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額安寺

2015-10-14 | 日記
先日「蛭子神社」へ行った時のこと、道を尋ねた方が「額安寺はすぐそこですが、蛭子神社は?・・・」と言われたのを思い出し、兼ねてより一度は訪れてみたかった額安寺・・・あの辺だったら、というので出かけてきた。

素敵な〝参拝の栞″を開いて最初に目にした文章が【飛鳥の御代(621年)聖徳太子はここ熊凝の地に学問道場を創建され、釈尊の祇園精舎に倣って「熊凝の精舎」と名付けられました。これが額安寺の始まりであり、山号の由来でもあります。】である。
そうそう「熊凝精舎」は「くまごりしょうじゃ」と読むそうで、お寺の正式名は「熊凝山 額安寺」(くまごりさん かくあんじ)、「額安寺」は「がくあんじ」ではなく「かくあんじ」という事も再認識しておこう。

拝観料100円に驚き、聖徳太子ゆかりのお寺である事に驚き、釈尊の祇園精舎の《釈尊の》に疑問を持った。平家物語を読んでいなくても誰もが知っている冒頭のこの部分《祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり。沙羅(しゃら)双樹の花の色 盛者(しょうじゃ)必衰のことはりをあらはす・・・・・》、恥ずかしながら祇園精舎と言うのは京都祇園にある祇園寺(八坂神社)の事と思っていた私である。へぇ~インドに在って、釈尊が説法を行われた場所だなんて。。。。。。

   10月14日(水)
額安寺はなんとなく想像していた雰囲気とは異なって、すっきりとした風格漂う門構えに先ず私の気持ちは明るくなった。。受付の窓は閉じていて貼紙を読むと、国の重文「虚空蔵菩薩半跏像」(こくぞうぼさつはんかぞう)は奈良国立博物館に寄託され当寺には無いと解った。それでもご本尊の十一面観音菩薩像は拝観出来るので、ピンポンを押してお願いした。

きれいにお掃除の行き届いた境内は清々しくとても気持ち良かった。
宝篋印塔(ほうきょういんとう)が三基あって、一番大きく見るからに立派なのは鎌倉時代の1260年、「文應元年十月十五日」の刻名があり、記名をもつものとして日本で3番目に古くて大変貴重な塔らしい。元はお寺の前に在る鏡池・明星池の中に在ったそうだ。
          (画像はクリックすると拡大する)

本堂の中に入らせていただくと華やかな金色の天蓋の奥に彩色の綺麗なふっくらとしたお顔のきれいなご本尊・十一面観音様(室町時代)のお姿があった。お詣りを済ませ、写真撮影禁止の張り紙がないのを確認してから写真を一枚撮らせてもらった。ありがとうございました。
お厨子には扉絵が施されていた。ご本尊の脇侍として向かって左側に吉祥天如像右側に梵天像。他、愛染明王像や不動明王像などが印象に残るお堂であった。

こちらの虚空蔵菩薩半跏像は奈良時代(757年頃)の作で額安寺開基の道慈律師が安置した日本最古のもので大変貴重な仏様らしい。奈良に行った折には是非国立博物館に立ち寄ってみたい。額安寺の根本本尊として、現在のご本尊である十一面観音と同様、御朱印はこちらのお寺で頂けるそうである。

お寺から5分程歩いて額田部北町の家並みに近づいた所に、内部を見る事は出来なかったけれど「額田部窯跡」があった。鎌倉時代の額安寺所用瓦を焼く為の窯だったらしく、1929年に国指定史跡に認定されているそうである。
そしてその近くに「額安寺五輪塔」、鎌倉~室町時代の石造五輪塔八基が並ぶ広場があった。
敷地の西側に並ぶ一番大きい(3m近くもある)五輪塔は「忍性菩薩の塔」で、「忍性さん」として知る人ぞ知るこのお坊様は1217年、現在の奈良県磯城郡三宅町屏風で生まれ、1240年に額安寺で出家し額安寺を復興された方らしい。1303年、87歳で神奈川県鎌倉市の極楽寺で逝去されたそうだが、ご遺言で遺骨は大和国竹林寺(生駒市)とこの額安寺(大和郡山市)に分骨されたそうだ。
民衆救済に生涯を奉げられた数多い偉業(貧困者への施し、井戸を掘ったり、橋を架けたり、病院を建てたりetc.)に依って1328年後醍醐天皇より忍性菩薩の尊号を与えられたという。
          

栞の最後【額安寺という寺はその建立の歴史からもわかるようにあくまでも学問所という性質を今に受け継ぐお寺であります。】とある様に、知恵と招福のお寺様であり、合格祈願に参拝する受験生が増えていくかも知れないなぁ~。。。。。
さわやかな気持ちになれた額田部散策であった。

 付記
☆★☆「思わぬ所から知った忍性菩薩であるが、「忍性さん物語」You Tubeでお声を聴ける浄土寺のご住職・藤田能宏様からは忍性菩薩の詳しいお話をいっぱい聞けるかも。。。。。
浄土寺というのは先日佐吉の狛犬を見に行った磯城郡三宅町伴堂の杵築神社からの帰り、太子道を通って立ち寄った屏風の杵築神社近くのお寺様である。☆★☆