犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

長嶺超輝著 『裁判官の爆笑お言葉集』

2007-05-21 17:31:54 | 読書感想文
著者があとがき(p.217)で述べている通り、前例のない本である。10万部のベストセラーになるのもうなずける。見かけによらず、非常に哲学的な洞察を含んでいる。内部告発でもなければ、「日本の裁判が危ない」という紋切り型の主義主張でもない。法廷に通って傍聴をするだけならば誰でもできるが、裁判に対するこのような視覚の取り方は、まさに前例がない。「脱構築」の一種といえるだろう。

笑う哲学者・土屋賢二氏が述べている通り、答えが出ない哲学的な問題は、最後には笑うしかない。人が人を裁くとはいかなることか。人が人を裁くことは許されるのか。このような問題は、難しいことを言って誤魔化すよりも、笑って誤魔化すほうが正直である。『裁判官の爆笑お言葉集』という題名は、単なる揶揄ではなく、哲学的な真実は笑いの中に自然と示されるしかないという洞察を含んでいる。

著者の細かいところへのこだわりは、自然と問題点を浮き上がらせている。裁判官は、自分のことを主語として「裁判所」と呼ぶ(p.30)。これは、裁判官が人間がありつつ人間であってはいけない、この微妙な線を鋭く指摘している。専門家にとっては当たり前になっていることほど、深く掘ってみるならば、思わぬ問題を発見するものである。裁判官であっても、わからないものはわからないに決まっているが、法治国家においては誰かが裁判官をやらなければならない。そうである以上、裁判官が爆笑のお言葉を述べることによってのみ法治国家は維持される。少なくとも、法廷の権威が失墜することはない。

著者は、法の仕組みは「ある」か「ない」かの二項対立のデジタルであり、裁判とは日本刀を使ってキュウリやニンジンの飾り切りを作るようなもどかしさがあると述べている(p.9)。これは非常に上手い比喩である。デジタルな法的結論の中にあっても、裁判官は人間である以上、アナログの表情を消すことはできない。そして、被告人や被害者のその後の人生を決めるのは、むしろそのアナログの部分である。これは、従来の刑法学や刑事訴訟法学においては完全に見落とされてきた視野の取り方である。

長嶺氏は非常に文章力があり、このような10万部のベストセラーが書けるのに、なぜ司法試験に7回も落ちたのか。その答えも本の中に示されている。24歳の母親が自宅に生後4ヶ月の息子を置き去りにしたまま男友達と2連泊し、その息子が死亡したという事件の裁判が紹介されている(p.145)。この裁判で弁護側は、被害者には乳幼児突然死症候群の可能性がある以上、「遺棄」と「致死」との間の因果関係がないとして争った。著者はこの点について、「私には本質から外れた議論に思えてなりません」と述べている。

全くもって著者の述べる通りである。しかしながら、法治国家においてはデジタルな二項対立の技法を習得するのが「リーガルマインド」であるとされ、司法試験ではその能力が試されてしまう。すなわち、「遺棄」と「致死」との間の因果関係が事件の本質であるとして強引に論理を構築できる人が試験に受かりやすく、わずか4ヶ月でこの世を去った子供の人生を想像して絶句するような人は試験に受かりにくい。多くの国民は、長嶺氏のような人物こそ法曹になってほしいと思うだろう。しかし、デジタルな部分が肥大化した法治国家の司法試験においては、全く逆のタイプの人間が合格しやすいということである。

映画 『0(ゼロ)からの風』 続き

2007-05-21 17:27:49 | その他
刑事事件とその裁判の問題を扱った映画としては、周防正行監督が痴漢冤罪の問題を扱った『それでもボクはやってない』が大きな話題となった。この社会的反響と比べると、上映場所や上映期間を比較してみても、『0からの風』の反響はあまり大きくない。時期を同じくして、主演の杉浦太陽さんと辻希美さんとのできちゃった婚が発表されたが、その軽さと映画の重さとのギャップが大きく、あまりPRにはならなかったようである。

『それでもボクはやってない』においては、主人公は全くの無実で濡れ衣であるという正解が最初から与えられている。警察官も検察官も裁判官もすべて間違っているという答えが最初から与えられており、善悪二元論でわかりやすい。ストーリー性があって、感情移入しやすい。人間は、もしも自分が無実の罪で逮捕されてしまったら、犯罪者と疑われてしまったら、という想像をする。このような想像をすると、人間は本能的に血が騒ぐ。話が非常に単純でわかりやすいからである。無実であるにも関わらず有罪判決が下されたとき、そのストーリーは最高潮に達し、悲劇のヒーローが誕生する。

人間がこのようなストーリー性に感動したとき、そのような社会は改めるべきであるとの熱い主張が自動的に導かれる。我々は電車の中ではいつでも一方的に犯罪者に仕立て上げられる危険と直面しており、社会全体で問題としていかなければならないとの認識である。このような自らを正義の側に置く思想は、理想主義の青年に「われわれ意識」を生じさせ、団結を促すようになる。正解と不正解、善と悪の二項対立が明確だからである。

これに対して、もしも自分や自分の大切な人が被害に遭ってしまったら、という想像は楽しくない。そのような事態は縁起でもなく、本能的に考えたくない話である。血は全く騒がない。逆に血の気が失せ、血が凍る。被害者は悲劇のヒーローではない。ストーリー性がなく、感情移入しにくい。被害者の本当の悲しみは、被害に遭った者しかわからないからである。犯罪被害を経験したことのない人間にとっては、どうしても「われわれ意識」が生じにくく、理想主義の青年にとっては団結がしにくい。

我が国の裁判は、長きにわたって被害者を見落としてきた。その原因は、学問的な熟慮の結果としての選択よりも、このようなストーリー性の有無、感情移入のしやすさの差が大きい。人間は、血が凍る話よりも、血が騒ぐ話に流れやすい。そのほうが安易で気持ちいいからである。痴漢冤罪の問題については、その理不尽を解消する方法として、「無罪判決」という明らかなゴールを設定できる。これに対して、犯罪被害の問題については、「厳罰化」という明らかなゴールを設定することができない。もちろん、明確な解答がない問題のほうが、物事のより深い地点を捉えていることは当然である。それゆえに、伝わらない人にはなかなか伝わらない。