犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

自立した個人という幻想

2007-05-09 18:59:15 | 国家・政治・刑罰
近代とは、市民を中心とする自立した個人が、国家と向き合って権力を監視する時代である。そして、市民が選挙によって国政に参加し、封建時代における拘束から個人を解放し、理性的な個人によって権力の濫用を防止する時代である。これが近代社会のわかりやすい単純なモデルである。私と公という二項対立の図式においては、個人と共同体、個と全体という二者択一の状況が発生し、何でも政治的な右左の対立と妥協の構図に持ち込まれる。

このような近代社会のモデルは、あくまでもフィクションである。これを人間の全存在的・全生活にまで適用すると、確実にひずみが出る。近代政治や近代科学は、人間生活の全体を1つのアングルから掬い取ろうとした仮説の1つにすぎない。これらの仮説は、その素材を客観化された事象に求め、それを公平中立な立場から比較し、その差異を計量可能な形で評価しようとする。このような社会科学は、問題のあり方を客観的な方法で解明し、人間の形而下的な生活一般の水準を高めることに大いに貢献している。しかしながら、その反面として、人間の全存在的・全生活的な問題に応えることは苦手である。

近代社会における自立した個人のモデルを、社会的・政治的な文脈を離れて人間の行動すべてに及ぼそうとすれば、それは中世の「神」の地位にとって代わることになる。自己や自我といった何か確固たるものがあるという前提からさらに掘り下げることを怠った結果として、「人権」が「神」に代わるようになる。そこでは、神の後ろ盾を失った個人の自由や自立が、逆に不安感をもたらすことになる。この不安感から逃れるために、人間は国家権力という悪の権化を非難し続けることを強制されることになる。

ヘーゲルは、個人の良心の延長線上に共同体の倫理を位置づけた。これは、私と公という二項対立の図式ではなく、国家権力という悪の権化を監視するという図式でもない。近代刑法の罪刑法定主義は、人間が集まることによって社会や国家が形成されるという単純な事実を見落とした。市民と国家権力という対立構図は、どこまでも政治的な右左の対立となり、人間の全存在的・全生活的な問題に応えることを怠る。こうして見ると、近代刑法の罪刑法定主義によって、犯罪被害者が見落とされたことは必然的であった。現代社会はようやく犯罪被害者の存在に気づいたが、被告人の人権と被害者保護は両立するなどと言っていれば、犯罪被害者はさらに見落とされ続けるだろう。問題の所在を捉えていないからである。