犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

藤井誠二著 『殺された側の論理』 第6章

2007-05-31 19:18:13 | 読書感想文
第6章 「生きて償う」という「きれいごと」

殺人犯が「生きて償う」と述べるならば、多くの人はそれを「きれいごと」だと感じる。それは、政治家や大企業のトップの不祥事が発覚して辞任の世論が高まったときに、「しっかりと職責を果たすことが信頼回復につながる」と言ってヒンシュクを買うのと同じことである。正論か屁理屈かの違いは、権力者であろうと犯罪者であろうと変わらない。「こそ」「むしろ」といった逆接的表現は、「逆接」ではあっても「逆説」ではない。

「死刑」の問題は、その中に「死」を含んでいる。死がわからないのに死刑がわかるわけがない。しかしながら、人間の生死に関する哲学的な問題には答えがない。「人間はなぜ生きるのか」、「なぜ自殺してはいけないのか」といった問いに対しては、絶対的な正解は得られていない。このような現実がある以上、死刑制度の賛否の問題については、とりあえずのこの世間における正解を出しておくしかない。法律学が扱いうるのは、哲学的な問題を底上げした先の政策的な問題のみであり、それぞれの国で仮の答えを出して先に進むしかない種類の話である。

このような政治的な議論においても、哲学的な議論に近いものと遠いものがある。そして、哲学とは客観的なデータではなく、自分の人生における経験と直感のみによって、普遍に通じる真理を探究する営みである。そうであるならば、こと死刑制度に関する以上、犯罪被害者遺族の意見に勝るものはない。ここでは、利害関係のない冷静な第三者の意見には意味がない。生死に関する問題は主観と客観を超越しており、答えは実存的な自問自答の先にしかないからである。3人称の死から2人称の死を類推しても、哲学的な議論からは遠ざかるのみである。

人権派の死刑廃止論には、自分の意見は絶対的に正しいという傲慢さが付きまとう。これは被害者遺族に対して冷酷なわけではなく、単に鈍感なだけである。人権派における死刑を廃止したいがための被害者対策という政治的な手段は、被害者遺族による哲学的懐疑によって簡単に見破られるだろう。命あっての人権であり、命あっての死刑廃止論である。人間が生死の問題を論じるときには、かならず自分は生きているという自己言及のパラドックスが生じている。死刑廃止条約の条文を絶対的な権威として信じてしまえば、哲学的懐疑は終わりである。日本の世論が圧倒的に死刑制度を支持していることは、人権派からは人権意識が低いというだけの話であるが、条約といった権威にかかわらず日本人が自分の頭で物事を考えていることの証拠でもある。