OGUMA    日々軌 小熊廣美の日々新

規格外の書家を自認している遊墨民は、書は「諸」であるという覚悟で日々生きている。

気楽に綴らせていただきます。

構造疲労

2013年10月31日 | 書道・筆文字
30日付け朝日新聞の朝刊第一面は、日展書道の公然の秘密を突いたスクープ記事。

素人の方は純粋に、未だに日展に入選したい、という方もいるわけだが、その日本最大の公募展への夢を思うと、悲しいスクープ記事にみえてくる。
少しその世界に入ると、みえてくるものは、「人の縁」である。
これは日展に限らず、また、書の限らず、他の芸術や何やら、すべてといってもいいのかもしれない。

日展は、日本を代表する芸術組織である歴史の流れを持ち、国家と結び付き、一番権威色が強い。
その中でも、書が一番解りやすい構造で成り立っているようだ。
書の日展参加は戦後である。

その戦後からの書道界の隆盛の中心を担ってきたのは、日展と、読売展と分かれる前の毎日展である。

その公募展が大型化しながら書壇の渦を作り、新しい書や新しい波を作って輝いていた時代がある。

しかし、書はその清新なエネルギーとともに、人間の業を巻き込んで、尚、大型化していったのである。


そしてそろそろ、その構造疲労をみんなが認識し、書壇改革を本気でしなくてはいけない時がきたのではないだろうか。
それができるのは、まず、書壇内部の人間である。
一人では変わらない。書壇での立場が大きければ大きいほど、大変な痛みが伴うだろう。
だが、今、なのだ。
変えるのは、あなたなのだ。

なんのために書家になったのか。
なんのために芸術家になったのか。
書に誇りが持てるのか。
一人ひとりが自分を質すときなのだろう。

公正であるべき新聞社も、自社の関わり方を質せるのか、読売、毎日に、朝日も産経も他人事ではないはずだ。

自分は書壇に属さない半端ものであるが、書壇の書をみて励んで、書壇に育てられた思いも強い。
どうにかこの事態をうやむやにしないことを望みたい。

書壇のエリートの方々よ、にせものともいいたくなるような書が跋扈、蔓延している時代、
もし、本物の書と向き合っている自負があるなら、この問題と向き合ってほしい。
そうしないと、時代は尚そっぽをむいてしまうだろう。














 
コメント
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