犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ヘーゲルの家族論

2007-05-07 18:49:50 | 国家・政治・刑罰
ヘーゲルの弁証法は、簡単に言えば次のようなものである。自己意識は高次の段階に発展してゆき、自己意識は理性的なものを獲得する。そして、人間の共同性は、家族から市民社会、国家へと発展してゆく。これを当為(Sollen)によって順番的に捉えてしまうと台無しである。すべては一瞬において絶えず実現している(Werden)。家族・市民社会・国家は、常に矛盾しつつ成立している。これらの共同体を何らかの実体としてイメージしてしまうと、それは流動性を失い、虚構となる。

人間の共同性の基礎である家族は、自然的であり、自己目的的である。これは個人の内的倫理によって支えられ、それ自体を目的としており、交換不可能である。我が国の戦後民主主義は、自立した市民社会における「家制度」の解体という方向に突き進んだが、ヘーゲルとは議論のレベルが全く異なる。戦後民主主義は、家制度が市民社会と矛盾するがゆえに、それを解体しようとする。これに対してヘーゲルの弁証法は、家制度が市民社会と矛盾するがゆえに、それは相互に存立する。

我が国の法曹界は、家族・市民社会・国家について、完全に政治的な文脈でしか捉えられなくなってしまった。国家は小さな政府が理想的であり、市民は権力の濫用を監視しなければならず、人権とは「国家からの自由」である。これは啓蒙思想に端を発しており、憲法における人権論、民法における「家制度」の解体、刑法における罪刑法定主義が、すべて原理的に演繹されることになる。ここに犯罪被害者の遺族の怒りや悲しみを持ち込まれたところで、処理できるわけがない。被害者の意見陳述に関しても、法廷が復讐の場になって審理が混乱するといった捉え方しかできなくなる。

ヘーゲル哲学おいては、市民社会は国家ではなく、国家は市民社会の一段上にある。市民社会は欲望の衝突となり、万人の万人に対する闘争となるからこそ、その否定の否定として国家が現れる。啓蒙思想は市民社会イコール国家であるとするが、これでは弁証法的に国家が止揚しない。ヘーゲル哲学における国家とは、現代社会において地球上に並立している200前後の国家に限られない。それは、将来における世界政府まで展望に入れることができ、超時代的な普遍性を示している。啓蒙思想が、単に主権国家並立の近代社会に限定された仮説であるのとは対照的である。

憲法における人権論から原理的に抜けられない法律家は、民法における「家制度」の解体、刑法における罪刑法定主義からも抜けられない状態である。ここに犯罪被害者の遺族の怒りや悲しみを正面からぶつけても、まともな答えは返ってこない。市民社会イコール国家という土俵に乗らず、国家は市民社会の一段上にあるという弁証法を用いることは、犯罪被害者保護における有益な視点を提供するものである。