犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

藤井誠二著 『殺された側の論理』 第3章 その1

2007-05-15 18:49:37 | 読書感想文
第3章 息子のために阿修羅とならん

息子を少年達の暴行によって失った青木和代さんは、次のように述べている。「意見陳述のためにコピーをした調書を読まねばならないのですが、ショックで読むことができませんでした。1字見ては泣き、1字見ては泣き、気が狂いそうになりながら読みました」。

被害者遺族は、とにかく事件の情報を知りたい。加害者の供述調書を読むことは、耐え難く辛いことであるが、それでも読まずにはいられない。この矛盾が、人間存在の本質である。遺族がとにかく事件の情報を知りたいのは、それが人間というものだからである。被害者が殺された状況を知らないということは、被害者の死そのものを知らないということである。この哲学的な理由抜きの真実と、少年犯罪に取り組んでいる人権派弁護士との主張とは、レベルがあまりにもかけ離れている。少年のプライバシーが侵害される、少年の立ち直りを阻害するといった視点は、被害者とその遺族の人間存在それ自体を侮辱する。

少年審判とは、あくまで発達途上にある少年の立ち直りを目指して行われる手続きである。それ以上でもそれ以下でもない。その程度の社会の仕組みであるならば、そのことを自覚しておけばよいだけであるが、法律の「べき論(Sollen)」は、これを阻害する。哲学なき人権論の破綻した文法を批判しようとすれば、それはすでに「べき論」の土俵に乗ってしまっている。そこでは、被害者側は必然的に不条理な大前提に巻き込まれてしまい、被害者側も理不尽に加担して矛先を自分自身に向けてしまうことになる。従って、ここでは「べき論」を論じながらも、純論理的な真実(Sein)を手放さないことが不可欠である。

青木さんの元には、少年から紋切り型の謝罪文が送られてきたが、これが青木さんの感情を逆撫でしたことは当然である。このような絶望的なケースは、少年事件に限らず非常に多い。常識で考えれば、加害者がこのような謝罪文しか書けないことは、刑を重くする理由にしかなり得ないだろう。しかしながら法律上は、とりあえず謝罪文が送っておけば反省の情を示したことになり、刑を軽くする理由になる。法律的にはそれ以上は踏み込めないし、踏み込まない。これも哲学なき法治国家のシステムのなせる業である。やはり裁判はベルトコンベアーによる流れ作業を抜け出せない。

人間であれば、文字の丁寧さや文章の流れ、誤字脱字などを見れば、心底からの反省の情の有無は推測できるはずである。しかし、裁判官はあえてこれを行わない。紋切り型の言葉の羅列には、行間からにじみ出てくる苦悩がない。これは、被害者遺族が絶句の中から絞り出す言葉とは対照的である。語り得ぬものは、その人間の生き様全体の中から自然と示されるものである。

子供が親よりも先に死ぬことは「逆縁」と呼ばれ、この世の最大の親不孝だとされる。これが犯罪被害によって生じたならば、残された親にとっては、この世の最大の苦しみである。しかし、法治国家における大上段の文法は、「殺された」という文脈を持ち込むによって、「死んだ」という文脈を消してしまう。哲学的な苦悩は、安っぽい人権論によって答えが出せるものではない。犯罪被害者の権利とは、専門的なフィルターを完全に取り払って、1人の人間存在としての視点からものを見ることである。

(続く)