犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

中野翠著 『よろしく青空』

2007-05-01 19:41:26 | 読書感想文
法律家は、ふつう法律の悪口は言わないし、そのような本も読まない。当然の話である。法律家は、現代は法律を知らなければ生きていけない時代であり、我々の生活は法律に囲まれており、法律がなければ世の中は回らず、法律は現代社会に必要不可欠の存在であることを大前提としているからである。しかしながら、これが犯罪被害者にとって「法律の壁」が存在することの大きな原因になっている。

「社会あるところに法あり」という古代ギリシャの格言がある。これは、法律を学ぶ者の間では有名な言葉である。しかし、全く逆の格言もある。「腐敗した社会には数多くの法律あり」(アンドリュー・ジョンソン)。「国が腐敗すればするほど法律が増える」(コルネリウス・タキトゥス)。「腐敗した社会には多くの法律がある」(サミュエル・ジョンソン)。どれも同じことだが、やたらと細かい条文ばかりが増えて、人間のほうが振り回されている現代の日本にもそのままあてはまる。

人気コラムニスト中野翠氏の著作の中に、法律についての辛口の評論がある。法律家は、このような鋭い感覚と観察力で書かれた法律論を読むことはあまりないだろう。犯罪被害者が「法律の壁」を乗り越えるのではなく、それを消してしまうためのヒントとしては1つの参考になる。以下に引用する。


p.169~170より抜粋

法律というものにほとんど興味がない。知らない。

法律なんてこの人間社会の必要最低限の決まりごとだと思う。俗世間で最も枠の小さい善悪基準だと思う。多くの人びとは私同様、法律はあまり意識することもなく常識に従って判断し、行動し、無難に過ごしていると思う。常識を法律より大きな行動基準にしていると思う。法に頼らずとも、いいこと悪いことの判断くらいできるのだ(まあ、その常識も法によって形成されているところは大いにあるのだけれど)。

だから、法律やその専門家が格別にありがたがられる世の中は、あんまりいい世の中ではない。常識が衰退している証拠なのだから。

そういう世の中は、まるで子どもを妙な言い方で叱る親のようだ。例えば電車の中などで自分の子どもが騒いでいるのを、「騒いでいると、こわい人(あるいはオマワリさん)に叱られるよ」といった言い方で注意する親。まわりの人に迷惑だからではなく、叱られるから悪いこと。だったら叱られなければ構わないというわけだ。自分の内側に善悪の基準はないのだ。あんまり品のいい発想ではない。

実のところ、法も常識もしょせん絶対的なものではない。ある時代のある共同体での決まりごとに過ぎない。