犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

報復感情は哲学的懐疑である その1

2007-05-02 18:43:50 | 言語・論理・構造
犯罪で我が子を亡くした親は、「なぜ娘は死ななければならなかったのか」と自分自身に問う。これは、哲学的な究極の難問である。人間は、このような問いには答えを持たない。語り得ぬものには絶句するしかないからである。やがて、答えの出ない遺族の悲しみと怒りは、犯人に対する要求の形に変わる。「娘を元通りに返してほしい」。これも哲学的な難問であり、形而上的で抽象度が高く、法律家には答えられない。不可能であるがゆえの要求であり、要求自体が問いの形をしている。このような問いには法律の言語では答えられず、法律家は遺族の前で沈黙するしかない。

法治国家においては、遺族の悲しみと怒りは、やがて形而下的で抽象度が低いものへと変えられてゆく。「犯人のこの手で殺してやりたい」「犯人には1日でも長く苦しんでほしい」「厳罰を望む」「法廷で問いただしたい」。沈黙していた法律家が途端に反応し始めるのがここである。このような言明は哲学的懐疑の色彩が薄まり、法律の言語でも答えられるからである。そして多くの法律家は、このような遺族の言明について、被害感情が強いというレッテルを貼る。そして、近代刑法の下では報復感情は抑えられなければならないという能書きを語り始めるのが通常である。

被害感情、報復感情という視点でしかものが見られなければ、その感情を収めるという方向性しか見えてこない。報復では真の回復にならず、いずれ現実を受け入れて加害者を赦す時が来るはずであるという論理である。これは、哲学的には何も答えになっていない。「犯人のこの手で殺してやりたい」「極刑を望む」という部分だけを報復感情として取り上げてしまっては、その意味がわからなくなる。このような報復感情の源泉は、「なぜ娘は死ななければならなかったのか」という哲学的懐疑である。すべての言明は、一連の流れである。哲学的な難問には沈黙したままで、法律的に答えられる部分だけを切り離したところで、それは何らの解決にもなっていない。

報復では真の回復にならず、いずれ現実を受け入れて加害者を赦す時が来るはずであるという修復的司法の論理は、被害者遺族にとっては本能的に違和感を持つものである。しかしながら、修復的司法を推進する立場は、これが正しい答えであると信じて疑わず、遺族に押し付けようとする。これが当初の哲学的懐疑を軽いものに変形し、安いものに変質させる。遺族が報復感情を持っているというのは、あくまでもそのように評価する人にとって、そのように見えているだけの話である。物事は、その人の見たいようにしか見えない。

(続く)

井上薫著 『司法のしゃべりすぎ』

2007-05-02 18:39:51 | 読書感想文
判決文は言語である。従って、ウィトゲンシュタインの後期理論によれば、判決文を書いたり読んだりすることも言語ゲームの一環と捉えられる。さらに、社会学者の橋爪大三郎氏の理論を借りれば、これは複言語ゲーム(派生的言語ゲーム・2次的言語ゲーム)の一種である。逮捕状の氏名欄に住所を書いてはならないのは、そのようなルールを作っているからであり、審判によってルール違反だと判定されるからである。これは、野球で打ったあと3塁に走ってはならないのと同じレベルである。

井上氏は裁判官であり、複言語ゲームの中で法律言語を駆使している立場であって、橋爪氏のように複言語ゲームの構造自体を意識しているわけではない。井上氏が「蛇足」というメタファーを使うことができるのも、「ヘビ」「足」という言語ゲームの渦の中にいるからに他ならないが、井上氏はそのことを格別に意識しているわけではない。

法律の条文も判決文も、すべては政治的な言語であり、複言語ゲームの中でのみ意味を持つ。裁判所は国会や内閣と異なって非政治的機関であるとされるが、言語哲学から見れば、いずれも複言語ゲームの担い手である点において違いはない。国会は法の定立を行い、内閣は法の執行を行い、裁判所は法の解釈・適用を行う機関である。いずれも、法律という言語を扱う点で差異がない。裁判所も真理を追究する場ではなく、勝負を争う場であって、言語哲学から見れば純粋に政治的な機関である。

司法のしゃべりすぎによる弊害の原因を哲学的に分析するならば、これは橋爪氏の言うとおり、恐ろしい光景が開けてくる。言語ゲームはその中に入ってしまえば当為命題(Sollen)であるが、外から見れば事実命題(Sein)である。人間は1次的言語ゲームの外には出られないが、2次的言語ゲームの外には出ることができる。法律言語は、日常言語に比べれば、ごく狭い範囲のことしか語れない。語り得ぬものについては、しゃべりすぎる以前に、そもそも沈黙しているしかない。しゃべることすらできない。

ウィトゲンシュタインの前期理論を進めた法実証主義は、法律言語によって語りうるものの範囲を厳格に確定し、法律学や裁判によって語り得るものの範囲を狭めた。ウィトゲンシュタイン自身は、前期思想の写像理論の行き詰まりを言語ゲーム理論によって解決したが、法実証主義は、その対立的な理論である自然法論との妥協に流れてしまう。この自然法的なものが、人権思想、民主主義、三権分立などである。言語哲学から見れば、司法はしゃべりすぎているのではなくて、そもそもしゃべれないことをしゃべっていることに自分で気がついていない状態である。