犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

池田晶子著 『新・考えるヒント』 第14章「道徳」より

2007-05-04 20:54:21 | 読書感想文
善とは何か、悪とは何か。これは考えれば考えるほどわからなくなるものである。しかし、罪刑法定主義の原理が確立した現代の刑事裁判においては、このような難問を考える必要はない。悪は国家権力であることに決まっているからである。ここでは、遊ぶ金欲しさに犯罪に手を染めたこと自体の悪は棚に上げられる。

厳罰化に反対するならば、そもそも罪を犯さなければよいだけの話である。しかし、近代刑法においては、このような常識を述べることすら憚られる。もともと功利主義の思想は、倫理や善悪の探究には向いていない。近代刑事裁判の理念と犯罪被害者の要求とのすれ違いは、ここに端を発する。

池田氏は、内的に欲求されるものを「倫理」、外的に強制されるものを「道徳」と呼んでいる。以下の「道徳」という部分は、すべて「法律」と読み替えても同じ意味となる。


p.205~ より抜粋

食欲や性欲という自然の本能を満たすことが生存の理由であるならば、道徳がこれに対立するものと見えるのは当然である。道徳が個人を強制拘束するように見えるのは、強制拘束されていると感じるそのような個人的意識であるからということ以外ではない。自然の本能を満たすことを生存の理由とはしていない精神にとって、貪るなかれ、姦淫するなかれとは、いかなる強制拘束とも感じられないはずである。このような精神にとっては、道徳に従い、社会を維持するということは、目的ではなく結果であろう。

保守派も自由派も、道徳の目的は社会の維持にあると疑ったことがない点では同じである。お前は自由に生きる権利があるが、それは社会に迷惑をかけない範囲でなのだという教え方には無理があると、人々は実は気づいているのだ。じじつ大人は、売春する子供の理屈、「誰にも迷惑をかけてないのになぜ悪い」というあの屁理屈に対して、反駁する術をもっていない。

近代的個人の発生とは、中世的神からの自立であるとは、一般的な歴史解釈である。権利というものの考え方も、近代社会の発生と同時である。現代のわれわれは、それを何か進歩的な喜ばしいことのように捉えがちだけれども、たとえば権利というこの考え方が、いかに社会の荒廃を招いているかは、今日の状況を見れば明らかだろう。自分が自分の人生を好きなように生きる権利とは、多くの場合、食欲、性欲、または物欲を追求する自由である。この自由の過剰を規制するために、義務というものがある。社会が定めた法律に従うことは、社会に生きるわれわれの義務である。そしてこれが、中世的神に取って代わった近代的道徳というわけだが、この道徳がいまや無力であるのは、その意味では当然である。各人の心のうちの善悪を裁く力を、この道徳は最初からもっていないからである。

いま現に生きているこの自分とは、いったい誰なのか、何なのか、この謎をまっすぐに考え詰めてゆく、あるいは考え詰めなくてもよい、強く感じようと努めてみるだけでも、人は問いの底が抜けるのを感じるはずである。底が抜けるとは妙な言い方だが、問いの解がないと知ることによって、問いの向こうへと開かれるとでもいうべきか、ある種の永遠的感覚を自身として知る経験である。それは経験である。このとき超越的なものは内在的なものである。外在的教条など必要ないのである。

言葉が対象を生み出す

2007-05-04 19:35:15 | 言語・論理・構造
「なぜ被告人は殺人を犯したのか」。刑事事件に関する従来の問いは、これに尽きていた。このような観点に固まってしまえば、あとは被告人の動機や生い立ちを細かく分析して、更生と再犯防止の対策を考える方向しか見えなくなる。今でも多くの法律家は、この観点から抜けられていない。

観点を変えてみることとは、主語を変えてみることである。「なぜ被害者は殺されたのか」。もう一歩進んで、「なぜ被害者は殺されなければならなかったのか」。物理的に見れば全く同じ1つの殺人事件が、問い方によって違ったものに見えてくる。「ものは言いよう」という格言は、この上なく正しい。言語化されないものは、人間にとっては端的に存在しない。これは、人間が言語を所有する動物であることの必然である。物理的な物体も、言語によって把握されない限り、その存在には気付かれない。犯罪被害者が戦後長きにわたって刑事裁判の場から見落とされてきたことも、この言語の性質によるものである。

人間以外の動物は言葉を持たない。動物にとっては、人間の話し声は「音」であり、人間が書く文字は「絵」である。これは、動物が絶対音感と絶対視感を有するということである。これに対して人間は、話し声や文字から意味を読み取ることができる。これは相対音感と相対視感である。人間の言語活動とはこのようなものであり、法律もこのような人間の言語生活における一部分の現象にすぎない。相対音感と相対視感を有する人間においては、言語化されていないものは、端的にこの世に存在していない。

ウィトゲンシュタインに始まる日常言語学派は、専門用語を軽蔑し、日常用語で語れることこそが世界を構成していることを解明した。これに対して、法律の専門用語ばかりが飛び交う裁判の法廷は、日常用語を不明確なものとして見下そうとする。そして、「なぜ被告人は殺人を犯したのか」という問いは許容するが、「なぜ被害者は殺されなければならなかったのか」という問いは許容しない。さらには、法律用語によって処理できない問いには、法廷の秩序を乱す言いがかりであるとのレッテルが貼られることになる。

専門用語の存在は、日常用語に依存している。それは、論理的な順序である以上に、法律家も普段は日常用語を話さなければ生活できないという事実において明らかである。その意味で、専門用語は虚構である。ゆえに専門用語の体系は、「なぜ被害者は殺されなければならなかったのか」という問いを恐れる。これは、言葉が対象を生み出すことの端的な証左であり、専門用語による言語化がいかに人為的なものであるかを暴くものである。