犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

池田晶子著 『新・考えるヒント』 第4章「良心」より 前半

2007-05-18 18:33:47 | 読書感想文
公務員が一般的・抽象的職務権限を異にする他の職務に転じた後、前の職務に関して賄賂が授受された場合に、受託収賄罪(刑法197条の2)は成立するのか。この点については、収受した者が公務員であれば収賄罪が成立するとする非限定説(判例)と、収賄罪は成立しないとする限定説とがある。非限定説から限定説に対しては、一般的・抽象的職務権限の同一性の判断基準が必ずしも明確でなく、賄賂罪の成立範囲をあいまいにすることになりかねないとの批判がある。また、限定説によるならば、公務員の身分を失った者についても一定の場合には収賄罪が成立するのと比較して権衡を失してしまうとの批判がある。

このような思考方法しかできなくなっている法律家にとっては、以下の文章の意味はよくわからないだろう。専門家と一般人のギャップはこの辺りにある。以下の賄賂罪に関する記述は、すべての犯罪に置き換えることができる。飲酒運転も振り込め詐欺も同様である。


p.55~ より抜粋

賄賂を受け取ろうとする者は、その法律の存在を思い、処罰を恐れ、思いとどまるに違いない。ということは、裏から言えば、法律がなければその者は賄賂を受け取る、受け取りたいという思いは常にある。その思いまでを法律は取締まれるものではない、法律とはしょせんそういうものだ。

倫理すなわち行為の規範を、自身の外に求める、あるいはそれは外にあるものだと思うのは、人間に非常に根強い一種の癖のようなものだと私は思っている。われわれは社会を形成している。これは事実である。しかし社会とは、個人の集合体に付けられた名称以上のものではない。これも事実である。社会などという得体の知れないものが、何か個人の意志を越えたところに存在し、個人を規定するものとしてあるかのように錯覚するところに、行為の規範を外に求めるという間違いの最初がある。なるほど法律は、個人の自由を規制するものであるが、その法律に従うか従わないかは完全に個人の自由である。これはあまりに自明のことであるが、その自明さに気づかないふりをするのは、自らその自由を望まないからだという以外の理由は考えられない。行為の規範は外にあるとしておく方が、自由のリスクを負わなくてすむという計算である。

人が規範を外部に求める理由は、内的規範によって自由に行為することを望まないという以前に、まず内的規範を自ら見出すための手間を省きたいというところにあるのかもしれない。つまり、自らものなど考えたくないということだ。

たとえば、倫理法なるものが制定され、倫理は外部にあるものと、人はいよいよ思いなすようになる。したがって、賄賂がほしいという思いそのものは、手つかずのまま内にあるから、賄賂がほしい者は、法律の目をくぐり、さらに巧みに賄賂を受け取るようになる。すると、法律はさらに厳しく整備され、それが倫理として人の行為を規定するようになる。このことは、法律がよく整備されるほど、人は馬鹿でもすむ以上、人がより馬鹿になることを願ってやまないことになりはしないか。