犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

「在る」と「無い」の条理と不条理 その1

2007-05-13 19:22:32 | 国家・政治・刑罰
「無い」という概念は、「在る」という概念との関係において初めて成立する。「無」は、それ自体独立には成立しない。これが在-無-成(正-反-合)であり、弁証法の必然である。これを人間の人生についてみるならば、「死」という概念も、「生」という概念との関係において初めて成立する。人間には、無がそれだけでは理解できないように、死もそれだけでは理解できない。

人間が死を理解しようとすれば、それは生の側に引き付けた上で理解するしかない。それが、死者が「あちら側にいる」という感覚である。人間は、死者があちら側にいるという感覚について、数多くの語彙を発明した。それが、「他界」「彼岸」「あの世」「昇天」「逝去」などの語彙であり、理解できない死を何とか理解しようとした悪戦苦闘の痕跡が見られる。すべて同じことを指しているのだから、本来このような沢山の表現は必要ないところである。しかし、どれもこれも現在まで並行して使用されている。

死者があちら側にいるならば、行った者は帰ってくるはずである。人間におけるこの感覚も、弁証法の必然である。犯罪で我が子を亡くした親は、犯人に向かって、「娘を返せ」、「息子を返せ」と詰め寄らざるを得ない。そして、「犯人が死刑になっても娘は帰ってこない」と言って絶望せざるを得ない。このような文法は、完全に正当なものとして成立し、人間において意味が通っている。これは、絶対不可解な存在の謎を指し示している。

死者があちら側にいるはずなのに、行った者は帰ってこない。この絶対不可解は、すべての死に共通である。しかしながら、犯罪被害による死の場合には、この絶対不可解さが傑出している。犯罪被害による死の場合にのみ、人間が他の人間の生命を奪うという事態が起きているからである。この世に「在る」人間が、他の人間の「在る」を「無い」に変えている。これは、この世の不条理の最たるものである。

(続く)