犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

池田晶子著 『新・考えるヒント』 第4章「良心」より 後半

2007-05-19 19:31:02 | 読書感想文
近代刑法の原則における「自由」とは、国家権力からの人身の自由の保障であり、罪刑法定主義の自由保障機能のことである。しかし、これでは哲学的な問いの所在などわからないし、犯罪被害者が何に苦しんでいるのかもわからない。近代刑法の原則を掲げられてしまうと、厳罰化に反対するならば最初から飲酒運転をしなければよいという常識が通用しなくなる。簡単な話をわざわざ難しくしているようである。

今回、刑法に「自動車運転過失致死傷罪」が新設され、刑の上限が懲役・禁固7年にまで引き上げられた。これではまだまだ軽いという意見と、厳罰化に反対する意見とがあるが、この両者が捉えている地点は絶望的にずれている。失われた人間の生命は、たった7年間刑務所に入ったくらいでは償えるものではない。これが哲学的な真実である。厳罰化に反対するということは、この逃れられない真実から目を逸らし、近代刑法の原則における「自由」の概念を信仰することである。


p.63~ より抜粋

殺人は絶対的に悪であると、論理によって言うことはできない。そも論理とは、善の語は善を意味し、悪の語は悪を意味するというわれわれの言語の形式でしかないからである。形式は内容を指示しない。そのことによってそれは絶対であるのであり、したがってすべての内容は相対である。人を殺すという行為もまた、賄賂を受け取る、不倫するといった、われわれによって為されるさまざまな行為のうちのひとつ、ひとつの相対的な事例にすぎない。

だから善悪は相対的なものだ、絶対的な善悪などないのだと結論するのが、いわゆる相対主義者の定石であるが、定石をふむことで考える手間を省いているこんなものは、思想とすら呼べないであろう。言わば子供の報告のようなものだ。

善悪は存在する。われわれのうちに深く存在し、その針は常にふれている。しかし、誤たずにわれわれを導いている。それが誤つことができるのも、それが存在するからこそである。内にあるこの絶対性を、外にあるかのように思う時、人は自ら判断する自由を放棄する。つまり生きるのをやめることになる。相対主義とは、この種の絶対主義の裏返しにすぎない。行為の規範を外にあると思い込んでいる点では同じなのである。

しかし、内にあることによって絶対的とは、これまた何と人間的な逆説か。この絶対は、絶対であるがゆえに、いかなる内容をも指示しない。決して具体的な指示を出さない。しかし、われわれ人間が生身であるとは、具体的であるということに他ならない。各人各様すべての現在が、完全に個別の具体的内容をもつ。私は今いかに行為すべきか。人は問う。絶対は沈黙している。しかし人は、そこに絶対が存在することを知っている。なぜか。「善悪」という語を、所有しているからである。その意味を、知ってしまっているからである。

良心の問題は、科学や論理や法律には扱えない。それは、個々人の心の中で、悩まれ、判断される以外はないものだ。いかに詳細なマニュアルを作りあげたところで、あるいはたとえそれに従って行為したところで、十分に悩まれなかった内なる良心は、長く違和感を呟き続けるのではなかろうか。