犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

片山徒有著 『犯罪被害者支援は何をめざすのか』

2007-05-05 18:09:32 | 読書感想文
第3章第1節は、「片山隼君事件から修復的司法を考えてみる」という表題である。修復的司法とは、被害者と加害者が共生するためのアプローチであり、加害者を単に罰するのではなく、加害者が被害者にもたらした被害を修復するという趣旨の取り組みである。

修復的司法においては、被害者も加害者も主体的に手続きにかかわるものとされ、加害者が責任を取ること、被害者に償いをすること、双方が和解することの3つが基本に置かれている。被害者は、自分が受けた被害から解放され、前に向かって動き出すための力を与えるものとされている。ここでは被害者も加害者も対等であり、対立があってはならず、相互にわかり合っていきたいという双方の気持ちが必要であるとされる。

このような修復的司法の性格を考える限り、これは被告人が全面的に自白している事件にしか用いることができないだろう。被告人が人違いだと言って争っているのであれば、そもそも償いをすることといった概念とは真っ向から矛盾する。また、一部否認、故意否認事件についても、修復的司法のシステムは使えない。無理に双方の和解を勧めても、被害者を苦しめるだけだからである。被告人から「殺すつもりはありませんでした。しかし、結果的に死なせてしまったことについては、深く反省しています。一生かけて償います」と言われたところで、被害者遺族はバカにされたとしか感じられない。

片山隼君事件においては、修復的司法は上手く行かなかったようである。被告人が「天国で元気に遊んで下さい」という手紙を書き、それに対して父親の片山徒有さんが「天国でどうやって遊ぶのですか」と質問したところ、被告人は黙り込んで言葉がなかったというやりとりが書かれている。この短い会話だけを見ても、被害者が自らの被害から解放され、前に向かって動き出すための力を与えることには、途方もない困難があることがわかる。また、被告人が片山さんに毎月定額を郵送するという約束すら守られていない。

修復的司法のアプローチは、殺人事件や死亡事故など、人間の生命が失われた場合に対する考察が浅い。論理的に考える限り、人間の生命は修復できない。加害者が責任を取って被害者遺族に償いをしたところで、その加害者も何十年か後には必ず死ぬ。被害者遺族が前に向かって動き出しても、やはり何十年か後には必ず寿命で死ぬ。このような人間存在における不可避的な生死の形式において、被害者遺族と加害者との修復にはいったいどのような意味があるのか。ここを哲学的に厳しく問い詰めなければ、修復的司法は被害者の生命が失われた事件には使えない。死から目を逸らしつつ死を修復しようとしても仕方がないからである。