犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

存在論と認識論

2007-05-28 18:22:31 | 時間・生死・人生
存在論と認識論は、哲学研究の基本形態である。存在論とは、あらゆる存在者が存在しているということは何を意味するかを問い、存在そのものの根拠またはその様態について根源的・普遍的に考察する学問である。ハイデガーの主な関心はこちらにあった。これに対して、認識論とは、認識の起源・本質・方法・限界などについて考察する哲学の一部門である。カントおいて合理論と経験論の統合がなされ、批判哲学が完成した。

法律学は、哲学のうちの認識論から派生したものである。そこでは、存在論は認識論の端緒に過ぎないものとされる。罪が存在するのか、債権債務が存在するのか否かは、事実認定と証明責任によって決定される。そこでは、証拠物の証明力や、目撃証人の信用性が主な問題として扱われる。裁判が長引くのは、この認識論を問題とする刑事訴訟法の伝聞法則によるものが大きい。そこでは、被害者そっちのけで、目撃証人が弁護側の反対尋問によって攻撃されることになる。暗くてよく見えていなかったのではないか、人違いではないか、記憶があいまいなのではないかといった法廷でのやりとりは、どんどん細かくなって裁判を長引かせる。

近代刑法の裁判システムが犯罪被害者保護にそぐわないのは、この存在論と認識論という対立構図が大きい。認識論に基づく裁判においては、存在するか否かが問題にされるのは、被告人の犯した罪だけである。罪が存在すれば有罪であり、罪が存在しなければ無罪である。ここでは、ハイデガーが問題としていたような存在論については、そもそも眼中にない。しかしながら、犯罪被害者の興味は存在論のほうにある。それは、ある時には被害者の心の痛みであり、ある時には死者の無念である。このような文法は、裁判における事実認定の文法とは全くかみ合わない。

被害者の裁判参加制度に関する議論は、被害者の負担の大きさや、被告人からの報復の危険といった政治的な問題が中心となっている。しかし、最大の問題は、そもそも異なった文法が通じるのかということである。存在論における最大の問いは、「なぜ我が子は殺されなければならなかったのか」である。そして、被告人に対する最大の要求は「我が子を返せ」であり、裁判所を無力化する最大の言明は「犯人が死刑になっても我が子は戻ってこない」である。被害者の裁判参加制度に反対する立場の根底にあるものは、認識論のパラダイムが存在論によって壊されることを恐れる心情である。被害者の裁判参加制度によって近代刑法の根底が揺るがされるという表現は、突き詰めればこのことを意味するものである。