犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

光市母子殺害事件差戻審 22・ 死刑における過去と未来の弁証法

2008-04-13 01:08:03 | 国家・政治・刑罰
自己と他者の弁証法、生と死の弁証法を考えてみても、死刑というものはどうにも後味が悪い。どんなに死刑賛成派であっても、死刑が執行されたとのニュースを聞いた時の感情は、非常に複雑である。後味が悪いけれども仕方がない、論理的に限られた選択肢の中で最もまともなものを選んだらこうなってしまった、その苦しみの中で自分を納得させている人間が大半であると思われる。死刑廃止論の人々は、死刑が執行されたとのニュースを聞くといつも熱くなって集結するが、人間の生死はそのように徒党を組んでシュプレヒコールを上げる話ではない。死刑存置論は、廃止論からは「素人の感情論にすぎない」と定義づけられることが多いが、事態はそんなに単純ではない。あくまでも、殺人罪の均衡としての哲学的な死刑を語っているのみであり、仮に万引きや振り込め詐欺にも死刑が定められるとなれば、死刑存置論のほとんどは異議を唱えるからである。

殺人罪の償いとして死刑が弁証法的に釣り合っているとしても、それが釣り合っていないのが、時間性においてである。被害者はすでに死んでいるが、被告人は現に生きている。すなわち、被害者の死は過去の死であるが、被告人の死は未来の死である。そして、過去と未来が弁証法的に統一している今現在において、自分は生きており、被告人も生きている。この時間性の構造に対する感受性が、死刑賛成派と反対派を分けることになる。現に被告人は生きている、これを未来の死という形式において、わざわざ生きている人間を人為的に殺す。このことを真面目に突き詰めて考えれば考えるほど、死刑を執行することの重大性に耐えられなくなってくる。「死刑とは新たな殺人であり、己の罪を悔いて生き直す可能性を断つ所業である」、このような指摘はもっともである。どんなに被害者が悲惨な殺され方をしても、それはすでに過去の歴史上の事実である。今さらどうしようもない。これに対して、未来の事実はまだ生じていない。こう考えてしまうと、死刑執行が決まった日の死刑囚の絶望、死刑執行官の苦しい心情などが次々と想像され、死刑は廃止するしかないとの結論に至ることになる。

ここで注目しなければならないのが、被害者遺族における「事件の日から時間が止まっている」との感覚である。これは、すべての過去は過去における現在であり、すべての未来は未来における現在であり、すべての現在は過去における未来であり、かつ未来における過去であることに基づく。すなわち、現在の絶対性は過去と未来を分けるが、その現在は過去の一時点でもあり、未来の一時点でもある。従って、被害者はすでに死んでいるが被告人は現に生きているという現在の事実に絶対性を置いたところで、その絶対性は保障されない。すべての過去は現在であり、すべての未来は現在である。従って、すべての殺人事件が起きる前の現在においては被害者は生きており、死刑が執行された後の現在においては被告人は死んでいる。こう考えると、被害者の死は過去の死ではなく、被告人の死も未来の死ではない。単に、死刑の後味の悪さは一過性のものであるという事実がこのことを示している。死刑執行の現場の悲惨さを語る人に対して、殺人事件の現場の悲惨さも見るように求めたくなるのも、この真実を示しているといえる。

自己と他者の弁証法、生と死の弁証法に過去と未来の弁証法を重ね合わせてみれば、遺族にとっては論理的にあるはずのない状況が生じている。すなわち、「被害者は死んでいるのに、加害者が生きている」。もう少し正確に言えば、「なぜ被害者が生きているのではなく、加害者が死んでいるのではないのか」。逆説的に言えば、「なぜ殺された者が生きておらず、殺した者が死んでいないのか」。どうしてもこのように問うしかない。もちろんこれでは裁判所には通じないので、普通に「死刑にしてください」と言うしかなく、これはほとんどの場合「素人の感情論にすぎない」と受け取られる。哲学的には、加害者自らが「私は生きていてはいけない人間です。私を死刑にしてください」と言うことにより、逆説的な真実が初めて動き出す。これが無理であっても、せめて「私は人を殺したにもかかわらず、やはり死にたくないというのが正直な気持ちです。どうしても死ぬのが怖いです。私は卑怯な人間です」との心情を吐露することくらいはできる。その先に、「償い」も「赦し」も自然と示されることになる。しかしながら、近代刑事法のシステムからは、このような哲学的な逆説を制度的に受け入れる余地がない。加害者・被害者双方にとって不幸なことである。

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2 コメント

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レスありがとうございます (ブロガー(志望))
2008-04-13 10:21:19
某Y.ikeさん、レスありがとうございます。
 思うに欧米キリスト教圏では哲学的な事は「神(宗
教)の領分」が前提になっているのではないでしょう
か。「殺人がいけないのは神が『殺すなかれ』と
言ったから」「最終的には神が裁く(たとえその時
の人間の法や裁判で裁かれなかった、又は無実に
なったとしても神の裁きではどうなるか分からな
い)」「聖書における最初の殺人事件の犠牲者アベル
がそうであったように、罪無くして殺された者の魂を
救済するのも神」といった具合で。であるから人間の
法や裁判は極端な事を言えば「既に被害者(犠牲者)や
加害者になった人間のためのものでは無く、新たな被
害者及び加害者を出さないためのもの」になるので
しょう。日本の場合は哲学(宗教)の部分が曖昧なの
で、人間の法や裁判がそれを補わざるを得なくなって
いるのが問題では(例えばいわゆる「人権派」が
あたかも「絶対普遍の真理を語る預言者」のようにふ
るまったり)。
返信する
こちらこそ。 (某Y.ike)
2008-04-13 18:15:45
的を射たコメントをありがとうございます。
死刑廃止論をネットで検索してみると、キリスト教の団体に多くヒットしますね。今さらながら驚いています。
「死刑廃止論が世界の潮流である」という実証的なデータも、日本の無宗教性の面を抜きにして考えるのでは、あまり意味がないようです。
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