~藪原
木曽路十五宿街道めぐり(其の八)藪原~宮ノ越
木曽路十五宿街道めぐり(其の九)宮ノ越~木曽福島
木曽路十五宿街道めぐり(其の十)木曽福島~上松
木曽路十五宿街道めぐり(其の十一)上松~寝覚の床
木曽路十五宿街道めぐり(其の十二)寝覚の床~倉本駅
木曽路十五宿街道めぐり(其の十三)倉本駅前~須原宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十四)須原宿~道の駅・大桑
木曽路十五宿街道めぐり(其の十五)道の駅・大桑~野尻宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十六)野尻宿~三留野宿~南木曽
木曽路十五宿街道めぐり(其の十七)南木曽~妻籠峠~妻籠宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十八)妻籠宿~馬籠峠~馬籠宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十九)馬籠宿~落合宿の東木戸
木曽路十五宿街道めぐり(其の二十)落合宿の東木戸~中津川宿



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木曽路十五宿街道めぐり(其の三) 本山~日出塩駅

2015年08月10日 12時24分24秒 | 木曽路十五宿街道めぐり
木曽路の旅の第1日目は本山宿を抜けて、ほんのわずかな距離にある「従是南 木曽路」の碑が置かれている場所のちょっと手前です。塩尻宿から歩き始めて15キロを超える距離です。



本山宿内を貫く旧街道が19号線と合流する場所に本山宿と大きく書かれた看板が置かれています。
周囲の景色は山並みが迫り、いよいよ本格的な木曽路が間近に迫ってきたという期待感を味あわせてくれます。本山宿を抜けると、第1日目の歩行距離も12.5キロに達します。

さあ!19号線に沿って旅をつづけてまいりましょう。街道の右手には中央本線の線路が間近に走っています。
そんな道筋を辿っていくと、19号線から分岐する細い道が現れます。ここで19号線といったんお別れして、旧中山道筋へと進むことにします。分岐するとすぐに中央本線を跨ぐ踏切にさしかかります。踏切を渡り、左へと進んでいきましょう。

すると街道右手に「シンセイ」という事業所が現れます。その傍らに「日出塩の青木」と表示された案内が置かれています。シンセイの建物の裏手へとつづく細い道を進むと、行き止まりになります。そこに「日出塩の青木」が置かれています。

この「日出塩の青木」とはかつてここに桧(ひのき)が植えられていたそうです。その桧は銘木と歌われ、洗馬宿の肘掛松にもこんな歌がありました。「洗馬の肘松日出塩の青木お江戸屏風の絵にござる」
洗馬の名所として肘掛松と、日出塩の青木が、江戸の屏風に描かれていたのでしょうが、江戸の屏風なるものの意味がとんと解りません。なんとも不完全燃焼の説明書きが置かれています。



「日出塩の青木」を過ぎ、ほんの少しの距離を進むと道幅が広くなる通りに出てきます。街道の左手には山並みが迫ってきます。そんな景色を眺めつつ進むと、街道脇に江戸から61番目の「日出塩の一里塚跡」が置かれています。



一里塚の跡を示す白い木の柱には「江戸から61里、京へ71里」と書かれています。

それでは日出塩の集落へと入っていきましょう。
日出塩は本山宿とこの先の贄川宿の間に置かれた「立場茶屋」があった場所です。
江戸時代にはここ日出塩では「獣」を売る店が多かったと言われています。
まあ、山間の集落ということで猪などが多く生息していたのではないでしょうか。

小さな集落なので、山間の中に埋もれるように古い家並みが残っているのではと期待したのですが、かつての立場を思い起こさせるような風情はまったくありません。

集落を進んで行くと、街道左手に公民館があるのですが、この公民館の角を左に入るとJR中央本線の日出塩駅の駅舎があります。この日は生憎と雪が舞う天気で、木曽の山並みは白く化粧しています。



駅舎と言っても可愛らしい駅で、当然無人駅です。駅前には商店もなく、ほんとうにこの駅を利用する人がいるのか心配になってしまうくらいの寂しさです。
実は私たちがすでに通過した本山宿には中央本線の駅はありませんでした。面白いことにかつて宿場ではなかった日出塩に駅を置いた理由は分かりませんが、木曽路を目指す現代の多くの旅人たちはここ日出塩の駅から木曽路へと入って行くことが一般的になっているようです。とはいえ、私たちがこの駅を利用した時、降りたのは私たちだけでした。

日出塩の駅への入口を過ぎると、本日の歩行距離も13.5キロに達します。小さな日出塩の集落を過ぎると旧街道は左手から延びる19号線の高架の下へとさしかかります。周囲の景色も更に山並みが迫り、街道の右手に深く穿枯れた谷に奈良井川の流れと水音が聞こえてきます。



19号線の高架下をくぐり、そのまま直進してもいいのですが、いったん旧街道本筋からそれるように細い道筋へと入り、その先で19号線に合流します。



ふたたび19号線と合流すると、本日の歩行距離は14キロに達します。ここからあと1キロを歩くと本日の終着地点に到着です。
幹線である19号線は比較的交通量も多く、特に大きなトラックがものすごいスピードで走り抜けていきます。そして19号線にそってJR中央本線の線路が走っています。
そんな木曽路への大動脈である19号線はうねるようにつづく山並みの間を縫うようにして走っています。
そして街道の右手下には、山から湧き出す水を集めて急流となって流れる奈良井川が、中山道木曽路の雰囲気を更に高めてくれます。

さあ!木曽路へのプロローグの始まりです。
本格的な木曽路の道筋は明日2日目からとなりますが、すでに山間に穿枯れた19号線を歩いていると、木曽路に入ってしまったかのように感じます。

そしてそれまでほぼ直線であった19号線がやや右手にカーブするところに大きな案内板が置かれている場所にさしかかります。
ここにおかれているのが「初期中山道の案内」です。

初期の中山道は岡谷から小野峠を越し、小野宿に出て牛首峠から木曽谷の日出塩へ入り、桜沢から贄川宿に通じていました。

木曽路十五宿街道めぐり(其の一)塩尻~洗馬
木曽路十五宿街道めぐり(其の二)洗馬~本山
木曽路十五宿街道めぐり(其の四)日出塩駅~贄川(にえかわ)
木曽路十五宿街道めぐり(其の五)贄川~漆の里「平沢」
木曽路十五宿街道めぐり(其の六)漆の里「平沢」~奈良井
木曽路十五宿街道めぐり(其の七)奈良井~鳥居峠~藪原
木曽路十五宿街道めぐり(其の八)藪原~宮ノ越
木曽路十五宿街道めぐり(其の九)宮ノ越~木曽福島
木曽路十五宿街道めぐり(其の十)木曽福島~上松
木曽路十五宿街道めぐり(其の十一)上松~寝覚の床
木曽路十五宿街道めぐり(其の十二)寝覚の床~倉本駅
木曽路十五宿街道めぐり(其の十三)倉本駅前~須原宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十四)須原宿~道の駅・大桑
木曽路十五宿街道めぐり(其の十五)道の駅・大桑~野尻宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十六)野尻宿~三留野宿~南木曽
木曽路十五宿街道めぐり(其の十七)南木曽~妻籠峠~妻籠宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十八)妻籠宿~馬籠峠~馬籠宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十九)馬籠宿~落合宿の東木戸
木曽路十五宿街道めぐり(其の二十)落合宿の東木戸~中津川宿
 


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木曽路十五宿街道めぐり(其の二) 洗馬~本山

2015年08月10日 11時53分48秒 | 木曽路十五宿街道めぐり
洗馬(せば)の宿場の宿内の距離が約700mとそれほど大きくない洗馬宿内のはずれにさしかかると、ちょっとした広場があり、それを囲った塀に高札場跡の案内があります。ここが第1日目の9キロ地点にあたります。



後に御判形(おはんぎょう)と呼ばれた高札の伝馬駄賃御定や幕府のお触れが掲げられていたところです。明治になって裁判所の出張所が設けられましたが、その後宗賀村役場になり、現在はどんぐりハウスになっています。

この高札場跡碑の左手に芭蕉句碑が置かれています。



芭蕉が貞享~元禄年中(1684~1703)に詠んだ句。 「つゆ(入梅)はれの わたくし雨や 雲ちきれ 芭蕉」が刻まれています。

下り坂を進み左へ上り尾沢踏切を渡ると、沢山の千羽鶴が奉納された「言成地蔵堂」があります。往時は、宿西外れの急坂の枡形に祀られ、ここで落馬する人が多く、一人の武士が怒って地蔵様を斬りつけてしまい、縁起が悪いと村人達が真福寺に移しました。

宿場時代から「願い事は必ず叶えて貰える」地蔵様として、今も多くの参拝者が訪れています。
境内には享保・寛政建の庚申塔・馬頭観音等の石塔群が祀られています。 

お江戸から31番目の宿場町「洗馬」を抜けました。道筋は304号線を辿っていきますが、中山道らしい周囲に山並みが迫る光景が広がっています。洗馬宿を出ると、すぐに中央本線のガードをくぐります。ガード下をくぐる道筋は歩道帯がなく、車の往来があるので十分に気をつけて歩行してください。次の宿場町「本山」までは30町(約3.2キロ)ほどですが、その道筋は淡々としています。

第一日目の行程も10キロに達します。



平出遺跡(5.5キロ地点)でトイレ休憩をしてから、ここまでトイレがありませんでした。やっと現代の立場ともいえるコンビニ(セブンイレブン)が現れます。

いったん牧野信号交差点を渡り、国道19号線の反対側へ移動し、コンビニ(セブンイレブン)へと向かいましょう。
尚、コンビニ(セブンイレブン)でのトイレ休憩後は再び、牧野信号交差点まで戻り、反対側(国道19号を渡る)へ移動し、本山宿方向へと進んでいきます。

※セブンイレブンから19号線の左側を進むと、この先の本山宿へと入るために19号線の右側へ移動しなければなりません。しかしこの先には信号交差点や横断歩道がまったくありません。

セブンイレブンから500mほど進むと、19号線の脇に比較的大きな「ため池」が現れます。
この「ため池」が現れると、本山宿入口は目と鼻の先です。

【本山宿は蕎麦切りの発祥の地】
本山宿に入ると、左手に「中山道本山宿」の標識と多数の石碑が置かれています。そしてその先の街道右側に、「本山そばの里」の看板が見えてきます。日本蕎麦といえば本来「蕎麦切り」と呼ばれているものです。
本山宿が「蕎麦切り発祥の地」とされる理由として、蕉門の十哲の一人森川許六が残した「風俗文選」(1706年に刊行)の雲鈴(奥州南部の武士。後仏道に入る)の記録で知ることができます。
「蕎麦切りといつぱ(いうのは)、もと信濃国本山宿より出て、あまねく国々にもてはやされける。…」という文が案内板に紹介されています。また一茶が「信濃では月と仏とおらが蕎麦」と詠んでいます。

※蕎麦切りの発祥の地については山梨県だという説や木曽の須原宿という説などあってどれが正しいのか分からないようです。

「本山そばの里」は10年ほど前に、昔からここに伝わる蕎麦打ちの技術を保存するために、地元のソバ打ち名人が集まり、「本山そば振興会」を結成しここに店を開いたとのことです。そんなことで今は閑散としている本山宿ですが、日曜、祭日には本山蕎麦を食べにくる客で賑わっているようです。



さあ!本日の歩行距離も11キロに達します。
そんな場所にさしかかると、旧中山道筋は19号線から右手に分岐して延びています。

その分岐する辺りがお江戸から32番目の本山宿の入り口です。そして京都へ向かう旅人にとってはここ本山宿は木曽路の入口にあたる宿場だったのです。

本山宿は塩尻から数えて2つ目の宿場町です。国道19号線がかつての宿場の脇を走り、旧中山道筋にはかつての宿場町を偲ばせる家並みが残っています。

宿場の最盛期は同じ中山道・木曽路にある「奈良井宿」と肩を並べるほどの規模を誇っていたといいます。しかし現在の本山宿の光景はかなり閑散として、奈良井宿ほどの見事な家並みは残っていません。

【本山宿】
宿場の規模は天保14年の記録によると宿内の距離は五町(約600m)で、宿内には本陣1軒、脇本陣1軒、問屋2軒に旅篭屋34軒、家数117軒、人数592人とあります。

本陣は小林家が下問屋と兼務して勤めました。現在、その場所には明治天皇の巡行碑が置かれています。本陣だったと思われる建物は少し奥まったところに置かれ、切り妻に見事な「雀おどり」を置いたお屋敷を見ることができます。

脇本陣は花村家が上問屋を兼ね、その跡地は現在本山公民館になっており、「中山道」や「本山宿」の石碑が置かれています。宿場の中央部分にさしかかると、街道の右側に出梁造りの古い家並みが連なっています。
面白いことに古い家並みは街道の右側に集中しています。

街道に沿って各家が少しづく段差をつけて建てられている風景は家並みに立体感と奥行を感じさせてくれます。このような建築構造は斜交(はすかい)と呼ばれています。この斜交(はすかい)は防衛上の理由というのが定説のようですが、もう一つの理由として家の向きを南側へ揃えたという説もあります。…がしかし、この場所は街道が南北に走っているので、この説が正しいのかは疑問ですが…。さらにもう一つの理由として、「大名行列が通る時に陰に隠れられるので、長く座っていなくてよいから」の方が信憑性があるかな?



またそれぞれの家には「川口屋」「池田屋」「若松屋」と宿場時代の屋号を掲げています。本山宿内で唯一残っているこれらの古い家並みは国の有形文化財として保存されています。



わずか600mほどの宿内のほぼ中心に置かれた本陣や脇本陣跡を通り過ぎると、本山宿のはずれにさしかかります。
そんな場所に「口留番所跡」が置かれています。口留番所跡は松本藩の木曽口の固めとして置かれたもので、人の出入りを監視するいわば関所のようなものです。

口留番所跡を過ぎると本山宿もはずれです。集落のはずれに大きな石の上に道祖神が置かれています。道祖神が置かれているということは、一般的に村落の出入口にあたるということです。



この道祖神が置かれている場所から、ほんの少し進むと街道からそれて左手へつづく細い道筋があります。この道筋を辿り国道19号を跨る陸橋を渡ると、前方に本山神社の社殿が現れます。19号線を見下ろす高台に置かれたこの本山神社は周囲を木々に囲まれ、静かな空気の中に社殿を構えています。訪れる人も多くないこの場所には、時折野生の猿たちの姿を見ることができます。

この本山神社のあたりを過ぎると本山宿を抜けたことになります。

木曽路十五宿街道めぐり(其の一)塩尻~洗馬
木曽路十五宿街道めぐり(其の三)本山~日出塩駅
木曽路十五宿街道めぐり(其の四)日出塩駅~贄川(にえかわ)
木曽路十五宿街道めぐり(其の五)贄川~漆の里「平沢」
木曽路十五宿街道めぐり(其の六)漆の里「平沢」~奈良井
木曽路十五宿街道めぐり(其の七)奈良井~鳥居峠~藪原
木曽路十五宿街道めぐり(其の八)藪原~宮ノ越
木曽路十五宿街道めぐり(其の九)宮ノ越~木曽福島
木曽路十五宿街道めぐり(其の十)木曽福島~上松
木曽路十五宿街道めぐり(其の十一)上松~寝覚の床
木曽路十五宿街道めぐり(其の十二)寝覚の床~倉本駅
木曽路十五宿街道めぐり(其の十三)倉本駅前~須原宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十四)須原宿~道の駅・大桑
木曽路十五宿街道めぐり(其の十五)道の駅・大桑~野尻宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十六)野尻宿~三留野宿~南木曽
木曽路十五宿街道めぐり(其の十七)南木曽~妻籠峠~妻籠宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十八)妻籠宿~馬籠峠~馬籠宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十九)馬籠宿~落合宿の東木戸
木曽路十五宿街道めぐり(其の二十)落合宿の東木戸~中津川宿



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木曽路十五宿街道めぐり(其の一) 塩尻~洗馬

2015年08月10日 09時01分15秒 | 木曽路十五宿街道めぐり
2015年8月現在、お江戸の歴史散策と併せて「東海道五十三次街道めぐり」も本年三月には第一期が無事京都三条大橋に到着しました。そして新たに第二期が現時点で新居宿に、そして第三期が保土ヶ谷に到着と私自身にとっても3回目の東海道を歩いています。

そんな最中、中山道も歩こうというかなり無謀な計画を企てたのですが、東海道五十三次が進行中に中山道六十九宿の完全踏破は物理的にも、肉体的にもかなり負担があるということで、中山道といっても最も美味しい区間だけをとりあげることにしました。

それが御存じ「木曽路」です。私自身、これまで木曽路を訪れたことはあったのですが、徒歩によるものではなく、交通機関を利用して点々と移動しただけのもので、木曽路の代名詞である「木曽谷」に沿っての旅は未体験ゾーンでした。

今回の旅は某旅行会社が主催する「木曽路十五宿街道めぐり」のルートに沿って、徒然なるままに書き連ねてみました。
尚、当該ブログに使用する画像は下見を敢行した春先のもので、降雪、積雪の季節外れのものになっています。

さて、一般的に言われる「木曽路」は中山道33番目の贄川宿(にえかわ)から43番目の馬籠宿までの11宿を指します。
私たちはこの11宿に塩尻、洗馬(せば)、本山、落合の4宿を加えた15宿を辿ることにしました。

その出立の地、塩尻へは新宿から特急「あずさ」に乗って向かいます。塩尻は松本盆地の南端、すなわち長野県のほぼ中央に位置しています。

地名の由来は海なし県である信州は、「塩」を生産することができなかったため、その昔には日本海から行商によってもたらされる塩を購入していました。
その行商たちは、ちょうどここ塩尻あたりで品切れになることから、「塩尻」と呼ばれるようになったと言われています。
現在の塩尻市は人口66839人で、県内随一の交通の要衝となっています。

そんな塩尻ですが、駅前はおせいじにも発展しているとは思えないほど閑散としています。
概して、地方都市にありがちな風景が広がっています。

駅前のロータリーに面して塩尻市の産品を扱う観光案内所が置かれています。その案内所に木曽路を歩く上で非常に役立つイラストマップを無料で配布しています。
幾つかのバージョンがありますが、塩尻から中津川に至る木曽路を歩くのであれば、下記の2種類をゲットしてください。





さあ!JR塩尻駅から専用バスで第1日目の起点である「道の駅・小坂田公園」へ向かうことにしましょう。駅からの所要時間はおよそ15分です。

かつての塩尻宿は現在の塩尻駅からは少し離れた場所にあります。私たちはここ小坂田公園からそれほど離れていない旧中山道筋へとまず向かうことにします。



小坂田公園はかなり広い公園です。道の駅を出立して、国道20号線の下をくぐるトンネルを抜け、緩やかな坂道を下っていくと右手には公園の敷地が広がります。そして最初の四つ角を左へ折れ、直進していきます。
前方になにやら大きな池が現れてきます。池の名前は「小坂田池」です。
この池を回り込むように道筋がつづいているので、道なりに進んでいくと、これまでの道幅と比べると、かなり広い道筋に出てきます。

この道筋を進み、四沢川を渡ると「下柿沢」の交差点にさしかかります。この交差点で旧中山道筋に合流します。
さあ!いよいよ中山道の旅が始まります。
そしてお江戸から数えて30番目の宿場町である「塩尻宿」へと進んでいきましょう。



下柿沢の交差点を右折します。道筋はすぐに二差路になりますが、私たちは右手へ進む旧街道筋へと入っていきましょう。
右手には田園風景が広がり、信州を歩いているんだな、と感じる瞬間です。そして先ほど渡った四沢川の流れが再び現れます。
そんな川筋の向こうにこんもりと繁った林が目に入ってきます。この林の中に堂宇を構えるのが「永福寺」です。



創建は元禄15年(1702)、木曽義仲縁の地である現在地に木曽義仲信仰の馬頭観世音を本尊として朝日観音を建立したのが始まりと伝えられています。



その後、朝日観音は焼失し一時衰退しましたが安政2年(1855)に現在の観音堂が再建されています。棟梁は当時名工として知られた2代目立川和四郎富昌が手懸けたもので、完成直前で死去した事で富昌最後の作となっています(富昌は特に彫刻に優れ、観音堂には12の蟇股に彫刻が予定されていましたが、死去した事で正面だけが完成しています)。正面にある山門(仁王門)は明治29年(1896)に建てられたものです。
観音堂で見るべき彫刻としては、向拝の中備にある竜の彫刻、頭貫の先端の象、つなぎ虹梁の獅子、たばさみのボタンの彫刻等です。
永福寺観音堂と山門は江戸時代後期から明治時代の寺院建築の遺構で名工が手懸けた意匠的に優れていることから昭和45年(1970)に塩尻市指定有形文化財に指定されています。

朝日観音の「朝日」の意味
木曽義仲は平家物語の中で「朝日将軍」と記述されています。京都から見て「朝日の昇る方向」からやってきた将軍、はたまた朝日が昇るような破竹の勢いで平家を都から追い出してくれた将軍という意味でこう呼ばれたのです。

永福寺を辞して、再び中山道筋を進んでいきましょう。この先で道筋は少し左手にカーブを切ります。そして153号線と合流するのですが、その合流地点の角に置かれているのが、お江戸から数えて58番目の「柿沢の一里塚跡」です。現在では「塚」はなく、一里塚があったことを示す石柱が置かれているだけです。



153号線はかなり交通量が多い道筋です。かつきちんとした歩道帯がないので、車の往来に十分気を付けて歩行してください。



さあ!いよいよお江戸から数えて30番目の宿場町であった「塩尻宿」の入り口にさしかかります。入口にあたる場所は「塩尻町」という信号交差点です。この辺りが歩き始めてちょうど2キロに達します。



「塩尻町」の交差点の手前の街道右側に2階部分にベンガラで色づけされた、古めかしい佇まいを見せる建築物があります。この建物は国指定重要文化財である「小野家住宅」です。



小野家は中山道塩尻宿の旅籠(屋号:いちょう屋)を代々営み、宿場の中心付近に屋敷を構えた宿場内有力者で農地を積極的に広げるなど豪農としての一面もありました。現在の主屋は文政11年(1828)の火災で焼失した後の天保7年(1835)に再建された木造2階建の建造物です。

【塩尻宿】
宿の長さは慶安4年(1651)の検地帳では5町40間でしたがが、天保14年(1843)の「中山道宿村大概帳」では東に伸びて7町29間となっています。宿は東から上町・中町(室町)・下町(宮本町)に区分され、道の両側を間口3~4間を一軒の規準として街村式に町割しました。
宿の中央部南側には東から問屋・本陣・脇本陣が並び、北側には問屋や大きな旅篭屋などが並び、これらは間口が10~20間にも及びました。(マップ参照のこと)

慶安4年(1651)の塩尻宿書上帳では家数119軒・人数828人で、この内旅篭は45軒ありました。幕末の天保14年(1843)の「中山道宿村大概帳」では家数166軒・人数794人となっています。

本陣は宿創設の際、西条村から川上氏が移住して代々本陣を勤めました。本陣は表門・上段の間を備え建坪は288坪、間口24間もあり、中山道第一の大きさを誇っていましたが、明治15年の大火で焼失しました。

脇本陣は本陣西隣にあり、本陣川上家の分家 川上喜十郎が江戸中期より勤めていましたが、明治の大火で焼失しました。

塩尻宿はこの明治15年の大火で本陣・問屋をはじめ、宿の大部分が焼失してしまったので、宿場時代の建造物は殆ど残っていません。その中で大型旅篭の小野家住宅(国重文)庄屋であった堀内家住宅(国重文)が残っているのみです。
※江戸時代の度量衡
1町:109.09m
1間:1,818m

塩尻宿内の本陣、脇本陣などの施設跡は街道の左側に集中しています。かつての建物は明治15年の大火で焼失しているので、現在はその跡地を示す石柱が立っているだけです。本陣があった場所はちょっとした公園のようになっています。
街道左手に移動するには、塩尻町の信号交差点を利用しますが、私たちはこの先で153号線から右手に分岐しますので、できれば153号線の右側を歩くことを勧めます。



塩尻宿のほぼ中心を進み、ちょうど本陣跡の小公園を過ぎると街道左手に大きな造り酒屋が現れます。門前に杉玉が吊るされています。屋号を「笑亀(しょうき)酒造」といいます。



街道筋から見える古めかしい装いの堂々とした建物は笑亀酒造店舗兼主屋です。明治16年(1883)、初代丸山紋一郎が雄大なアルプスの山々を望む信州塩尻宿の陣屋跡に、酒造業『嘉根満本家(かねまんほんけ)』を創業、銘酒「笑亀正宗」の醸造をはじめました。以来120余年、酒名を「笑亀(しょうき)」と改めながら、塩尻伝統の酒の味を守っています。

この「笑亀酒造」に残る笑亀酒造店舗兼主屋・笑亀酒造造蔵・笑亀酒造穀蔵の3つの建造物はすべて国の登録有形文化財として登録されています。



主屋は木造2階建て、切り妻造り桟瓦ぶきで、明治と昭和始めの意匠を融合した、重厚な外観です。写真右の「穀蔵」は土蔵造り2階建て、切り妻造りで、置屋根式の桟瓦ぶき。1、2階の境の高さまで生子壁の大型土蔵です。

「笑亀酒造」を左手に見ながら、街道を進んでいきましょう。この先で中山道の道筋は153号線と再び分岐して、右手へと入って行きます。その分岐点はかつて「鉤の手」と呼ばれていた場所です。車の往来の多い153線から分岐すると旧中山道は静かな道筋に変ります。

静かな道筋を進むと右手に鎮守の森が現れます。鎮守様の名前は「阿禮神社」です。旧街道に面して大きな鳥居が置かれ、その先に長い参道が延びて、その奥に立派な社殿が構えています。

詳しい創建年代は不明ですが、社伝によると素盞嗚命が出雲国簸川上の大蛇を平らげて後、科野国塩川上の荒彦山に化現し、悪鬼を討ち平らげたといいます。その大稜威を尊び仰ぎ奉ったのが当社の起源です。荒彦山は今の東山にある五百砥山(五百渡山)であるといいます。文徳天皇仁寿二年(852)、現社地に遷座し、大己貴命と誉田別命を合祀しました。
社名の阿禮は、「アレ」であり村落を意味するもので、村の神ということ。とにかく古い言葉のようです。

「阿禮神社」の鳥居が建つあたりで道筋は大きく左へと曲がります。右手に塩尻東小学校を見ながら進んで行きます。この辺りは住宅がつづきます。道筋を進むと、やおら見事な冠木門が街道の右手に突然現れます。



この門の奥に国の重要文化財「堀内家住宅」が構えています。
見事な門構えに入っていいものが迷ってしまうのですが、門の左端にくぐり戸があるのでここから門内へ入って行くことができます。



堀内家は江戸時代堀ノ内村の名主です。この建物は19世紀初期(文化年間)に下西条村から移築したものと伝えられています。建築様式は本棟造で切妻造妻入。板葺で勾配の緩い大屋根と庇棟飾りに特色がある民家形式の一つです。

もとの建物は18世紀後期(宝暦~天明年間)のものらしいのですが、何度か改造されたため、当初の姿が不明なところも多いようです。しかしこの本棟造の外観は2段重ねの破風、棟飾りの「雀おどり」、妻の壁部分の出格子窓等、美観を意図した意匠で高く評価されています。



堀内家住宅を過ぎると、道筋は再び153号線と合流します。その合流地点の角に幾つかの石碑が置かれています。それぞれの石碑には南無妙法蓮華経、道祖神、 秋葉大神、繭玉大神と刻まれています。
私たちは合流点の「大小屋」の信号交差点で153号線を渡り、左側へと移動します。

道筋はこの先で田川に架かる塩尻橋を渡ります。153号線の右側には田畑が広がり、その向こうには山並みが連なっています。



そして道筋はまもなくすると下大門の五差路にさしかかります。歩き始めて3.5キロ地点です。私たちは153線から分かれ左手へと入っていきます。

153号線から分岐して細い道筋へ入ると、それまでの喧騒から隔絶されたように静かな雰囲気が漂います。そんな道筋を進んで行くと前方に樹齢300年の欅の大樹が見えてきます。ここが「大門神社」です。



とはいうものの境内には社殿らしくない本殿が置かれています。
神社の案内板によると、「安曇族に関係あるといわれ、また桔梗が原の合戦に関係がある」とも。耳の形に似た素焼きの皿やおわんに穴をあけて奉納すると、耳の聞こえがよくなると評判になり、伊奈地方などから御参りにきたとあります。

大門神社はもともと柴宮八幡宮と呼ばれていたようです。 柴宮は正平10年の桔梗が原の南北朝の戦いで、南朝の指揮所になったところに建立されましたが、街道にあったので旅人の参拝が多かったとあり、昭和27年に上野山の麓にあった若宮八幡宮が合祠されて、現在の大門神社となったそうです。
建物は昭和50年代に建てられたものです。境内から銅鐸が発掘された旨の案内がありましたが、当時から祭祀に係わる場所だったのでしょう。

大門神社を後にして、街道を進んで行きましょう。この先はしばらく淡々として道筋がつづきます。



間もなくすると、前方にJR中央本線のガードが現れます。ガードをくぐると街道の両側は「昭和電工」の工場敷地がつづきます。かなり大きな工場で、私たちは工場を囲む塀に沿って500m以上歩くことになります。

街道の左手には広い田畑が広がってきます。これまでの道程はそれほどの起伏もなく、むしろ平坦な土地を歩いてきました。
つい木曽路と聞くと、山間の起伏ある道筋を辿り続けるイメージを持ちますが、私たちが今歩いている場所は遥か遠くに山並みを眺めながら田園地帯の中を進んでいるといった感じです。



そんな田園地帯を進んでいくと、何も遮るものがない平坦な土地に1本の松の木が前方に現れます。距離的にそろそろ一里塚が現れてもいい頃と思っていたのですが、松の木に近づくにつれてその姿はまさに一里塚そのものといった風体で私たちを迎えてくれます。



お江戸から数えて59番目の「平出の一里塚」です。道の南側にある一里塚の「松」は桔梗ヶ原合戦の時に、武田軍の軍師「山本勘助」が赤子を拾ったという伝説にちなみ「勘助子育の松」と呼ばれています。

また「平出の乳松」ともいい「松葉を煎じて飲むと乳の出が良くなる 」という言い伝えがあります。

一里塚は街道の左側の一つだけと思ったのですが、実はもう一つが右側の民家の中にありました。ほぼ完全な形で左右2基が残っているのは、長野県内ではめずらしいとのこと。



宝暦6年(1756)頃にはこの付近に茶屋が2軒あったそうですが、その当時は平な土地がつづく原野だったのではないでしょうか。そんな人里離れた場所に茶屋が2軒あったなんて、茶屋では旅人に何を供していたのでしょうか?

平出の一里塚を過ぎ、僅かな距離を進むと街道左側に「国史跡・平出遺跡」の看板が現れます。



このあたりは「うばふところ」と呼ばれる丘陵地帯で。古墳時代から平安時代までの古代の平出集落があった場所です。周囲には3つの円墳が残っていて、これらは6世紀中頃から7世紀中頃にかけてこの辺りを支配した権力者たちの墓とのことです。



街道からほんの少し奥まったところに竪穴式住居が再現されています。昭和25年からの発掘調査で、縄文時代中期60軒、後期2軒、古代の古墳時代79軒、平安時代28軒、時期不明30軒の計199軒の住居が発見されました。

この平出遺跡がある辺り一帯は信州のブドウ産地です。遺跡を取り囲むように「ブドウ棚」が広がっています。今でこそ、かつての原野はブドウ畑に開発されていますが、江戸時代、いや昭和の初めころまでは寂しい場所ではなかったのでは。

このあたりは昼と夜の寒暖の差が大きいので、良いぶどう酒がつくれるというので、現在は葡萄を栽培している農家がたいへん多いのです。国道付近は勿論、旧中山道一帯に観光果樹園を営む店がたくさんあります。



平出遺跡を後に、街道をさらに進んでいきましょう。街道の両側はどこまでもつづくぶとう棚が広がっています。
江戸時代にはこの辺りは畑以外何もない原野が広がっていたといいます。このことからこの辺りを「桔梗ヶ原」と呼ばれていました。甲斐の武田信玄が松本を根拠とした小笠原氏と合戦し、これを破った戦が行われた古戦場です。

そんな歴史を思い浮かべながら、街道の両側に広がるぶどう畑を眺めながら進んで行くと、道筋はこの先で国道19号線に合流します。合流する交差点の名前がすでに通り過ぎた中山道一里塚です。

それでは国道19号線に沿ってしばらく歩いていきましょう。私たちの中山道の旅ではこの19号線とはこれから先、随所で合流や分岐を繰り返します。

中山道一里塚交差点にさしかかったところで、本日の歩行距離は6.5キロに達します。ここから1キロ強の距離は国道19号に沿って進んでいきます。19号線に沿って「ぶどう」の直売所が点在しています。

同時に私たちが進む方向には、これから足を踏み込む木曽路の山並みが徐々に近づいてきます。中山道一里塚交差点から1キロ強で次の信号交差点「平出歴史公園」にさしかかります。この交差点を渡り、19号線から分岐する304号線へと進んでいきましょう。



この辺りに来ると、これまでの街道の風景は一変します。ブドウ棚の景色はなくなり、街道からは低い山並みの姿を見ることができます。さあ!まもなくするとお江戸から31番目の宿場町である「洗馬(せば)」宿」に到着です。



304号線に入り、本日の歩行距離8キロ地点を過ぎると、街道の左側に「ひょろっと」した松の木が1本立っています。その傍らに簡単な説明板が置かれています。松の名前は「肱掛松(ひじかけまつ)」と呼ばれているものです。



実は二代将軍秀忠公が場上洛の際、ここに立っていた松に肱をかけて休んだと言われているものです。この松は「洗馬の肱松、日出塩の青木、お江戸屏風の絵にござる」と歌われた赤松の銘木です。
そして、細川幽斎は「肱掛けて しばし憩える 松陰に、たもと涼しく 通う河風」と歌を詠んでいます。

肘掛松を過ぎると、すぐ右手に下る細い道があります。ほんの僅かな距離ですが、この細い道を下りていきましょう。この細道を下りる途中に、もともとの肘掛松があった場所があり、簡単な表示が置かれています。そして細道を下りきったところに1基の常夜灯が置かれています。



この細い道筋が終わる場所が「善光寺道の起点」です。すなわち、江戸時代の中山道新道(右側)と善光寺街道の「旧分去れ」になる場所です。右へ進むと松本を経て長野の善光寺に行ける道で、善光寺西街道ともいわれました。

そして旧分去れから50mほど進むと再び304号線と合流します。この合流地点に新分去れの道標が置かれています。ここにある道標は中山道新道が開設した際、旧道から移されたもので「左北国往還、善光寺道」「右中山道」と刻まれています。

さあ!この「分去れ」の道標から洗馬宿に入ります。304号に合流するとすぐに街道の右に「あふたの清水」標識が現れます。
塩尻市ふるさと名水20選の一つである「邂逅の清水」が湧き出ています。「邂逅の清水」のいわれは治承4年(1179)、平氏追討の令旨を受けて木曽義仲が旗揚げし、小県の依田城を目指す途中で家臣の今井四朗兼平がこの地で義仲と合流したのが「あふた」(会うた)の由来です。

この時、義仲の愛馬は強行軍で疲れ果てていた為、兼平がこの清水で足を洗うと、忽ち元気を取り戻したと云われ、この地の名前である「洗馬」の由来になりました。

【洗馬宿】
お江戸から数えて31番目の洗馬宿は本陣1軒・脇本陣1軒・旅籠29軒・家数163軒・人口661人
宿内の長さは五町五十間ということなので、700mほどでしょう。宿南北の出入り口は鉤型、宿内は湾曲して作られ、屋敷間口は3間を基本とし細長い屋敷割にされています。

享保10年(1725)松本藩から幕府直轄領となりました。昭和7年(1932)の洗馬大火で宿並は殆ど焼失し、歴史を感じるような建造物はほとんどありません。

脇本陣の隣に貫目改所跡を示す木杭が立っています。江戸時代に置かれた荷物貫目改所とは、街道を通過する公用荷駄の重さを調べる検問所のことで、中山道では板橋宿と追分宿とここの三ヶ所に設けられました。
規定を超えた荷物には割増金を課しました。ようするに伝馬役に加重な負担がかからないようにするためです。

洗馬宿は江戸時代から明治にかけ、何度も火災にあっていますが、昭和7年(1932)の火災で本陣や脇本陣を含めて200軒以上の家が焼失してしまったことと関係があると思われます。本陣であった百瀬家の跡地には家が建っていて、その前にそれを示す木杭が立っています。往時、本陣の庭園は「善光寺名所図会」に「中山道に稀な庭園」と紹介されています。

脇本陣であった志村家の建物は今はなく、明治天皇が休憩をとられたことを示す記念碑が置かれており、その反対側に脇本陣を示す木杭が立っているだけです。

木曽路十五宿街道めぐり(其の二)洗馬~本山
木曽路十五宿街道めぐり(其の三)本山~日出塩駅
木曽路十五宿街道めぐり(其の四)日出塩駅~贄川(にえかわ)
木曽路十五宿街道めぐり(其の五)贄川~漆の里「平沢」
木曽路十五宿街道めぐり(其の六)漆の里「平沢」~奈良井
木曽路十五宿街道めぐり(其の七)奈良井~鳥居峠~藪原
木曽路十五宿街道めぐり(其の八)藪原~宮ノ越
木曽路十五宿街道めぐり(其の九)宮ノ越~木曽福島
木曽路十五宿街道めぐり(其の十)木曽福島~上松
木曽路十五宿街道めぐり(其の十一)上松~寝覚の床
木曽路十五宿街道めぐり(其の十二)寝覚の床~倉本駅
木曽路十五宿街道めぐり(其の十三)倉本駅前~須原宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十四)須原宿~道の駅・大桑
木曽路十五宿街道めぐり(其の十五)道の駅・大桑~野尻宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十六)野尻宿~三留野宿~南木曽
木曽路十五宿街道めぐり(其の十七)南木曽~妻籠峠~妻籠宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十八)妻籠宿~馬籠峠~馬籠宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十九)馬籠宿~落合宿の東木戸
木曽路十五宿街道めぐり(其の二十)落合宿の東木戸~中津川宿



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