ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

志方町をゆく(107) 細工所(7) 法華山谷川の流れ(2)

2023-05-24 06:54:26 | 加古川市歴史探訪 志方町編

         志方町をゆく(107) 細工所(7) 法華山谷川の流れ(2)

 前号の続きです。地図で法華山谷川の流路を見ています。

 畑から細工所・高畑に向かって広がる水田耕地(水田)に注目ください。

 不自然なところがあります。

 水は当然、高い所から低い所へと流れます。

 とすると法華山辺りから流れ出した水は、畑の集落あたりから高畑・細工所の方へ一番低い所を流れて川をつくるのが自然です。

 しかし、そうはなっていません。一番低い所を避けて山裾から平野部の少し高い所を流れ、そして東飯坂の集落から南(志方町志方)へ大きくカーブをきって流れています。

 これは、明らかに元の流路が、高い所に付け替えられ、そのあたりを水田につくり、高所を流れる川から池に水をためたり、田に水を引いたのでしょう。

 これが現在の法華山谷川のながれです。

 元の川の氾濫原は豊かな水田に一変しました。

 それは、いつの頃だったのでしょう。

 記録がないので確実なことは言えませんが、他の地域の開発のようすなどから想像して、江戸時代の初めの頃ではなかったかと考えます。

 地形から判断して、法華山谷川は畑の集落あたりから高畑・細工所の方へ流れ、現在の西川と繋がっていたと想像して間違いないと思われます。



 次の文章をお読みください。

     日本の農村の原風景は江戸時代の初めにつくられた

 江戸時代も、元禄の頃までは、「日本の大開拓時代」といわれますが、荒れ地(氾濫原)も一挙に開拓が進み、この頃に現在の日本農村の原風景は形作られました。

 その理由を歴史学者・大石慎三郎氏は、次のように説明されています。



 「・・・天下分け目と言われた関ヶ原野戦いを中心として、その前後約6070年ほどのあいだ、つまり戦国初頭から四代綱吉の治世半ばごろまでは、わが国の全歴史を通してみても、他の時代に類例がないほど土木技術が大きく発達し、それが日本の社会を変えた時代である。・・・

 戦国争乱を生きぬいて大をなした人は、優れた武人であると同時に、また優れた治水土木家でもあった。・・・」(『江戸時代』中公新書)



 つまり、江戸時代は戦争のない時代となりました。戦国時代の(軍事)技術が農業に転用されたのです。

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