犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

人権感覚の成熟

2007-05-24 19:01:42 | 国家・政治・刑罰
なぜ凶悪犯人にも弁護士が付くのか。国民の間におけるこのような素朴な正義感は、非常に大切なものである。国民は近代刑法の原則が全くわかっていない、人権感覚が成熟していないと切り捨てるのは簡単である。しかし、逆に国民からこのような素朴な正義感が失われる社会は恐ろしい。犯罪被害者保護が進んできたのは、このような人間の正義感の表れである。その意味で、凶悪犯人にも弁護士が付くのは当然であると納得している限り、人間は犯罪被害者が直面している問題の所在を捉えることができない。

「疑わしきは罰せず」という近代刑法の大原則も、それが特定のイデオロギーであるがゆえに、しばしば社会常識からかけ離れた無罪判決をもたらす。これはこれで事実であり、そのような法政策を採用しているだけの話である。国民世論がそれを疑問視し、「灰色無罪」だと感じるのは、至極正常なことである。これに対して、無罪は無罪であり、灰色無罪などと言うのは人権感覚がない証拠だと断定するならば、それはやはり独善的な教条主義にすぎない。

二次的被害という枠組みを文法的に演繹するならば、犯罪被害者の最大の二次的被害は、無罪判決が出てしまうことである。真剣に犯罪被害者保護政策を進めるならば、少なくとも灰色無罪の場合には、「被告人が犯人だと信じている」と表明する権利は認めざるを得ない。被害者が、このような人間として当然の感情を述べる言葉すら飲み込んでしまう空気が生まれたならば、近代刑法の大原則は完全なファシズムとなる。この恐るべき構造を見据えなければ、二次的被害の救済を進めると言っても、表面的なもので終わってしまうだろう。

人権派弁護士と言われる人達は、被告人の人権と同じように、被害者の人権問題にも取り組んでくれるのか。これは、誤魔化さずに突き詰めれば突き詰めるほど、原理的に期待できないことがわかる。被害者の人権問題を最重要課題として取り組むことは、人権派弁護士としての存在に矛盾するからである。被害者への同情は、誤判の恐れや厳罰化を引き起こすものとして、消極的にしか捉えられないからである。

被害者保護の世論の高まりに伴い、人権派弁護士も被害者の人権問題に無関心ではいられなくなっている。しかし、本音からすれば、余計なものが入ってきたというところであろう。「厳罰化は被害者の真の救済につながらない」という主張は、その本音を隠している限り、話がどうしても本筋からずれてしまう。確実なことは、「厳罰化は被告人にとって苦しい」ということのみである。従って、厳罰化に反対することは、被害者のためになるか否かは不明であるが、被告人のためになることだけは確実である。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。