犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

光市母子殺害事件差戻審 31・ 反省型弁護と闘争型弁護の使い分けは小賢しい

2008-04-19 14:29:06 | 実存・心理・宗教
光市母子殺害事件の差戻審は、広島高裁で12回にわたって開かれた公判では、裁判所が認定した犯罪事実をめぐって検察側と弁護側が正面から対立し、激しく争われた。元少年の被告人質問は計17時間にも及び、元少年はこれまでずっと殺意を認めていたにもかかわらず、事件から8年が経過して、初めて殺意を否認した。一般社会ではもちろんこのような理屈は通用しないが、柵の中ではこのような理屈を通用させている。これが人権論の人権論たるゆえんであり、俗に「人権しか頼るものがなくなった人は一般社会に戻れない」と言われるところである。

元少年の殺意の否認は、弁護戦術としては至極妥当である。従って、一般社会から「遺族の感情を踏みにじるものだ」「最後の悪あがきだ」との批判を受けても、その言葉が通常の意味で伝わることはない。もともと柵の中と柵の外の論理が異なる以上、「国民は刑事裁判というものを理解していない」「弁護人の職務を誠実に遂行しているだけだ」と言われればその通りであり、取り付く島もなくなるからである。かくして、元少年側は「捜査官から容疑を認めないと死刑になる可能性が高い」と言われ、不当な誘導をされ、本当は殺意はなかったのに殺意があったと言わされていたと主張することになる。それにしても、8年間は長すぎる。

このような弁護団の戦術は、「反省型弁護」と「闘争型弁護」の使い分けと言われ、弁護団の言うとおり、刑事裁判における弁護人の職務を誠実に遂行していることの表われである。すなわち、動かぬ証拠が揃っていて有罪を免れない場合には、少しでも宣告刑を短くするために反省の念を示し、有利な情状を引き出すようにする(反省型弁護)。これに対し、事実認定が微妙で無罪や軽い構成要件の認定が取れそうな場合には、細かく検察官の主張する事実を弾劾し、徹底して争う(闘争型弁護)。これは近代刑事裁判においては大前提となっており、国民からの違和感の表明に聞く耳を持たないのは、弁護団だけではなく検察官も裁判所も同様である。

弁護団が8年も経ってから殺意を否認し始めたのは、反省型弁護から闘争型弁護に方針を変更したことの表われである。その意味で、捜査官の言葉がポイントとなっていたという主張は正しい。もしも、最初の山口地裁で死刑の判決が出ていれば、最初の広島高裁において殺意を否認していた。また、もしも最初の広島高裁において死刑の判決が出ていれば、最高裁で殺意を否認していた。ところが実際には、最高裁で初めて死刑の可能性をほのめかされたため、差戻し審で初めて殺意を否認しただけの話である。反省型弁護から闘争型弁護への刑事弁護の戦略としては、一般的な筋書きに則っている。

多くの国民がこの裁判に違和感を表明したのは、この「戦略」や「弁護戦術」という思考方法そのものである。本村洋氏の涙の会見の前では、このような問題の立て方そのものの小賢しさが暴露される。弁護団がどんなに「国民は刑事裁判というものを理解していない」と言っても、その理解そのものを問うている以上、弁護団への批判が収まることはない。元少年が、殺意についての供述の変遷の理由を捜査官の誘導に求めるということは、殺意の有無について、「自らが死刑になるか否か」という効果の点から逆算して戦略的に決めているということである。一般社会では、このような行動は「誠意がない」「被害者をバカにしている」と呼ばれる。

加害者側の論理からは、殺人未遂罪のほうが傷害致死罪よりも刑が重い。これは、刑法は人命尊重を第一の基準とはしていないと正面から宣言していることの表われである。これに対して、被害者遺族側の論理は、とにかく被害者に生きていてほしかった、この一点に尽きる。加害者に殺意があろうとなかろうと、命を奪われた被害者は帰らないのだから、こんな争いは本当はどちらでもいい。もし妻や娘が帰ってくるならば、細かい事実認定などどちらでもいい。もし妻や娘を返してくれるならば、いくらでも赦してやる。近代刑法の実証主義は、この不可能性の絶望を最初に切り捨てたが、現実の犯罪においてこれが消えるはずもない。ここを被害者側に指摘されると、反省型弁護と闘争型弁護の使い分けの戦略など、あまりに卑しすぎて見ていられなくなる。

光市母子殺害事件差戻審 30・ BPOの意見書は非の打ちどころがない

2008-04-18 20:52:36 | 実存・心理・宗教
光市母子殺害事件差戻審をめぐる報道について、BPO(放送倫理・番組向上機構)が意見書を出した。すなわち、「素人の感想と同レベルである」「掘り下げができず、表面しか取り上げない」「単純な対立構造を作り、どちらかを完全悪にして徹底的に感情を煽り立てている」などといったものである。これは完全に当たっている。但し、光市事件の報道のみに該当するのではなく、すべての報道について該当する。報道とは、このようなものだからである。これは、報道する側の編集の問題であると同時に、受け取る側の問題である。すなわち、「掘り下げができていない」と感じる人にとっては、その報道は確かに掘り下げができていない。これに対して、「掘り下げができている」と感じる人にとっては、その報道は確かに掘り下げができている。それでは客観的な掘り下げの基準は何か、それを明らかにしようとして、また論争を始めるのがいつものパターンである。

人は事実を自己の意思によって解釈し、その世界を表象する。すなわち、事実などは存在しない、ただ解釈だけが存在する。この身も蓋もない事実を直視してみるならば、死刑論議や犯罪被害者支援をめぐる論争のすれ違いも、ごく当然のこととして捉えられる。すなわち、問題が解決しないのが通常であり、問題が解決する方がおかしい。「立場の違いを超えて理解し合いましょう」という楽観論はいつまでも実現せず、徹底的に反対論を潰すための論争だけが続く。これまで何十年も変わらなかったものが、これからは話し合いによって一気に解決するはずだと思っているならば、「解釈」の持つ恐ろしさに気づいていない。「単純な対立構造を作り、どちらかを完全悪にして徹底的に感情を煽り立てている」と言ってしまえば、これが必ず正解になってしまうこと、このことが最も恐ろしいはずである。人々の努力によって放送倫理が向上するはずであるならば、努力しているのにちっとも向上していないのは一体どうしたことか。

多くの人間にとっては、光市母子殺害事件の被害者の本村洋氏の鬼気迫るコメントに心を打たれた後では、被告の元少年の弁護団のコメントは全く心に響かなかった。それゆえに、今回のBPOの意見書も、何だかピント外れである。ここで政治的に、マスコミは表面しか取り上げていないのか否か、単純な対立構造を作っているのか否か、徹底的に感情を煽り立てているのか否かを探るという方向で考えてしまうと、例によって平行線となる。政治とは、理解できないからこそ熱くなって自分の意見を主張し、反対の意見を論駁するものであって、熱くならなければ政治ではない。しかしながら、他者に対して熱くなっている限り、それは政治的な権力争いであって、真理を探る営みではない。この平行線から逃れるためには、他者との論争や話し合いではなく、愚直に自問自答を繰り返すしかない。すなわち、「なぜ自分は本村氏のコメントには心を打たれるのに、元少年の弁護団のコメントは心に響かないのか」を掘り下げるしか方法はない。掘り下げるべきはここである。

被告の元少年の弁護団は、刑事弁護人の役割そのままに、光市母子殺害事件を「解釈」している。これは、公平な裁判所の下で、被告人と検察官が対立する当事者主義的訴訟構造(刑事訴訟法256条、298条、312条)においては、職務上正しいとされる行為である。ゆえに、それは主観的な解釈であって、客観的な事実ではない。もちろん弁護団は、本村氏を積極的に侮辱したり、悲しませたりすることが目的ではない。あくまでも自らの正義感に基づく価値序列として、被害者の生命を序列として下位に置いた結果としての副作用である。そこにおけるより上位の価値は何かというと、言うまでもなく、死刑判決を絶対的に防止することである。すなわち、死刑の悲惨さについては素人の感情に訴え、遺族の苦しみについては表面しか取り上げず、死刑賛成派を完全悪にして存置論と廃止論の単純な対立構造を作ることである。21人の大弁護団は、その一点だけのために全国から終結したはずであり、世論を敵に回すことは覚悟の上のはずである。BPOの意見書などに喜んでいては、弁護団の名がすたるというものである。

光市母子殺害事件差戻審 29・ 人の心の痛みはわからない

2008-04-17 20:10:00 | 時間・生死・人生
「人を殺してみたかった」。「殺す相手は誰でもよかった」。凶悪犯罪が起きると、犯人のこのようなコメントがよく聞かれる。どうしてこのような他人の心の痛みがわからない人間が存在してしまったのか。他人の心の痛みをわからせるには、どうしたらよいのか。一般に、道徳的にはこのように問える。しかしながら、これを教えようとすると、なかなか難しい問題にぶつかってしまう。他人の心の痛みが想像できる人は、他人の心の痛みがわからない人間に震撼とさせられる。そして、「他人の心の痛みが想像できない」という人の心の構造が、どうしても想像できない。つまり、「想像できない」という人のことが想像できない。ところが、「想像しろ」と教育をすることができるのは想像できない人のみであり、想像できる人では教育にならない。この矛盾は必然的である。

我思う、ゆえに我あり。誰でも、自分自身が現に物事を考えていることは認めざるを得ない。これを一般には意識と呼ぶ。そして、「他者にもこのようなものがあるのだろうか」という問いが成立する。この問いは入れ子式になり、無限に累進して循環する。私には私の私があるように、他者には他者の私があり、その誰にとっても必然的に他者がいる以上、自分とはどの自分のことか、確定できなくなる。そして、他者に意識があるのか否かは、他者というものの定義上、わからない。この世の制度は、恐らく他者にも意識があるのだろうという約束事の下に作られており、「他者の心の痛みに共感する」という教育もその延長線上にある。しかしながら、その他者はあくまでも現実の他者ではなく、自分の中に登場している他者である。そして、その自分は、他者における他者であり、その限りで自分ではない。

このような哲学的な事実は、一見すれば、他者の心の痛みをわからせたいという道徳論からは警戒されるような内容を持っている。しかしながら、このような恐るべき事実に直面すれば、逆説的に、人の心の痛みがよくわかるようになるはずである。わからないならばわかるしかないという強制である。その他者はあくまでも現実の他者ではなく、自分の中に登場している他者であるならば、「人を殺してみたかった」という意志は起こらない。殺してどうなるものでもないからである。また、「殺す相手は誰でもよかった」という意志も起きようがない。他者には他者の私があり、自分とはどの自分のことか確定できない以上、他者もどの他者のことか確定できなくなり、誰でもいいという観念自体が生じないからである。無差別の理由なき殺人は、一見すれば不可解な心の闇を持っているように見えるが、そのようなものはない。考えが足りないだけである。

人権論によれば、単に死者には人権がないが被告人には人権があるという話で終わってしまうが、本来自分というものは、人間でも物質でもなく、その存在が許される唯一の存在そのものである。私だけが世界からはみ出し、それゆえに私だけがこの世界である。世界は私の世界であり、同時に私の世界は世界一般である。光市事件の元少年は、手紙において「選ばれし人間は人類のため社会道徳を踏み外し、悪さをする権利がある」と書いているが、これは実に当たっている。ただ、その殺人行為をする相手を間違えただけで、本人が自殺すれば済んだだけである。また元少年は、「裁判なんてちょろい」とも語っているが、これは文句なく大正解である。一流の俳優になればなるほど、自己とキャラクター(架空の人物・仮想の他者)との区別などなくなり、演技と本音の区別もなくなる。他者が現実の他者ではなく、自分の中に登場している他者であるならば、裁判官を騙すことなど簡単である。

光市母子殺害事件差戻審 28・ 死を考えずに死刑が考えられるか

2008-04-16 21:02:09 | 時間・生死・人生
死刑について考察すれば、死についての考察が欠落する。「死刑」はその中に「死」を含んでいながら、人間が物事を考えようとすると、どうしてもこのような不思議なことになる。死とは何か。それは完全な無である。しかし、そうだとすれば、無を考えることができるのか。未だ死んでいない現在においては、未来における死は、単なる概念である。そうかといって、概念としての無は、概念としての死ではない。「死ぬ」という動作とは別に、「死んでいる」という状態が可能なのはなぜか。それは、死が無でないからなのか、それとも死が無であるからなのか。「死刑」はその中に「死」を含んでいながら、このような問いをすべて棚上げしている。しかしながら、このような議論は裁判所でするものではないにせよ、論理的には死刑論議の根底を支えているはずである。

本来、「死」の問題については、21世紀という時代の潮流や、国際的な多数・少数などいったものは、全く関係がない。すべての人間は、言い換えればすべての「私」は、どんな時代であっても、1人で生まれて1人で死んでゆくしかないからである。しかしながら、人間はその絶対的な孤独から常に目を逸らし続け、日常性に埋もれ続ける。「死」と「死因」ないし「死に方」の混同は、この日常性の方向から死を捉えた場合に生じる誤解である。病死も自殺も殺人も、絶対的孤独である死の形式においては、何の差異もない。特に、死刑は単に殺人の一種であり、それを国家権力によるものか否かによって分けるのは、哲学的には意味がないからである。社会契約論とは、日常性の方向から社会的に互換性のある死を捉えたものであって、絶対的孤独としての死を論じるには向いていない。

人間は、自分が他人に代わって死ぬことができないことに気付くことにより、本来的な自己に目覚める。これは他人からの隔絶であり、代理の不可能性である。この厳然たる事実に瞬間的に気付くとき、この世のすべての事象は瞬間的に砕け散る。殺人や死刑の問題を論じるには、本来であれば、この瞬間的な気付きを保持していなければならない。他人の死は、自分自身の死の先駆としての理解である。そこには、客観的な基準など存在しない。殺された人は、他人に代わってもらうことができず、自らが殺されるしかなかった。死刑になる人は、他人に代わってもらうことができず、自らが死刑になるしかない。これは、身代わり犯人や冤罪の問題とは全く異なる。どんな形であれ、人は必ず死ぬのであって、殺人も死刑もその中の一形態にすぎないからである。

人を殺しておきながら、自分は死刑になりたくない。生きて死ぬべき人間は、このような考え方に対しては、本能的に違和感を持つ。死刑を恐れるのは、他者の死を自分自身の死の先駆として理解していることの効果であるとしても、その他者の死を自分自身がもたらしたという一点において、その差異性が保持できなくなるからである。他者の死と自己の死は、その体験の同一性において連続していながら、その絶対的な孤独によって隔絶している。しかし、実際に他者を殺した人間が、その殺された人に向かって、この差異性を主張することが許されるのか。これは絶対的孤独である「死」という形式が、「死に方」において等価性を持つ唯一の場合であろう。殺人犯が自責の念を感じて自殺するか、仇討ちによって殺されるのでなければ、残るは法治国家による死刑の執行しかない道理である。

光市母子殺害事件差戻審 27・ 死刑にしてもしなくても問題は解決しない

2008-04-15 21:06:33 | 国家・政治・刑罰
「犯人を死刑にしたところで、問題が根本的に解決するのか」。死刑廃止論からよく聞かれるこの問いは、レトリックとして反語を含んでいる。すなわち、犯人を死刑にしても問題は解決しない。死者は戻らず、遺族はかえって苦しむだけであり、心の平安は訪れない。従って、心のケアこそが根本的な解決であって、これからは修復的司法の時代である。死刑廃止論からは、このような論理が繰り返し語られているところである。しかしながら、このような努力にもかかわらず、日本では存置論から廃止論に転向する人は多くないようである。それは、この裏側の問いを誤魔化していることによる。すなわち、「犯人を死刑にしなかったところで、問題は根本的に解決するのか」。これも答えはNOである。死刑にしてもしなくても問題は解決しない。

実際に法律によって人間の行動を規制し、裁判によって国家権力を発動すべき社会においては、問題とは解答があるものでなければならない。一体何が正解なのか迷っているようでは、法律や裁判にならないからである。従って、法律の問いからは、哲学的な問いは問うに値しないものとして真っ先に除かれる。かくして、法律の問いは、どこかに必ず解答があるものとして逆算されることになる。そして、根本的に解決にとってどちらの解答がより妥当であるか、根拠やデータを掲げて争われることになる。「犯人を死刑にしたところで、問題が根本的に解決するのか」という反語的な問いも、これを大前提としている。死刑の問題は根本的に解決できると思っており、解決できないことが答えである(しかもこれは答えではない)ことなど、全く思いも及んでいない。

法律の問いの形式が妥当するのは、国家権力と市民の二元論においてである。例えば、痴漢冤罪を扱った映画『それでもボクはやってない』において典型的であるが、ゴールは明らかである。第一に、主人公の金子徹平は誤認逮捕されてはならなかったし、起訴されてはならなかったし、無罪判決が下されるべきであった。そして、徹平には再審請求が認められるべきであり、名誉の回復が図られるべきであり、国家賠償請求も認められるべきであり、警察官や検察官は公の場で謝罪すべきである。ここでの問題は、あるべき正義と、あってはならない現実との距離である。この距離を埋めることが、問題の根本的な回復である。もちろん、失った時間は永久に戻らないと主張されるが、これはあるべき正義のかさ上げにおいて使用されるフレーズであり、遺族に犯人の死刑を断念させる場合とは方向性が逆である。

人間の怒りは、あるべき正義とあってはならない現実との齟齬を生み出す。このパラダイムは本来政治的であり、無実であるにもかかわらず逮捕されて有罪判決を受けたことに基づく怒りなどが典型的である。すなわち、自分だけにはあるべきゴールが見えているのに、周りが明らかに誤解しており、どうにも抵抗できない。この場合の絶望は、あるべき正義を目指して、巨大なエネルギーとして結集する。これに対し、被害者遺族の犯人への怒りは、このようなゴールと現実との齟齬において捉えられるものではない。このようなパラダイムで問題を捉えてしまえば、「息子を返せ」「娘を返せ」と言うしかないが、これは不可能だからである。その悲しみによって、更に埋めようのない距離を突きつけられるのであれば、あるべき正義なども目指しようがない。これは、冤罪の場合の怒りとは根本的に質の違う怒りである。

死刑の問題は、根本的な解決が可能な問題ではない。修復的司法は、あるべきゴールとして犯人の反省と更生、被害者遺族の赦しと立ち直りを置くが、そもそもこの前提が安易にすぎる。初めに国家権力と市民という図式を作り、その後に被害者をくっつけたという単純さであって、問い自体を問いとする哲学的な問題意識が完全に抜けている。死刑を語って人間の生死を忘れる愚である。「犯人を死刑にしたところで遺族は救われるのか」と問われれば、「救われるわけがない。犯人を100回死刑にしても救われない」と答えて、問い自体を粉砕するしかない。問いの立て方が甘すぎて、答える価値がないからである。

光市母子殺害事件差戻審 26・ 革新派は若者の犯罪に理解を示す

2008-04-15 01:30:31 | 実存・心理・宗教
殺人事件の被害者遺族にとって最も不運なのは、犯人が少年であった場合である。面識のない通り魔的な犯罪においては、被害者側の論理としては、犯人が少年であろうと成人であろうとどうでもいい話である。遺族における胸が張り裂けそうな思いは、犯人の年齢とは何の関係もない。ところが、犯人が少年であれば、その後の二次的被害の大きさは格段に異なってくる。まずは氏名を初めとする情報が出てこない。マスコミが顔写真や実名を報道すれば、被害者そっちのけで場外乱闘が始まる。また、少年審判に対する参加が一定の範囲で認められるようになったとはいえ、刑罰ではなく少年の保護を目的とする制度下においては、何をするにつけても「少年の更生にとって障害にならないか」という論点に付き合わされる。

人権派と言われる立場が特に少年法の厳罰化に反対してきたのも、反体制・反権力のイデオロギーにおいて、少年が象徴的な存在だからである。若者はいつの時代でも反体制的・反権力的であるが、これは若者の特権である。一般に保守派は若者文化に眉をひそめるが、革新派は若者文化に無条件の理解を示す。そして、管理教育に反対し、校則による髪型や服装の規制に反対し、子どもの権利条約の趣旨を生かそうとする。大前提として、このような若者に対する理解があり、殺人を犯した少年もその延長線上に置かれることになる。従って、国家権力によって少年に厳罰を与えるなどもってのほかであり、ましてや死刑など論外だということになる。犯行当時18歳であった光市母子殺害事件の被告人は、今や27歳になってしまったが、弁護団にとっては現在の年齢は関係ない。あくまでも、「罪を犯した当時に少年であった者が死刑になる」という事実が絶対に許せないということである。

人権派が若者文化に理解を示すのは、大人社会の道徳やマナーを無視する空気が本能的に合うからである。例えば、若い人達が公共の場所で大声で騒いだり、地べたに座ったり、電車内で携帯電話で大声で話したり、堂々と化粧をしたりする。保守的な人は、これらのマナー違反に対して本能的に嫌悪感を覚えるが、革新的な人にとっては大して気にならない。むしろ、それを注意する保守派の大人のほうに不快感を覚える。これは直感的な好き嫌いであり、理屈は後付けである。若者の傍若無人な振る舞いに対し、他の乗客が不快感を覚えるのは、自らの存在が人間として認識されていないからである。電車内で携帯電話で大声で話し、化粧をしている若者にとっては、周りの大人は単なる風景の一部であり、石ころに過ぎない。自分と直接の利害関係のある人しか、同じ人間として意識していない。これが若者の特権であり、この反体制・反権力性が革新派から強く支持される。

このような心理構造は、その極端な現れである少年犯罪においても如実に示される。少年には罪を犯したという感覚がなく、他者への共感が薄く、ことの重大さがわかっていない場合が多い。これは、少年には被害者が単なる風景の一部であり、石ころにしか見えていないからである。被害者は人間として認識されていない。ここで、少年に被害者の気持ちを考えるよう求めることは、電車内における周りの乗客のことを考えるよう求めるのと同じように難しい。眼中にないものは眼中にないからである。そして、反体制・反権力性を旨とする人権派からは、被害者の気持ちを考えることには意味がないどころか、そのようなものを押し付ける保守派のほうに不快感を覚える。この意味で、少年支援と被害者支援は水と油であり、そう簡単に両立するものではないことがわかる。反体制カルチャーに惹かれ、1960年代の学生運動で革命を夢見た万年青年にとっては、今さら人生の方向性を変えられないところではある。国家権力と市民の対立軸を大前提とするならば、被害者と遺族の存在は消化不良であり、何とか上手く黙らせたいはずである。

光市母子殺害事件差戻審 25・ 起訴状に「命日」はない

2008-04-14 18:39:30 | 言語・論理・構造
今日で、光市母子殺害事件からちょうど9年となる。人間は生死という存在の形式をそのまま生きている以上、近しい人々の命日は特別な日である。人間は、通常の病死や寿命であっても、大切な人の死を悼む。そして、お墓参りをして、いつまでも故人を偲ぶ。大切な人の死という現象は、残された人間にとっては、その人の最期の瞬間の記憶と切り離すことができない。ここで被害者遺族に事件からの立ち直りを求めることは、「殺されたこと」と「死んだこと」とを切り離すよう要求するに等しい。そのような器用な心理状態を作ることなど、人間にはもとより不可能である。故人を偲んではならない、身内の墓参りをしてはならないと言うに等しいからである。

法律学の内輪のギャグとして、「六法全書には『故意』はあるが『恋』はない」というものがある。これは、「恋」などあってはならず、間違って入ってきた場合には即刻締め出すということである。人間の不明確な感情を排除し、条文における客観的な真理を追求するならば、どんなに一般社会で流通している言葉であっても、法律学の中に入れてはならない。すなわち、部分的言語ゲームの閉鎖性である。これと同じように、「起訴状には『犯行年月日』はあるが『命日』はない」。国家権力が裁けるのは、あくまでも検察官の主張する公訴事実(訴因)のみであって、それが予断排除の原則を担保しているからである。従って、起訴状の中には遺族にとっての命日の概念などはなく、あってはならないことになる。

客観的な「犯行年月日」のみを追求し、「命日」を排除する法律家の思考法は、人間の生死を純粋に客体化する点において、死体の解剖を行う監察医、司法解剖医に似てくる。監察医は人間の死の重さに押しつぶされていては身が持たず、仕事にならない。遺族が監察医の言動を冷たいと感じても、ある程度は人間の心を失わないとできない職務であり、細分化した現代社会の役割分担においては必要不可欠である。裁判に提出される鑑定書においては、遺体全体の写真が徐々に切り刻まれ、内臓が無機質に台の上に並べられ、メジャーで計測され、その写真に説明が淡々と添えられている。例えば、「肺・・・重さ 左340g 右420g、表面 灰白紫赤色、硬度 海綿様柔軟、断面 赤褐色」、「肝臓・・・大きさ 24×16×6cm、重さ 1100g、表面 暗赤褐色、硬度 弾力性柔靭、断面 赤褐色」といった感じである。遺族の中には愛する人の体が切り刻まれ、生物学的なサンプルのようになることの冷たさに耐えられずに、司法解剖を断る人も多い。しかし、あとで医療過誤の立証ができなくなって悔しい思いをすることもある。近代司法制度はどちらに転んでも非常に残酷である。

光市母子殺害事件の弁護団の弁護活動も、人間の生死を純粋に客体化する法律家の思考法からすれば、特に問題はないとされることになる。殺人事件の弁護というものは、そもそも鑑定書に残された遺体の状況から、被告人に有利な事情を探し出す仕事である。これは、人間の死の重さなど感じてはならず、人間の心を失うことが積極的に求められるという点で、事情は監察医と同じである。弁護団は、あくまでも検察官の主張する公訴事実(訴因)をめぐって攻撃防御をしている。元少年が本村夕夏ちゃんを床に叩きつけたと攻撃されるならば、遺体写真と鑑定主文を持ち出して、そのような傷は存在しないと防御する。紐で首を力いっぱい絞めたと攻撃されるならば、遺体写真と鑑定主文を持ち出して、そのような痕跡はないと防御する。そして、このような痕跡がなく、元少年が「泣き止ませようと思って首にリボンをちょうちょ結びにしてあげたら死んじゃった」と言うならば、その通りに主張する。これで何が問題か。客観的な「犯行年月日」のみを追求し、「命日」を排除する法律家の思考法からすれば、実に筋が通っている。

弁護団が純粋に法律学の考え方に染まっているならば、国民からの批判は全く理解できないはずである。心理状態としては、司法解剖の監察医が「人間の遺体を切り刻むなど何たることだ」と怒られて、意味がわからずにキョトンとしている状態に近いものと思われる。しかしながら多くの国民は、司法解剖の監察医にはそのようなものは求めない。監察医が人間の死の重さに押しつぶされ、貧血を起こしたり精神を病んでは失格だからである。死体を解剖して正確に死因を特定するためには、人間を臓器の塊として見るタフさがなければならず、ある程度人間の心を失うことは必要悪の範囲内である。これは、多くの国民において共通了解とされている事項である。これに対して、光市母子殺害事件の弁護団には多くの国民からの違和感が表明された事実は、自然科学と社会科学との違いを端的に示している。国民の非難の声は、社会科学における実証主義の行き過ぎへの警鐘である。あくまでも「犯行年月日」は部分的言語ゲームであり、1次的言語ゲームである「命日」を否定し去ることはできない。

光市母子殺害事件差戻審 24・ 死刑賛成派は「殺せ」と叫んでいるわけではない

2008-04-14 01:26:46 | 国家・政治・刑罰
池田晶子著『14歳からの哲学』 Ⅲ-24「善悪[2]」より

人を殺すのが悪いことなのかどうかという、最初の問いに戻って考えよう。人を殺すというのは、ひとつの具体的な事柄なのだから、それが絶対に悪いことなのかどうかを言うことはできない。でも、戦争の時には人は人を殺すことを躊躇しないけれども、平和の時には、それが最も悪いことだと人は感じる。法律がいけないとしなくても、人はそれをそうと感じるのはなぜだろう。

ヒトラーみたいな大悪人を殺すのは悪いことではないかどうか、もしも君がそういう極限的な状況に置かれたとしたなら、あらゆる可能性を考えぬいて、判断するんだ。そして、賭けるんだ。君の善悪、君の全人生を、そのひとつの行為に賭けるんだ。善悪の判定は「神」のみぞ知る。このとき、来世の存在への問いは避けられないとわかるだろう。極限的な場面ばかりじゃない。君の行為のひとつひとつ、心の中のあらゆる思いが、そういうことなのだとわかるだろう。

(p.163~164より引用)

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死刑廃止論からは、死刑を求めることは殺人を推奨することに他ならないとの批判が強い。これは事実である。死刑とは殺人である。それゆえに、死刑の是非の問題はここから始まるわけであるが、死刑廃止論のレトリックは、どうにもこのスタートラインを崩そうとする。これは、アムネスティ・インターナショナルにおいて典型的であるが、死刑存置論を矮小化して解釈した上で批判し、その反批判を呼び込もうとする方法である。いわく、「犯人を殺せばそれで満足なのか」「遺族は犯人が死んでも満足しないだろう」「殺せ、殺せの大合唱は背筋が寒くなる」などといった批判である。これに反批判をしてしまえば、スタートラインは完全に見失われる。

昨年の8月24日、名古屋市千種区内で会社員の磯谷利恵さん(当時31歳)が車で拉致され、殺害されて遺棄された事件があった。利恵さんの母親の磯谷富美子さんは、3人の被告人の極刑(死刑)を求めてずっと署名活動をしている。私はこの事実を知り、最初は迷わず署名をしようと思った。しかしながら、実際に3人の被告人の氏名を書くときに、何とも言えないプレッシャーを感じた。さらに、葉書を出す段となって、大いに迷った。死刑が殺人であることは間違いない。「お前は人殺しの片棒を担ぐのか」、「たとえ殺人を犯した者であっても、死刑によって被告人の家族が悲しむことは事実だろう」といった死刑廃止論の殺し文句も脳内を駆け巡った。結局私は、自分自身を問い詰めた上で、その葉書を投函することにした。

この事件については、現在まで27万人近い署名が集まっているそうである。中には深く考えずに署名をした人も含まれるだろうが、多くの人は各人の逡巡を経て、考え抜いた上で結論を出しているはずである。死刑廃止論の言い分もすべて経由して、その上で被告人の死刑を求めて署名するのであれば、これは1つの弁証法のあり方である。自分は自分の意志で殺人を推奨する、このような人間の倫理が指す方向は、その論理の強靭さに置いて信頼に値する。少なくとも私にとって、磯谷富美子さんの言葉の一つ一つは、心の琴線に激しく触れた。これに対して、死刑廃止運動をしている安田好弘弁護士の言葉が私の心の琴線に触れたことは、ただの一度もない。死刑存置論に立つ人々の多くは、自らが殺人を推奨することの覚悟くらいはできているはずである。


磯谷富美子さんのホームページ
http://www2.odn.ne.jp/rie_isogai/
http://www2.odn.ne.jp/rie_isogai/page002.html

このブログの過去の文章
http://blog.goo.ne.jp/higaishablog/e/2df4ef250f9de680ca2ecdcafa903850

光市母子殺害事件差戻審 23・ 遺族の心のケアを図れば厳罰感情は収まるのか

2008-04-13 18:01:10 | 実存・心理・宗教
犯罪被害者遺族に関する政策論を聞いていると、遺族の「支援」、「保護」、「権利」、「救済」、「ケア」といった単語が無意識のうちに使い分けられているのがわかる。このうち、伝統的な人権論や死刑廃止論において最も多く用いられているのが、「保護」と「ケア」である。特に、「心のケア」というフレーズで用いられることが多い。文脈的には、「心のケアこそが本質的な援助策であり、遺族の刑事裁判手続への参加などを認めるならば、遺族の報復感情を煽るばかりか、被告人からの逆恨みや脅迫を生じ、さらには参加を望まない遺族への消極的な圧力となる。従って、まずは根本的な支援策である心のケアを進めるのが先である」といった流れで主張されることが多い。もちろんこれは、単に刑事弁護活動の障害となる遺族の厳罰感情を抑えたいだけの話であり、本気で支援策に取り組もうとしているわけではない。あくまでも被告人の防御権の行使が第一であり、遺族の心のケアは第二である。

犯罪被害者遺族を「ケア」するのか、それとも「権利」を認めるのか。これは主語が異なる。ケアの主語は支援者であるが、権利の主語は遺族自身である。この意味で、被害者遺族の権利とは、「心のケアという安い言葉で物事を片付けられないこと」、すなわち「心のケアをすれば問題がすべて解決すると思われないこと」である。逆説的に言えば、遺族にとっての最大の心のケアとは、「心のケアをされないこと」である。刑事裁判に参加した上で、被告人に反省を求め、真実を語ることを要求すること、これはあくまでも医療面や精神面でのケアとは別の話である。この裁判参加は、実際には遺族の精神状態の安定につながることもあれば、不安定につながることもあり、論理的な関係はない。国家的な経済補償を得て、医療面や精神面でのケアを受けるのは最小限の権利であり、それによって厳罰感情を抑えなければならないという決まりもない。

心のケアとは、被害者遺族の怒りや悲しみを抑えて、平常心に戻すことを目的とする。そこでは、大前提として、怒りや悲しみを持ち続けることにマイナスの評価が与えられ、それを克服することにプラスの評価が与えられている。しかしながら、これも無意識のうちに一定の価値判断を先取りしている。いわく、「近代刑事法の大原則においては、冷静に証拠に基づいて犯罪事実等を認定することが必要であるのに、被害感情を抱く犯罪被害者遺族が参加すれば、この裁判の原則が歪められてしまう」。このような意見は、大前提として論理と感情に序列を付け、論理を上位に、感情を下位に置いている。ところがこの図式は、近代刑事法の大原則から一歩外に出れば、何の効力も持たない。両者は不可分一体であり、序列はないどころか、芸術などの世界では論理よりも感情が上位に置かれているからである。そして、被害者遺族の怒りや悲しみは、まさに論理(理屈・観念)ではなく、感情(感性・生理・好悪・美意識)を端的に捉えるものである。ここでは、法律学における序列そのものを無効にしている以上、その序列を持ち出しても同語反復である。

被害者遺族が裁判に参加して、どんなに怒りが激しく、どんなに悲しみが深いかを伝えたいと望んでいるのに、それでは抜本的な対策にはならないと言う。そして、裁判に参加したがるのは心のケアが不十分だからであり、もっと心のケアを進めれば遺族が裁判に参加したがることはなくなるはずだと言う。一般には、このような言い回しを「お節介」、あるいは「無礼千万」という。遺族の厳罰感情が刑事弁護活動の障害となるのであれば、遺族に対してもそのように認めるほうがよほど正直である。中途半端な心のケアなど、副作用と弊害のほうが大きい。もともと、国家権力と被告人の対立という図式においては、「1人の無辜を罰しないためには99人の凶悪犯人を釈放するのもやむを得ない」という極端なイデオロギーで突き進んできた以上、99人を釈放した後についても「あとは野となれ山となれ」で押し通すしかないはずである。実際に野となり山となりかかって、遺族の厳罰感情に困って慌てて心のケアで収拾を図るならば、最初のイデオロギーに無理があったと認めているようなものである。

光市母子殺害事件差戻審 22・ 死刑における過去と未来の弁証法

2008-04-13 01:08:03 | 国家・政治・刑罰
自己と他者の弁証法、生と死の弁証法を考えてみても、死刑というものはどうにも後味が悪い。どんなに死刑賛成派であっても、死刑が執行されたとのニュースを聞いた時の感情は、非常に複雑である。後味が悪いけれども仕方がない、論理的に限られた選択肢の中で最もまともなものを選んだらこうなってしまった、その苦しみの中で自分を納得させている人間が大半であると思われる。死刑廃止論の人々は、死刑が執行されたとのニュースを聞くといつも熱くなって集結するが、人間の生死はそのように徒党を組んでシュプレヒコールを上げる話ではない。死刑存置論は、廃止論からは「素人の感情論にすぎない」と定義づけられることが多いが、事態はそんなに単純ではない。あくまでも、殺人罪の均衡としての哲学的な死刑を語っているのみであり、仮に万引きや振り込め詐欺にも死刑が定められるとなれば、死刑存置論のほとんどは異議を唱えるからである。

殺人罪の償いとして死刑が弁証法的に釣り合っているとしても、それが釣り合っていないのが、時間性においてである。被害者はすでに死んでいるが、被告人は現に生きている。すなわち、被害者の死は過去の死であるが、被告人の死は未来の死である。そして、過去と未来が弁証法的に統一している今現在において、自分は生きており、被告人も生きている。この時間性の構造に対する感受性が、死刑賛成派と反対派を分けることになる。現に被告人は生きている、これを未来の死という形式において、わざわざ生きている人間を人為的に殺す。このことを真面目に突き詰めて考えれば考えるほど、死刑を執行することの重大性に耐えられなくなってくる。「死刑とは新たな殺人であり、己の罪を悔いて生き直す可能性を断つ所業である」、このような指摘はもっともである。どんなに被害者が悲惨な殺され方をしても、それはすでに過去の歴史上の事実である。今さらどうしようもない。これに対して、未来の事実はまだ生じていない。こう考えてしまうと、死刑執行が決まった日の死刑囚の絶望、死刑執行官の苦しい心情などが次々と想像され、死刑は廃止するしかないとの結論に至ることになる。

ここで注目しなければならないのが、被害者遺族における「事件の日から時間が止まっている」との感覚である。これは、すべての過去は過去における現在であり、すべての未来は未来における現在であり、すべての現在は過去における未来であり、かつ未来における過去であることに基づく。すなわち、現在の絶対性は過去と未来を分けるが、その現在は過去の一時点でもあり、未来の一時点でもある。従って、被害者はすでに死んでいるが被告人は現に生きているという現在の事実に絶対性を置いたところで、その絶対性は保障されない。すべての過去は現在であり、すべての未来は現在である。従って、すべての殺人事件が起きる前の現在においては被害者は生きており、死刑が執行された後の現在においては被告人は死んでいる。こう考えると、被害者の死は過去の死ではなく、被告人の死も未来の死ではない。単に、死刑の後味の悪さは一過性のものであるという事実がこのことを示している。死刑執行の現場の悲惨さを語る人に対して、殺人事件の現場の悲惨さも見るように求めたくなるのも、この真実を示しているといえる。

自己と他者の弁証法、生と死の弁証法に過去と未来の弁証法を重ね合わせてみれば、遺族にとっては論理的にあるはずのない状況が生じている。すなわち、「被害者は死んでいるのに、加害者が生きている」。もう少し正確に言えば、「なぜ被害者が生きているのではなく、加害者が死んでいるのではないのか」。逆説的に言えば、「なぜ殺された者が生きておらず、殺した者が死んでいないのか」。どうしてもこのように問うしかない。もちろんこれでは裁判所には通じないので、普通に「死刑にしてください」と言うしかなく、これはほとんどの場合「素人の感情論にすぎない」と受け取られる。哲学的には、加害者自らが「私は生きていてはいけない人間です。私を死刑にしてください」と言うことにより、逆説的な真実が初めて動き出す。これが無理であっても、せめて「私は人を殺したにもかかわらず、やはり死にたくないというのが正直な気持ちです。どうしても死ぬのが怖いです。私は卑怯な人間です」との心情を吐露することくらいはできる。その先に、「償い」も「赦し」も自然と示されることになる。しかしながら、近代刑事法のシステムからは、このような哲学的な逆説を制度的に受け入れる余地がない。加害者・被害者双方にとって不幸なことである。