犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

法廷に死者はいない

2007-05-30 19:16:06 | 時間・生死・人生
裁判の空間に、殺された人間はいない。裁判官や検察官、弁護士や被告人は生きている。傍聴席の人々も生きている。しかし、殺された被害者本人だけがその場にいない。これは当たり前の話である。この当たり前であることが当たり前すぎるゆえに、そこからは逆に異常性が噴き出してくる。

裁判システムに完全に浸かっている法律家は、この当たり前であることをそのまま受け取っている。裁判官も弁護士も同じである。この鈍感さこそが、被害者遺族を苦しめている原因の1つである。法廷における遺影の持ち込みの問題も、「被告人が萎縮して公正な裁判が害されるか否か」という問題設定の方法では、被害者遺族の苦しみの一番核心のところを取り逃がす。当たり前であることが当たり前のまま進行されている裁判の異常性への感受性、このギャップを直視することがすべての始まりである。

そもそも、法廷において仰々しい儀式を開催している発端は、被害者の死である。にもかかわらず、その発端である人間が存在しない状況は、欠席裁判の様相を呈する。被害者遺族が、何とか写真だけでも存在させてあげたいと願うのは当然のことである。しかし、法律学の理論からは、被告人だけが当事者であって、被告人さえ存在すれば欠席裁判ではない。被害者遺族からすれば、このような裁判制度それ自体が欠席裁判である。

ハイデガー哲学から見れば、犯罪被害者遺族の直面している問題は、人間にとって最大かつ根本的な問題である。人間であれば、誰しも心のどこかで所有している問いが顕在化しただけである。日常生活を平穏に送っている人々は、日々の忙しさにかまけて、その人間にとって最大かつ根本的な問題から目を逸らそうとする。しかし、そのような人々も、ひとたび自分が最愛の人を犯罪被害で失う立場に立たされたならば、この問題に直面することを免れない。人間は潜在的に、常に被害者遺族の直面している問題と同じ問題を抱えながら生きている存在である。日常生活を平穏に送っている人々の視線からは、犯罪被害者遺族は心理的に異常な状態に追い込まれているという安易な捉え方がなされる。しかし、ハイデガー哲学から見れば、このような思慮の浅薄さのほうがむしろ異常である。

法廷に死者はいない。この当たり前なことを当たり前であるがゆえに変だと感じるか否か。この感受性なくして、法律学のパラダイムの下で小手先の政策論だけを推し進めても、やはり最後には割り切れないものが残ってしまう。「被告人が萎縮して公正な裁判が害されるか否か」という問題は、その問題設定自体のピントがずれている。ずれているものは、掘り下げても無駄である。