山崎ナオコーラ著「この世は二人組ではできあがらない」2010年2月、新潮社発行、を読んだ。
主人公は失われた世代の1978年生まれの女性。大学を出て、専門学校に通い、本屋のアルバイトや契約社員として働きながら、小説を書いて賞に応募する。一学年上の、つかず離れずの恋人がいて、彼との関係が淡々と語られ、ドキュメンタリー風に話は進む。
彼が「つき合って」と言い、彼女が「はい」と返事するところで、解説がある。
「つき合って」というのは現代日本の恋愛用語であり、パートナーと呼ぶほどではないが、他人を前にしたら「彼」だの「彼女」だのという三人称を「特定の異性」という意味合いで使って紹介し、その異性と「つき合い」をやめるときには別れの挨拶を必要とし、それなしで他の異性と仲良くなると「浮気」だの「本気」だのという言葉を使うことになるということを、暗黙の了解として共有したい、という科白である。
彼女は彼を好きなのは間違いないのだが、その距離感、自立心が微妙だ。
人はひとりで完全だ。だからベターハーフなんで探していない。価値はひとりの人間に十分ある。
私は自分のことを家庭的だとは言われたくなかった。
恋人というのは運命の結びつきというようなものでは決してなく、お互いがそれぞれに生きているだけで、ただ寄り添うということに過ぎないのだ。
私は自分のことを家庭的だとは言われたくなかった。
恋人というのは運命の結びつきというようなものでは決してなく、お互いがそれぞれに生きているだけで、ただ寄り添うということに過ぎないのだ。
つき合っているときにこう考えていては恋愛はできない。結婚してからこう考えることは必須なのだが。
初出:「新潮」2009年12月号
表紙の絵が奇妙だ。表紙が草原での爆発、裏が海での爆発の絵だ。「装画 会田誠 『たまゆら(戦争画 RETURNS)』とある。何で戦争画なのか?
私の評価としては、★★★☆☆(三つ星:お好みで)
なんということも無く、これで恋愛?と思うような恋愛小説だ。まだ今の日本では、独立心の強い女性の恋愛は困難な点が多いと思う。そして、結局、以下ネタバレなので、白文字で書く。
「J-POPの世界に生きているわけじゃない、二人ぽっちじゃなかった。みんなでいきているのだ。私は凛とし始めた」と割り切り、ついに新人賞を受賞して、「二人の間の愛情よりも、自分の社会的使命を選ぶ人もいる」と踏み切ることになる。
山崎さんの自伝じゃないかと思われるほどで、大学はたまプラーザと渋谷といえば、山崎さんの出身大学、国学院だろうし、心当たりの場所がでてくる。特に、彼氏の住むアパートが「美しが丘」で、グランドが見えるなどと言うと、知人の家のすぐ近くかと変な興味で読んでしまった。
山崎ナオコーラは、「微炭酸ホームページ」(本人のHP)によると、
1978年9月15日(木)に福岡県で生まれ、
埼玉県で育ち、
東京都に在住。
國學院大學文学部日本文学科卒業後、
会社員をしながら書いた「人のセックスを笑うな」で第41回文藝賞を受賞し、2004年から作家活動を始める。
ちなみに「山崎ナオコーラ」は本名であり、ラテン語で「人生は無駄ばかり」という意味。
というのは冗談で、本当の本名は山崎直子。
埼玉県で育ち、
東京都に在住。
國學院大學文学部日本文学科卒業後、
会社員をしながら書いた「人のセックスを笑うな」で第41回文藝賞を受賞し、2004年から作家活動を始める。
ちなみに「山崎ナオコーラ」は本名であり、ラテン語で「人生は無駄ばかり」という意味。
というのは冗談で、本当の本名は山崎直子。
2004年「人のセックスを笑うな」で芥川賞、2006年『浮世でランチ』で野間文芸新人賞、2008年「カツラ美容室別室」で芥川賞、『論理と感性は相反しない』で野間文芸新人賞、2009年「手」で芥川賞候補、『男と点と線』で野間文芸新人賞、2010年『この世は二人組ではできあがらない』で三島由紀夫賞のいずれも候補で、「無冠の帝王」とも呼ばれる。
石原慎太郎は、「名前を何とかしないと。ふざけている」というような批判をしていた。なら、二葉亭四迷はどうなんだと言いたい。