犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

藤井誠二著 『殺された側の論理』 第3章 その2

2007-05-16 18:55:38 | 読書感想文
第3章 息子のために阿修羅とならん

成人による犯罪は刑法で裁かれるが、少年による犯罪は少年法で裁かれる。現在の裁判はこのような単純な二分法から話を始めているが、これも殺された側の論理としては、初めから話が転倒している。犯罪被害者にとっては、被害に遭ったこと自体が問題であり、加害者が成人であるか少年であるかは副次的な問題にすぎないからである。我が国がこれまで被害者を見落としてきた原因は、被害者を主語にした文章を作ってこなかったことに基づくものである。

主語を「人間」ではなく「少年」としている少年法の議論は、その時点で人間の生死を扱う適格性のなさを示している。人間とは生死の論理的な形式そのものであり、年齢も死からの逆算としての論理形式としてしか捉えられないはずである。これを可塑性や更生の可能性としてしか捉えず、その上で殺人罪や傷害致死罪の議論を展開すれば、論点は迷走するに決まっている。人間の生命と引き換えにできるものは、人間の生命だけであって、立ち直りなどではない。これは単純な論理として当然の話である。

息子を少年たちの暴行によって失った青木和代さんは、見張り役の少年たちに対して、ある願いを持っていた。見張り役は直接手を下していないけれども、それでも自分たちを激しく責めるのではないか、いや、責めてほしいという願いである。これは当然の論理である。自分たちを激しく責める者だけが人間の名に値し、責めない者は動物に等しい。人間のみが、自らの行動を振り返って反省する精神を持ち、生命を持って生きていることそのものについて懐疑することができるからである。生きている者は死んでいないのだから、すべては自らの生命の重さの上に乗っている。ここで他人の生命を奪う原因を作ったとすれば、これは自己言及の不可解の前に絶句するしかない。絶句する者が人間であり、絶句しない者が動物である。少年たちは、自らが論理的には自殺しなければならない存在であることに気付いて、それに苦しんだ時に、初めて人間として生きるに値する地点に戻ることができるはずである。

しかし、見張り役の少年たちは、自らには責任はないと逃げ回った。民事訴訟の提起を受けた裁判所も、少年たちに法的責任は問えないと判示した。ここまで来ると、裁判は完全に中身のない儀式である。被害者遺族が捉えている哲学的問題と、現実に裁判所が扱いうる問題のギャップが大きすぎる。ここで少年の人権を前面に出して少年の可塑性に期待し、少年犯罪の問題を論じても、人権という概念が相当安っぽいものに下落している状況である以上、その後の議論もすべて安っぽいものになる。

少年たちは、それなりには立ち直って更生することができるだろう。しかし、残念ながら、動物は立ち直っても動物のままである。元々が人間の名に値しないのであれば、立ち直っても人間になることはできないからである。他人の生命を奪うということがいかなることなのか、自分自身を厳しく問いつめない限り、少年たちは更生したところで、最初の動物のレベルを超えることができない。被害者遺族が人権派による少年犯罪に関する主張に真面目に反論するならば、それは必然的に自らのレベルを下げてしまうことになる。青木さんが息子のために阿修羅とならざるを得ないのは、人権派の論理に抵抗する以上は不可避的である。