【社説】中日新聞
沖縄密約判決 「国家の嘘」を許すのか
2014年7月15日
沖縄密約の文書は、とうとう国民の前には出なかった。最高裁はまるで情報公開の流れに逆行する初判断をした。戦後の重要な領土返還交渉での「国家の嘘(うそ)」を司法が隠蔽(いんぺい)するのと同然ではないか。
「沖縄密約はない」と長く政府は言い張ってきた。でも、米国で次々と密約文書が公開され、日本政府の嘘がばれた。原告らは情報公開法でその公開を求めた。
一、二審とも密約の存在は認めた。東京高裁は「文書は廃棄された可能性がある」と考え、原告の求めを退けた。
だが、最高裁は密約があったとは明確には言わず、「文書が作成されたとしても、(外務省や財務省が不開示の決定をしたとき)文書が保有されていたことを推認するには足りない」と述べた。
かみ砕いて言えば、「役所が文書を保管していることを証明しなさい」と原告側に求めたのだ。
この論法だと、役所が「文書はない」と言えば、情報公開を求める国民は、その時点で「役所に文書がある」ことを証明せねばならない。このハードルは高い。情報公開の精神は、役所側に証明させることではなかろうか。
国家の秘密と公文書の在り方を根源から問うた大事な裁判で、このような判決が出たのを憂う。
米国側がオープンにした「国家の嘘」を挙げてみよう。まず、沖縄返還協定に基づいて、日本が米国側に支払った三億二千万ドルの中に、不適切な出金が数々あった。本来、米国側が負担すべき軍用地復元補償費などだ。
それ以外にも「秘密枠」が存在し、莫大(ばくだい)な金を日本が積んでいた。核兵器の持ち込みなど「核密約」も含まれていた。このような重要情報が米国からもたらされても、日本側は「ない」と言い張ってきた状況は異様である。
「秘密枠」の金は国会の承認を得ておらず、違法なはずだ。「核密約」も非核三原則の国是に反する。国家は国民に嘘をつく-、その典型例が沖縄密約である。しかも、秘密文書は作成、保管、移管、廃棄というプロセスがまったく霧の中である。
特定秘密保護法が年内に施行される。チェック機関が正常でないと、違法な秘密や実質的な秘密でない情報まで隠蔽される懸念がある。特定秘密でなくとも、さまざまな情報が官庁から出にくくなる副作用を伴うだろう。
正しい情報を持たない国民は正しい判断ができないことをあらためて強調したい。
社説:沖縄密約判決 隠ぺい体質黙認するな
毎日新聞 2014年07月15日 02時35分
情報公開請求された外交文書が実際に作成されていたとしても、不開示の決定時に国が文書を保有していたとまでは推認できない--。
沖縄返還交渉をめぐる日米密約文書の開示訴訟で、最高裁が14日、西山太吉元毎日新聞記者らの訴えを、こんな理由で退けた。情報公開請求訴訟において、行政機関が文書を保有していることの立証責任を原告に負わせたうえでの判断だ。
米国立公文書館で写しが公開され、元外務省局長も文書への署名を認めた密約文書について、政府は存在を否定してきた。最高裁の判断は、政府の無責任な姿勢を黙認したに等しい。行政をチェックすべき司法の役割を果たしたとは言えない。
原告らが求めていたのは、米軍用地の原状回復費400万ドルを日本が肩代わりすることを示した日米高官の密約文書などだ。
政府は米公文書の存在が判明した2000年以降も密約を否定し続けた。民主党政権下の10年、外務省に設置した有識者委員会が「広義の密約」を認定したにもかかわらず、政府は今に至るも「文書はない」と繰り返す。あまりに不誠実だ。
10年の1審の東京地裁判決は、外務・財務両省が文書を保有していたと結論づけ、仮に廃棄したとすれば、組織的な意思決定があったと判断。探索が不十分だとして、国に開示を命じた。11年の東京高裁判決は、08年の不開示の決定時点で「文書はなかった」として、請求は退けたが、文書の廃棄の可能性を指摘した。
もし、廃棄があったならば、誰の指示の下でなぜ廃棄されたのか、徹底的に調査するのが筋だ。
だが、最高裁はそうした点に踏み込まず、情報公開の請求側に高いハードルを課した。さらに外交文書について、他国との信頼関係を理由に「保管の状況が通常と異なる場合も想定される」と述べた。外交文書を特別扱いし、国民の知る権利をないがしろにしていると受け取られかねない。確かに、相手国への配慮から一定期間、開示できない外交文書はあるかもしれない。だが、公文書は国民の公共財だ。将来的な公開原則は当然で、仮に廃棄があれば、国民への背信行為だ。
政府が年内の施行を目指す特定秘密保護法でも、外交文書が特定秘密の対象だ。都合の悪い情報は、国民の目にふれないようにするため秘密指定の更新を繰り返したり、廃棄までしたりするのではないか。そんな疑念も生まれる。
外交の歴史を他国の外交文書からしか知ることができないとすれば、まっとうな民主主義国家と言えるのか。最高裁の判決にかかわらず、政府は歴史への不誠実な対応を改め、国民への説明責任を果たすべきだ。
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沖縄密約判決 「国家の嘘」を許すのか
2014年7月15日
沖縄密約の文書は、とうとう国民の前には出なかった。最高裁はまるで情報公開の流れに逆行する初判断をした。戦後の重要な領土返還交渉での「国家の嘘(うそ)」を司法が隠蔽(いんぺい)するのと同然ではないか。
「沖縄密約はない」と長く政府は言い張ってきた。でも、米国で次々と密約文書が公開され、日本政府の嘘がばれた。原告らは情報公開法でその公開を求めた。
一、二審とも密約の存在は認めた。東京高裁は「文書は廃棄された可能性がある」と考え、原告の求めを退けた。
だが、最高裁は密約があったとは明確には言わず、「文書が作成されたとしても、(外務省や財務省が不開示の決定をしたとき)文書が保有されていたことを推認するには足りない」と述べた。
かみ砕いて言えば、「役所が文書を保管していることを証明しなさい」と原告側に求めたのだ。
この論法だと、役所が「文書はない」と言えば、情報公開を求める国民は、その時点で「役所に文書がある」ことを証明せねばならない。このハードルは高い。情報公開の精神は、役所側に証明させることではなかろうか。
国家の秘密と公文書の在り方を根源から問うた大事な裁判で、このような判決が出たのを憂う。
米国側がオープンにした「国家の嘘」を挙げてみよう。まず、沖縄返還協定に基づいて、日本が米国側に支払った三億二千万ドルの中に、不適切な出金が数々あった。本来、米国側が負担すべき軍用地復元補償費などだ。
それ以外にも「秘密枠」が存在し、莫大(ばくだい)な金を日本が積んでいた。核兵器の持ち込みなど「核密約」も含まれていた。このような重要情報が米国からもたらされても、日本側は「ない」と言い張ってきた状況は異様である。
「秘密枠」の金は国会の承認を得ておらず、違法なはずだ。「核密約」も非核三原則の国是に反する。国家は国民に嘘をつく-、その典型例が沖縄密約である。しかも、秘密文書は作成、保管、移管、廃棄というプロセスがまったく霧の中である。
特定秘密保護法が年内に施行される。チェック機関が正常でないと、違法な秘密や実質的な秘密でない情報まで隠蔽される懸念がある。特定秘密でなくとも、さまざまな情報が官庁から出にくくなる副作用を伴うだろう。
正しい情報を持たない国民は正しい判断ができないことをあらためて強調したい。
社説:沖縄密約判決 隠ぺい体質黙認するな
毎日新聞 2014年07月15日 02時35分
情報公開請求された外交文書が実際に作成されていたとしても、不開示の決定時に国が文書を保有していたとまでは推認できない--。
沖縄返還交渉をめぐる日米密約文書の開示訴訟で、最高裁が14日、西山太吉元毎日新聞記者らの訴えを、こんな理由で退けた。情報公開請求訴訟において、行政機関が文書を保有していることの立証責任を原告に負わせたうえでの判断だ。
米国立公文書館で写しが公開され、元外務省局長も文書への署名を認めた密約文書について、政府は存在を否定してきた。最高裁の判断は、政府の無責任な姿勢を黙認したに等しい。行政をチェックすべき司法の役割を果たしたとは言えない。
原告らが求めていたのは、米軍用地の原状回復費400万ドルを日本が肩代わりすることを示した日米高官の密約文書などだ。
政府は米公文書の存在が判明した2000年以降も密約を否定し続けた。民主党政権下の10年、外務省に設置した有識者委員会が「広義の密約」を認定したにもかかわらず、政府は今に至るも「文書はない」と繰り返す。あまりに不誠実だ。
10年の1審の東京地裁判決は、外務・財務両省が文書を保有していたと結論づけ、仮に廃棄したとすれば、組織的な意思決定があったと判断。探索が不十分だとして、国に開示を命じた。11年の東京高裁判決は、08年の不開示の決定時点で「文書はなかった」として、請求は退けたが、文書の廃棄の可能性を指摘した。
もし、廃棄があったならば、誰の指示の下でなぜ廃棄されたのか、徹底的に調査するのが筋だ。
だが、最高裁はそうした点に踏み込まず、情報公開の請求側に高いハードルを課した。さらに外交文書について、他国との信頼関係を理由に「保管の状況が通常と異なる場合も想定される」と述べた。外交文書を特別扱いし、国民の知る権利をないがしろにしていると受け取られかねない。確かに、相手国への配慮から一定期間、開示できない外交文書はあるかもしれない。だが、公文書は国民の公共財だ。将来的な公開原則は当然で、仮に廃棄があれば、国民への背信行為だ。
政府が年内の施行を目指す特定秘密保護法でも、外交文書が特定秘密の対象だ。都合の悪い情報は、国民の目にふれないようにするため秘密指定の更新を繰り返したり、廃棄までしたりするのではないか。そんな疑念も生まれる。
外交の歴史を他国の外交文書からしか知ることができないとすれば、まっとうな民主主義国家と言えるのか。最高裁の判決にかかわらず、政府は歴史への不誠実な対応を改め、国民への説明責任を果たすべきだ。
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