犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

光市母子殺害事件差戻審 28・ 死を考えずに死刑が考えられるか

2008-04-16 21:02:09 | 時間・生死・人生
死刑について考察すれば、死についての考察が欠落する。「死刑」はその中に「死」を含んでいながら、人間が物事を考えようとすると、どうしてもこのような不思議なことになる。死とは何か。それは完全な無である。しかし、そうだとすれば、無を考えることができるのか。未だ死んでいない現在においては、未来における死は、単なる概念である。そうかといって、概念としての無は、概念としての死ではない。「死ぬ」という動作とは別に、「死んでいる」という状態が可能なのはなぜか。それは、死が無でないからなのか、それとも死が無であるからなのか。「死刑」はその中に「死」を含んでいながら、このような問いをすべて棚上げしている。しかしながら、このような議論は裁判所でするものではないにせよ、論理的には死刑論議の根底を支えているはずである。

本来、「死」の問題については、21世紀という時代の潮流や、国際的な多数・少数などいったものは、全く関係がない。すべての人間は、言い換えればすべての「私」は、どんな時代であっても、1人で生まれて1人で死んでゆくしかないからである。しかしながら、人間はその絶対的な孤独から常に目を逸らし続け、日常性に埋もれ続ける。「死」と「死因」ないし「死に方」の混同は、この日常性の方向から死を捉えた場合に生じる誤解である。病死も自殺も殺人も、絶対的孤独である死の形式においては、何の差異もない。特に、死刑は単に殺人の一種であり、それを国家権力によるものか否かによって分けるのは、哲学的には意味がないからである。社会契約論とは、日常性の方向から社会的に互換性のある死を捉えたものであって、絶対的孤独としての死を論じるには向いていない。

人間は、自分が他人に代わって死ぬことができないことに気付くことにより、本来的な自己に目覚める。これは他人からの隔絶であり、代理の不可能性である。この厳然たる事実に瞬間的に気付くとき、この世のすべての事象は瞬間的に砕け散る。殺人や死刑の問題を論じるには、本来であれば、この瞬間的な気付きを保持していなければならない。他人の死は、自分自身の死の先駆としての理解である。そこには、客観的な基準など存在しない。殺された人は、他人に代わってもらうことができず、自らが殺されるしかなかった。死刑になる人は、他人に代わってもらうことができず、自らが死刑になるしかない。これは、身代わり犯人や冤罪の問題とは全く異なる。どんな形であれ、人は必ず死ぬのであって、殺人も死刑もその中の一形態にすぎないからである。

人を殺しておきながら、自分は死刑になりたくない。生きて死ぬべき人間は、このような考え方に対しては、本能的に違和感を持つ。死刑を恐れるのは、他者の死を自分自身の死の先駆として理解していることの効果であるとしても、その他者の死を自分自身がもたらしたという一点において、その差異性が保持できなくなるからである。他者の死と自己の死は、その体験の同一性において連続していながら、その絶対的な孤独によって隔絶している。しかし、実際に他者を殺した人間が、その殺された人に向かって、この差異性を主張することが許されるのか。これは絶対的孤独である「死」という形式が、「死に方」において等価性を持つ唯一の場合であろう。殺人犯が自責の念を感じて自殺するか、仇討ちによって殺されるのでなければ、残るは法治国家による死刑の執行しかない道理である。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。