戦時の苦労、食卓で学ぶ すいとん作り、平和感じて (2019年8月15日 中日新聞)  憲法の下 令和は流れる 終戦の日に考える(2019年8月15日 中日新聞) 

2019-08-15 09:11:37 | 定年後の暮らし春秋
戦時の苦労、食卓で学ぶ すいとん作り、平和感じて 
2019/8/15 中日新聞

 きょう十五日は、終戦記念日。食糧難の戦時中、国民の空腹を満たした「すいとん」を食べ、平和の大切さを学ぶ催しが各地で開かれる。家でも家族みんなで作って味わうことで、戦争について考えたい。
 「すいとんの材料はトウモロコシの粉や米ぬか。メリケン粉(小麦粉)と違って固まりにくい」。戦争と平和の資料館ピースあいち(名古屋市名東区)の語り手の会、小笠原淳子さん(87)=名古屋市名東区=は振り返る。「だしもしょうゆもないから味がない」
 二〇〇九年に発足した語り手の会のメンバーは三十人余り。ピースあいちのほか小中学校などで、戦争体験を語っている。
 一九四四年春。当時、十一歳の小笠原さんは、神戸市須磨地区の海沿いに住んでいた。「塩ができるかもと思って海水を煮詰めてみた。でも燃料が足りないから中途半端な結果に。そこにすいとんを入れてみたけれど」と言葉を濁す。
 戦争末期のこの頃、主食はカボチャやサツマイモ。小笠原さんも、毎日、カボチャのみそ汁に、カボチャご飯、おかずもカボチャ。「今と違って甘くないし水っぽい」。肉も魚もなく、タンパク質はイナゴ。脚をむしっていって食べた。
 小笠原さんはその後、農村部に疎開。ある日、山での勤労奉仕の後、弁当を食べようとすると、中には腐りかけたジャガイモが二つ。周りは真っ白なご飯を食べている。「悲しかった。食べ物の恨みは忘れない」
 戦時中、そして今ある材料で作るすいとんのレシピをベターホーム協会の名古屋教室に聞いた。二つの味は全く違う。野菜も調味料もたっぷり使える今のすいとんは、平和の味だ。

◆現代の野菜入りすいとん

 【材料・4人分】鶏もも肉100グラム、ダイコン100グラム、ニンジン50グラム、ゴボウ1/2本、シイタケ2個、ネギ1/3本、コンニャク1/3枚、小麦粉1/2カップ、いりごま(黒)小さじ1、水大さじ4、だし4カップ、酒大さじ1、塩小さじ2/3、しょうゆ小さじ2

 【作り方】<1>ダイコン、ニンジンは、3~4ミリの厚さのいちょう切りに。ゴボウは斜め薄切りにし、水にさらす。シイタケは四つに切る。ネギは1センチ幅、コンニャクはあく抜きをして薄切り、鶏肉は一口大に切る<2>鍋にだしを入れ、ネギ以外の材料を入れる。20分ほど煮て、調味料を加えて味を調える<3>小麦粉にごまを加え、少しずつ水を入れながら、とろっとした状態になるまでまぜる<4>汁を静かに沸騰させたまま、(3)をスプーンですくって落とし入れる。浮き上がってきたら、ネギを加えてひと煮立ちさせる。

◆戦時中のすいとん

 【作り方・2人分】 <1>鍋に湯600ミリリットルを沸かす<2>小麦粉100グラムにカップ1の水を少しずつ加え、とろっとした状態になるまでまぜる<3>(2)をスプーンですくって落とし入れる。浮き上がってきたらひと煮立ちさせる<4>しょうゆ少々を加える。


◆「野菜の枯葉も食材に」 


婦人雑誌が語る食糧難

 食は人々の暮らしぶりを映す鏡。戦時中の婦人雑誌を年を追って見てみよう。
 一九四〇年四月の「主婦之友」の付録は「魚の洋食経済料理の作方集」。この年、砂糖は切符制になった。翌年には国の呼びかけで毎月二回、精肉店と飲食店での肉販売を禁じる「肉なしデー」が始まる。ヒラメのホウレンソウ巻き、サバの蒸し焼きなど魚料理の紹介は、既に肉がぜいたく品と見られていた表れか。ただ、「まづ生きのいゝ大き目の鯖(さば)を選んで」など、まだ鮮度を気にする余裕がある。だが、戦争の長期化で経済統制が強まる中、物不足は顕著に。四四年七月の「主婦之友」は、野菜についてこう呼び掛ける。「刻んだり、洗ったり、火にかけたりして、折角の貴重な栄養分をなくしてはゐませんか」、「枯葉、根、皮などをむざむざと捨てゝはゐませんか」
 「戦下のレシピ」の著者で、戦時中の食生活に詳しい文芸評論家の斎藤美奈子さん(62)は「終戦前の二年間は特にひどかった」と指摘。「食べることは生きる基本。ひとたび戦争になると、非人道的な生活が続くことを知ってほしい」
 (長田真由美)

憲法の下 令和は流れる 終戦の日に考える 
2019/8/15 中日新聞
 令和元年の終戦の日です。先人たちが汲(く)み上げた「平和憲法」の清流を源に、時代の新しい流れがまた巡ります。私たちの不戦の意志を推力にして。
 昭和二十年八月十五日。東京都心の社交クラブで玉音放送を聞いた帰り道。その紳士は、電車内で男性の乗客が敗戦の無惨(むざん)をあげつらう怒声にじっと聞き入ります。
 「一体(俺たちは)何のために戦ってきたんだ」
 映画の一シーンです。
 実在の紳士は幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)。当時七十二歳。この二カ月後、首相となって日本国憲法の成り立ちに深くかかわっていきます。

不戦の源流を遡る

 連合国軍の占領下、天皇制の存続と一体で「戦争放棄」を日本側から発意したとされる。憲法のいわゆる「押しつけ論」に有力な反証をかざす、あの人です。
 社説にも何度か登場しました。「またか」とおっしゃる向きもありましょう。けれども今回は改憲論争の皮相から離れ、より深くにある幣原の平和観に迫りたい。
 平成から令和へと時代が移ろう時にこそ、流れを遡(さかのぼ)り、確かめておきたいことがあるからです。昭和の先人たちから受け継ぐ不戦の誓い、すなわち平和憲法の源流はどうであったか、と。
 その映画づくりが大詰めと聞いて、幣原生誕の地、大阪府門真市を訪ねました。三年後に迎える生誕百五十年の記念事業で、人類平和にかけた生涯を綴(つづ)る手作り映画です。題名は「しではら」。
 「地元でもあまり知られていなかった元首相の、高潔な理想を後世に伝えるため、まずは名前の読み方から知ってもらおうと。多くの人に平和を考えるきっかけを届けたい」。元教諭や税理士など地元有志の実行委員会を率いる酒井則行さんと戸田伸夫さんが、事業の意義を語ってくれました。既に七月、撮影終了。DVDにして今秋にも公開予定とか。

野に叫ぶ民の思い

 「私たちはこの映画で、昨今の改憲論争にくみしたり『九条を守れ』と訴えたいわけでは決してありません」。二人が口をそろえて強調したことです。
 幣原の「戦争放棄」は思い付きや駆け引きからではない。もっと人生の深みから湧き出た、純粋な平和観なのだと。その歴史的な価値を絶やすことなく後世につないでいかねば、ということです。
 例えば第一次大戦後の世界が、戦争はもうこりごりと、世界平和を願う機運にあったころ。幣原は協調派の外交官としてその世界にいました。時代の集約ともいえるパリ不戦条約の精神も当然、熟知していたはずです。まさしく「戦争放棄」の精神でした。
 一方、国内では戦争拡大に反対し終戦まで長く下野していたが、久々に「感激の場面」に出くわします。あの映画にもあった終戦当日、電車の中の出来事です。
 その後の展開が、自著の回顧録「外交五十年」に出てきます。 
 <総理の職に就いたとき、すぐに私の頭に浮かんだのは、あの電車の中の光景であった。これは何とかしてあの野に叫ぶ国民の意思を実現すべく努めなくちゃいかんと、堅く決心したのであった>
 <(憲法で)戦争を放棄し、軍備を全廃して、どこまでも民主主義に徹しなければならんということは(私の)信念からであった>
 恐らく電車の中で幣原は、外交官当時の記憶を呼び覚まされたのでしょう。欧米の軍縮会議などを駆け巡り、世界に広がる「不戦」機運を肌で感じながらいた当時の記憶です。幣原は乗客の怒声に確信したはずです。不戦の意志がついに日本人にも宿ったと。ここが「戦争放棄」の起点でした。
 そしてもう一歩。幣原を踏み込ませたのは、広島、長崎の原爆です。元首相の口述を秘書官が書き留めた「平野文書」に記す、幣原のマッカーサー元帥に向けた進言から一部抜粋です。
 <原爆はやがて他国にも波及するだろう。次の戦争で世界は亡(ほろ)びるかも知れない>
 <悲劇を救う唯一の手段は(世界的な)軍縮だが、それを可能にする突破口は自発的戦争放棄国の出現以外ない>
 <日本は今その役割を果たし得る位置にある>

平和の理想つなげ

 幣原の「戦争放棄」は、後世の人類を救うための「世界的任務」でもありました。源にあったのは高潔なる平和の理想です。
 七十四年が過ぎました。いま令和の時代を受け継ぐ私たちが、いまもこの源から享受する不断の恵みがあります。滔々(とうとう)たる平和憲法の清流です。幣原の深い人類愛にも根差した不戦の意志を、令和から次へとつなぐ流れです。
 流れる先を幾多の先人が、世界が、後世の人類が見つめます。
 止めてはいけない流れです。








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