犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

茂木健一郎著 『クオリア入門』

2007-05-12 19:01:03 | 読書感想文
物質である脳に、いかにして心や精神が宿るのか。脳は心臓や肝臓などと同じ臓器であり、単なる物質に過ぎないにもかかわらず、なぜ脳の中だけには観念が発生するのか。これが「心脳問題」である。法律学は、この心脳問題を全く考えていない。刑法学における故意や錯誤、過失などの議論は、すべて政治的な政策論である。しかしながら、「未必の故意」と「認識ある過失」の差異を根底から突き詰めようとするならば、心脳問題抜きでは済ませられないだろう。

人間の経験のうち、数字や論理記号によって計測できないものを、現代の脳科学では「クオリア」(感覚質)と呼ぶ。我々人間の体験のすべては、脳の中の神経細胞(ニューロン)の活動によって生み出されている。この世のすべての現象は、わずか1リットルの脳内における1千億個の神経細胞の生み出すものである。目の前の出来事も、地球の裏側のニュースも、すべては自分の脳内で刻々と変化する神経細胞の結合による現象である。科学的方法論は、人間の脳内に神経細胞が活動していることまでは解明したが、なぜこの神経細胞の活動が意識を生み出すのか、これを解明することができていない。

法律家は、ごく当然のように「罪になる」、「道路交通法違反になる」などと言う。一般人も同様である。しかし、厳密に述べれば、犯罪は「なる」ものでない。犯罪の成立は、この地球のどこかに物質として転がっているわけではないからである。道路交通法違反を成立させるのは、人間の脳内のニューロンの活動である。すべての言葉の意味や定義は、個々人の意識の中におけるクオリアの作用に依存せざるを得ない。意識されるものはすべてクオリアであるから、これはどう考えても否定できない事実である。どんなに精密に単語を定義しても、それは無限に循環し、底が抜けてしまう。

法律学が精緻な体系を作ることができたのは、クオリアの問題に距離を置いたことによる。人間の主観的な体験は、数字には表せない。自然科学はこれを切り捨てたが、客観性と実証性を至上命題とする社会科学もこれに追随した。これが過度の客観性信仰をもたらすことになる。本来、人間の意識は絶対に消すことができず、人間を扱う学問から主観性を排除することはできないはずである。しかしながら法律学は、人間を権力者と市民とに分けた上で、主観的なものは恣意的に流れるとして、主観性をマイナスイメージの要素として扱った。かくして、権力者の恣意、裁判官の恣意の防止という政治的な問題が、客観性の信仰と主観性の軽視という問題に置き換えられる。法律学は、こうして心脳問題を消すふりをした。

犯罪被害者の苦しみや悲しみ、これは数量化できない。数量化できないものは、実証的な社会科学においては、その方法論の適用の対象はされない。これが、客観性と実証性を基礎とする法律学によって犯罪被害者が見落とされた理由である。この実証性を前提としつつ犯罪被害者保護を図ろうとしても、無理な数量化がなされるだけであろう。犯罪被害のパターンがケースとして分類され、サンプルとして蓄積され、研究材料となるのは最悪である。犯罪被害者保護政策と実証科学とは、そもそも関心がずれている。犯罪被害者の苦しみや悲しみを取り出すには、法律学の視点よりも、脳科学のクオリアの視点が役に立つ。この世のすべてはクオリアだとすれば、犯罪被害のクオリアというものも考えられるからである。