犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

藤井誠二著 『殺された側の論理』 第4章

2007-05-23 19:13:29 | 読書感想文
第4章 警察に「殺された」息子よ

犯罪被害者の権利を確立する動きは、被告人の人権を保護しようとする人権派弁護士と対立することが多い。その意味で犯罪被害者保護の活動は、保守的であるとみなされがちである。しかしながら、そもそも人間の生命や人生には右も左もない。人権派弁護士と対立する場合には、「左ではない」ということで、相対的に右になってしまうだけの話である。犯罪被害者の抱える問題は、政治問題ではなく、哲学的な問題である。松岡則子さんによる警察官への批判は、このことをよく示している。

松岡さんが何よりも傷つけられたのは、本来であれば市民の生命を守る立場にある警察官が、瀕死の被害者を残してその場から逃げ出した点である。さらには、警察側が「警察官の職務執行行為として正当であった」とのお役所的な弁解に終始している点である。ここには絶望的ともいえるシステムの自己矛盾がある。警察は国民の信頼を得なければならず、不祥事があってはならないとされる。そして、市民の生命を守る立場にある警察がその信頼を維持するためには、逆に警察官が市民の生命を守らなかったことを隠蔽せざるを得なくなる。この本末転倒は、近代国家の典型的な病理現象である。人間が脳内で作り出した「組織」と、その「組織に対する信頼維持」の絶対的なイデオロギーは、近代社会における変形ニヒリズムの表れである。

警察官が瀕死の被害者を残して逃げ出し、さらには事後の隠蔽工作を図った行動は、組織という「公」と、個人という「私」の両側面を持つ。組織が全体として不祥事を隠すことは、往々にしてその仕事への誇りの証明であり、職務熱心さの表れとして行われる。このような自己保身は、究極的には1人の人間としての実存的な本音に還元される。人間はその仕事において自己を自己として存在させ、職業上の肩書きを演じることによって自分の人生を形成する。そこでは、自分の不祥事による組織の信頼低下は、自分の人生に消しがたい汚点を残すことになる。ここでは、近代社会における「組織に対する信頼維持」信仰が、人間の生命よりも重く扱われることになる。

死者の尊厳に対しての姿勢は、殺された側と、そうではなかった側とでは必然的に異なる。これは、人間とは生まれて生きて死ぬという存在の形式から逃れられないことに基づく。「殺された側にしかわからない」という言い方は、紛れもない真実である。殺された側の供養は、殺した者と戦うことによってしか果たされない。殺した者を赦すことによる供養は、人間存在の形式において端的に矛盾であり、無理な欺瞞が混入せざるを得ないからである。