犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

法は道徳の最小限

2007-05-26 18:52:06 | 国家・政治・刑罰
ヘーゲルはカントの道徳律について、具体性がないと批判した。これは、現代の我々が見ても同じような感想を持つものである。ヘーゲルが指摘したのは、ルールを守ることと人間が生きることとは別のことではなく、人間はすでにルールを守ってしまっているか、破ってしまっているかのいずれかだということである。道徳律はどこまでも外的なものであって、生きた人倫性がない。道徳が自分の外側にあり、決して到達し得ない理想の対象であるとするならば、それは本能的に「嫌なもの」として感じられる。「法は道徳の最小限」という格言もこの延長にあり、法も道徳も外的強制として作用する。

カントの道徳律は、「すべき(Sollen)という意志の規則が、常に普遍的な法則に一致するように行動せよ」というものであった。これは確かに息苦しい。これをヘーゲルとは全く逆の方向から批判したのがフォイエルバッハであり、ここから罪刑法定主義が確立することとなった。「法は道徳の最小限」ではなく、そもそも法と道徳は別物である。法と道徳とは峻別され、道徳違反によっては罪に問うことはできない。このような功利主義的な発想は、法律に違反すれば罪になるという側面ではなく、法律に違反しなければ罪にならないという側面のみが強調されることになる。

ヘーゲルの良心の理論と、フォイエルバッハの罪刑法定主義の理論とを比べてみれば、我々の常識に近いのはヘーゲルのほうである。我々は悪いことをするときには、自然と良心がとがめる。これは理想ではなく、現実である。犯罪とは堂々と行われておらず、ばれないようにコソコソと行われているのがその証拠である。正しいことであるという自負があるのならば、万人に向かって堂々と行っているはずであり、裁判で否認する必要もない。法律なければ犯罪なしという罪刑法定主義の理論は、人間がいやいや道徳に従い、いやいや法律に従っているという側面ばかりを強調しすぎている。どんな人間も、その良心によって自発的に法律を守っているという現実を見ていない。

現実的なものは理性的であり、理性的なものは現実的である。人間の意志は自由の表現であり、その意志は自然法則を変えようとするものである。人間が自らの良心によって、自然と道徳や法律を守ろうとしていることは、この自然法則を変えようとする働きの1つである。これがヘーゲルからカントへの批判である。カントはその自然法則が道徳だと言っているが、これでは道徳が変えられてしまい、矛盾が生ずることになる。さらに現実主義者のヘーゲルは、近代刑法の父フォイエルバッハの理論を、人間を動物のように扱うものだと批判した。これは、カントに対する批判とは、そのレベルが全く異なる。

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2 コメント

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pandagananda16 (ぱんだ)
2007-05-27 07:11:01
コメント有難うございました☆
深い文章ですね。
勉強させていただきます!
これからもよろしくお願いします♪
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ありがとうございます。 (法哲学研究生)
2007-05-27 18:26:34
深い文章などと評価して頂き恐縮です。哲学者の残した言葉を一定の視点から強引に読み替えているだけですので、あまり勉強にはならないと思いますが、何らかの参考にして頂ければ幸いです。
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