犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

小浜逸郎著 『なぜ人を殺してはいけないのか』

2007-05-08 19:02:55 | 読書感想文
洋泉社新書の『なぜ人を殺してはいけないのか』、『人はなぜ働かなくてはならないのか』、『人はなぜ死ななければならないのか』は、小浜氏本人が述べている通り、一連のテーマを扱った3部作である。ここでは、哲学的な問いが様々な形で問われており、その形而上性にも差が設けられている。“Yes/No”で答えられる問いは、人間は具体的にどちらかの意見を持つことができ、法律学においても扱いやすい。これに対して、“Why~Because”型の問いは、賛成論と反対論の対立になりにくく、法律学においては扱いにくい。

「売買春は悪か」、「他人に迷惑をかけなければ何をやってもよいのか」、「死刑は廃止すべきか」、「戦争は悪か」といった問いについては、人間は具体的にどちらかの意見を持つことができる。これは論点が拡散せず、問いが閉じている。賛成論と反対論の対立の形になれば、あとはロジックによる積極的な論拠の提示と、論破の技術による勝負となる。行き着く先は妥協と折衷、もしくは延々と続く平行線である。ここでは、最初の問い自体は全く変化していないため、弁証法的な止揚が生じているとはいえない。

これに対して、「なぜ人を殺してはいけないのか」、「私とは何か、自分とは何か」、「人は何のために生きるのか」、「人間にとって生死とは何か」、「死はなぜ不条理で恐ろしく、また悲しいのか」、「人はなぜ死ななければならないのか」といった問いについては、人間は意見を持って論争することができない。ここで行われるのは、他者を論破するための技術の習得ではなく、哲学的懐疑による自問自答である。ここでは、問いが閉じていない。最初の問いは、無限に変化して発展する。これが弁証法的な止揚である。

犯罪被害者の苦しみの根底は、“Why~Because”型の問いである。「なぜ被害に遭わなければならなかったのか」、「なぜ殺されなければならなかったのか」という問いである。これは法律学においては扱えない。そこで、問題は無理に“Yes/No”で答えられる問いへと変形される。

もちろん法律的な問いにおいても、その形は変化する。「被害者による意見陳述を認めるべきか」という問いは、「意見陳述を認めれば法廷が報復の場になってしまうのではないか」、「法廷が報復の場にならないためにはいかなる手段があるか」、「意見陳述は被告人の更生を促すのか妨げるのか」といった形で発展する。しかしながら、どう頑張っても最初の問いは閉じており、最初の問い自体は全く変化していない。ここでは弁証法的な止揚が生じず、政治的な賛成反対論のみが残ってしまう。

犯罪被害者の苦しみは、すべて人間の人生の根幹に関わるものばかりである。ところが、その苦しみの倫理学的な側面は、刑事事件が起きるたびに人々の話題には上るものの、徹底的に突き詰められたためしがない。物事を根底から考えていく順序としては、現代社会の表層を追うのではなく、まず純粋に個のありようから説き起こし、私的な関係から、法・社会・国家へと展開していくのが正しい手続きであろう。

このような問題について、最初から法・社会・国家の枠組みで物事を考えてしまうと、問いが固定してしまう。そのような問いの様式は、被害者を絶対的な形でその内部に閉じ込める特性を持っている。法律学による問いの設定は、被害者の苦しみが人生の根幹に関わっていることを見落とさせる。このような状況を打開するためには、問いの外に一旦出て、頭を切り替えてその問いに挑む必要がある。