犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

「在る」と「無い」の条理と不条理 その2

2007-05-14 19:00:24 | 国家・政治・刑罰
不条理とは、不条理感という感情ではない。不条理とは、純粋に論理の問題である。人間が最愛の人の生命を奪われることは、論理的な誤謬である。人間の「生」が人智を超える謎であれば、人間の「死」も人智を超える謎でなければならない。「在る」が人智を超える謎であれば、「無い」も人智を超える謎でなければならないからである。これが弁証法の必然である。

犯罪で我が子を亡くした親が、犯人に向かって「娘を返せ」、「息子を返せ」と要求せざるを得ないのは、その生命を奪った原因が人智を超えていない他の人間だからである。人間の死因の代表的なものとしては、病気や天災、自殺などがある。その死はどれも不条理であり、それは人間の生死の絶対不可解さを示している。しかしながら、犯罪被害による死だけは、その不条理性の質が決定的に異なる。その生命を奪った者が他の人間であり、その人間がこの世に生きているからである。

死者があちら側にいるならば、行った者は帰ってくるはずである。人間におけるこの感覚は、弁証法の必然である。それでは、誰に対して「返せ」と要求することができるのか。病気の場合には癌細胞などといった病魔であり、天災の場合には人間の力を超えた天であり、自殺の場合には死者自身である。それらはいずれも不条理でありながら、その不条理は不条理であることそれ自体が条理である。これも存在と無、生と死の延長であり、弁証法的な反転の一つの表れである。

病魔、天、死者に対して、「死者を返せ」と要求することはできる。しかしながら、その叫びは、そのままその対象の中に消えてしまう。「返せ」という要求は、この世の不条理が弁証法的に条理に反転することによって、それぞれ病魔、天、死者自身の中に消える。これに対して、犯罪被害による死の場合にのみ、「返せ」という叫びは、いつまでも残り続ける。その生命を奪った者が、人間として生命を持って生きているからである。

死という概念は、生という概念との関係において初めて成立するものであり、人間には無がそれだけでは理解できないように、死もそれだけでは理解できない。にもかかわらず、他者の「在る」を「無い」に変えた人間が、依然としてこの世に「在り続けている」。これが犯罪被害の不条理である。哲学者が数千年考えてもわからない問題が、裁判で解けるわけない。少なくとも、病気や天災や自殺と並べて、死者一般の問題として取り上げ、遺族の心の傷という概念でくくる方法は、問題の核心を取り逃がしている。犯人が更生することが被害者への償いとなるという理屈は、もちろん論外である。